(by paco)前回は宿題を出して終わりました。それについて考えてみましょう。
宿題の確認です。
★あなたは偶然ネットでこの記事を見つけました。その時、あなたが立てるべきイシューは?
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イスラム教徒用水着「だめ」 仏の公営プール拒否で論議
2009年8月13日12時19分
http://www.asahi.com/international/update/0813/TKY200908130090.html
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【パリ=飯竹恒一】パリ郊外に住むイスラム教徒の女性(35)が、体の線などを隠すようデザインされた同教徒用の女性水着「ブルキニ」を着て地元の公営プールで泳ごうとしたところ、断られた。プール側は「衛生上、着込んだ格好で泳ぐのはだめ」と説明しているが、女性は「イスラム教徒への差別だ」と反発している。仏メディアが12日に伝えた。
ブルキニは、イスラム教徒の女性が顔まですっぽりと覆って着用する「ブルカ」とビキニを合わせた造語。パリジャン紙によると、頭髪を隠すベール、体を覆うコート、ズボンからなる。オーストラリア在住のレバノン人が07年に発案したという。
女性は「イスラム教の教えに沿い、体をあまりさらけ出さずに水泳を楽しめる」とブルキニの着用を決めたが、プールを管理する地元当局は「イスラム教とは無関係。ひざ上まである半ズボンの水着なども認められない」などとして拒否。女性は納得せず、市民団体の支援も受けて法的手段も辞さない構えだ。
政教分離を徹底するフランスでは、04年に公立学校でのイスラム教のスカーフ着用が禁止された。公共の場でのブルカなどの着用禁止を求める声も強まり、国会に調査委員会が発足したばかり。委員の間では、ブルキニを含むスポーツをめぐる問題も調査対象にすべきだとの声が出ているという。
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どんなイシューを立てたでしょうか。
イシューという概念にはいろいろな意味合いがあります。僕は本や研修では「今考えたいこと、考えるべきこと」をイシューと呼び、それを「主語・述語を持つ疑問文」で表すようにと言っています。
しかし、いきなりこういうイシューがぱっと思いつくわけではありません。イシューを決めることは何かを考えるときに非常に重要で、イシューの設定が間違えると、いくら考えても答えが出なかったり、おもしろい(興味深い)結論が出てこない。
■立場を設定する
まず重要なのは、自分がどのような立場で考えるかを設定することです。
考えるということは、主体的に考えることで、へんに中立的に考えても、わざわざ考えなくてもいいような結論しか出てきません。考えるからには、攻めて自分にとっては受け入れられる、興味の持てるイシューの方がいいし、それによって友だちを説得して、自分の考えに賛同してもらえるぐらいの方がいいわけで、いかに興味が持てるイシューを設定するかが重要です。
興味を持つためのひとつの方法は、自分を主語にしてしまう方法です。
たとえば、
「自分の妻・夫・友人などがフランス人で、上記の記事に『当然のことだ、ブルキニは禁止にした方がいいよ』という意見を言ったら、どう答えるか?」
「もし自分がこのフランスの公営プールの現場責任者(マネジャー)だったらどう判断するか?」
「自分がフランスのホテルの日本国内のホテルに勤務していて、ホテルのプールでブルキニを来た女性が来たらどうするか?」
「自分が日本国内の公営プールのマネジャーで、ブルキニを来た女性が泳ぎに来たらどうするか?」
など、自分が主体的に考えざるを得ないような場面設定を考え、その立場で考えると、真剣に考えられます。真剣に考えるのは、別に「宿題」だからではありません。同じ考えるなら、それなりに真剣に考えた方が楽しいし、実りも多い。主体的に考えないなら、わざわざ考える必要はないのです。
このように、何か気になるものにであったら、自分に引き寄せて考えることが、うまく考えられるようになる基本です。また、「フランス人の妻や夫、友人」がいるという設定の場合、彼らが自分の意見を聞きたがっていて、それなりの意見を言わないとかっこわるそう、というような設定にすること、フランス語ができてもできなくても、言うべき内容はきちんと考えないと答えられない、というように設定するとよいでしょう。
■法律や社会的な規範から考える
次に、自分が主体的に考えるにしても、何らかの足がかりを立てた方が考えやすいものです。僕がセミナーで「日本の難点」をテキストに使ったのものそのためで、全面的に賛成できるかどうかは別にして、一定のしっかりした立場を軸にして、自分の考えを総体的に位置づけると、ブレが少なくなります。
そこで、ブルキニを着てプールに入ることは、法律的にどうなのか、社会的規範やルールなどの面からはどうなのかを考えるというイシューがあります。
「ブルキニ着用拒否は、合法的なのか?」
「ブルキニ着用拒否の根拠になっている、この公営プールの利用ルールは、許されるルールなのか? プールのルールそのものが許されない、ということもあるのか?」
「プールのルールは、合理性のあるルールなのか?」
「ブルキニ着用拒否は、公式発表の通りブルキニが公衆衛生上問題があることが理由なのか、それとも宗教・風俗上の理由が本当の理由なのか?」
規範や法律、ルールから考えるのは、最もオーソドックスな思考法でしょう。と、同時に、どんなイシューを立てるにせよ、この法律や規範の観点から考えることは、必ず必要になるほど重要なことです。しかし、だからといって、それだけがイシューだというわけではないでしょう。
■人情から考える
社会的なあるべき論を離れて、個人としてみたら、どうなのでしょうか。たとえば、女性の場合、からだに自信があればビキニを着てみんなに見せたい気持ちになるかもしれませんが、恥ずかしいと思えば、ワンピースの水着を選ぶかもしれません。体系を出したくないからそういうデザインの水着を買っていったのに、それは水着ではありませんと言われたとしたら、むっとしますよね。逆に、公営プールはビキニ禁止、といわれたら、むっとするかもしれません。
「ブルキニを、プールにいた担当者の判断だけで拒否するのは、安易に過ぎないか?」
「プールには入れないのはかわいそうではないのか?」
「人権侵害ではないのか?」
「ぎりぎりしか隠さないデザインのビキニの方が、ブルキニよりよほど問題ではないのか?」
「もしこの事件が日本であって、自分のイスラム教徒の友だちが入るのを拒否されたら、自分は日本人であることを恥ずかしく感じるのか?」
「もし自分がプールに入っていて、ブルキニを着た女性が入ってきたら、どんな気持ちを感じるだろうか?」
ここでのイシューは、ルールの妥当性や善悪ではなく、感情的にどうなのかというイシューです。この事件のような状況を、自分としてはいいと感じるのか、よくないと感じるのか。拒否された女性に同情的なのか、女性の個人的な感情には入り込まない方がいいのか。
そういう気持ちの面について問いかけ、自分なりの答えを出すことも、「考える」ことのひとつです。
■社会のあるべき姿から考える
法律や規範は重要ですが、社会的な規範は時代によって変わるものだし、法律も国会にかけて変えてしまえばいいわけで、本来どうあるべきかを考え、それに応じたルールを作るという考え方もあります。
「ブルキニなどの衛生問題や安全問題を担保するために、プールではどんなルールを作るべきか?」
「プールではどのような服装が認められるべきか? 身体を覆いすぎるのも問題だが、身体を覆わない差過ぎるのも問題」
「一般的な服装と違うものを、どの程度まで認めるべきか?」
「個人の自由と服装の関係は、どのように関係づければいいのか?」
「社会は、異質な人をどのように受け入れればいいのか?」
「異質な人、異質な服装だからといって、排除される社会はよくないのか?」
■包摂性との関係から考える
さらに一歩進めて、社会が異質な人を受け入れるということはどういうことなのかを、ブルキニ問題を通じて考える、という点にフォーカスを当てて考えるイシューもあります。「日本の難点」では包摂性という概念が繰り返し登場します。社会がうまく回らなくなったのは、包摂性(さまざまな人々を包み込む状態)がなくなり、排除のメカニズムが多く働くようになったことが問題だと宮台真司は指摘します。
では
「この記事の場面では、包摂性はどのように捉えることができるのでしょうか?」
↑これ自体、イシューです。
ブルキニを着ている女性が排除されているので、包摂性がないように見えるので、
「フランスでも社会に包摂性がなくなっているので、ブルキニを着た女性が排除されているのか?」
というイシューもありえます。より根本に立ち返ると、
「服装についての社会の包摂性とはどのようなものか?」
というイシューになります。これをさらに一歩進めると、
「包摂性をあげるために、ブルキニを排除しているという可能性はないのか?」
実は、この一連の包摂性についてのイシューの深めこそ、この記事のいちばんおもしろいキモなのですが、それについては最後の書きます。
■イスラム移民と自国民の関係から考える
包摂性について考えるときに、避けて通れないのが、ブルキニを着た女性がイスラム教徒で、フランスというカトリック・キリスト教国でのできごとだという点でしょう。
「フランスは、異文化に対して排他的なのか?」
「なぜフランスは、イスラム教徒排除しようとするのか?」
というようなイシューがたちます。ブルキニという水着の問題ではあっても、イスラムという宗教の問題を避けて通れません。
「イスラム教が服装に細かく規定するのは、なぜ問題になるのか?」
というような知的関心をもとにしたイシューもありますが、
「イスラム教以外の宗教では、日常生活の服装を規定していないのか? あるとしたら、どのようなものか?」
というイシューもあります。
「イスラム教の服装は、フランス国民や、あるいは日本人にとって、排除したくなるものなのか?」
「イスラム教の服装は、フランス国民や、あるいは日本人にとって、どのような意味を持つのか?」
これをさらに推し進めて、
「イスラム教のほかに、服装にしばりが強く、排除されるような宗教や風習はあるのか?」
とイスラム以外に目を向けたら、
「日本の伝統文化には、そのような風習はなかったのか?」
と、我が身を振り返っておきましょう。ちなみに、日本は江戸時代までちょんまげで既婚女性はお歯黒を付けていました。お歯黒は、今日本人が見てもかなり気持ち悪そうです。公共の場で排除されるものとしては、入れ墨やタトゥーがあります。
「入れ墨禁止のプールや公衆浴場は、ブルキニ禁止のプールと同じように考えることができるのか?」
★まとめ
ほかにもいろいろなイシューがありえるでしょうが、サクサク考えただけでもこれだけのイシューが出てきます。問いを立て、それに自答していくことで、次の問いが生まれ、次の結論が出てきます。
ここで、コツをひとつ。
考えるときは、「答え」を出す方にはあまり力を入れずに、軽く仮の答えをだしながら、なるべく次の問いを出すことを意識しましょう。結論に向かうのは、たくさん出てきたイシューの中から、最も重要な核心部分のイシューが見つかってからです。
さて、上記のイシューの中で、特に重要なのはどれかと言えば、途中で予告したとおり、包摂性の意味を深める問いです。
この事件は、一見、ブルキニのイスラム女性を「排除」しているように見えます。しかし、ちょっとイシューを変えて、
「ほかの服装や宗教で排除されているものはないか?」
と考えてみると、前述の入れ墨やタトゥーの例があります。服装で排除されたり、「まずいよね」と思われるものに、たとえば軍服があります。もちろん国によりますが、平和な先進国の街中で軍服を着ていれば、かなり威圧的で、場所によっては(たとえば東京の高級ホテルのラウンジなど)では、排除の対象になる可能性もあります。ほかのお客様の迷惑になる、というような感じで。
欧州での例では、白人至上主義集団「KKK(クー・クラックス・クラン)」の全身白のかぶり物ワンピースがあります。白人至上主義の主張のもとにこの服を着ますが、同時に社会の中で異人種を排除する思想として、危険視されています。
もしKKKの白装束でプールに入りたいと言ったら、プールの中の雰囲気はどうなるでしょうか? 日本で言えば、日の丸のはちまきをして、ふんどしで姿の男子が集団でプールに入るような感じでしょうか。
もうひとつのイシューとして、フランスは啓蒙主義、コスモポリタニズムの国だという点です。フランス人は文化に誇りを持っていますが、その文化とは、「フランス民族固有のもの」として定義されるのではなく、全ヨーロッパの文化の頂点に立つフランス文化、と位置づけられ、その根っこには地中海世界を支配して史上最初の帝国、ローマ帝国があります。ローマ帝国は北アフリカや中東、ゲルマン諸族などの異民族の力を統合し、ローマ元老員の支配階級が頂点に立つしくみです。異民族を排除することなく統合し、支配するからこそ、大帝国になったという誇りがあります。
フランス、ドイツを中心とするEUも、同じように異民族を包摂しながらも、欧州としての文化を維持し、多様な人々を統合することにこそ意味を見出しているのです。
だとすると、ブルキニ問題は、単に「異文化排除、イスラム排除」の文脈や、それについての法律、規範では語りきれない奥行きを持っていることになります。イスラム教の規範を守ることがイスラム教徒にとって重要であっても、それを認めることが、ローマ帝国復活を希求するフランスの人々にとって、どのような意味を持つのかを位置づけることは、それとはまた別の次元の意味を持つことがわかります。
ということで、「what?セミナー」受講メンバーにとっては、だいぶ「答え」に近づいちゃいましたが、まだ正解は書いていないので、引き続き考えてください。
イシューを立て、答え、答えにはまり込みすぎずにイシューをさらに立てることを繰り返して、全体のイシューを浮き彫りにしつつ、避けて通れない重要なイシューを掘り起こしていく。
本当の結論を出すのは、このあと、しっかりした思考をしてからのことになります。
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