(by paco)418「イシュー」を使いこなす

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(by paco)ロジカルシンキングを学んだことがある人なら、必ず出てくるのがイシューという言葉です。どういう意味だっけ?

「今考えたいこと」です。

単純なことです。

でも、この単純なことが難しい。今回は、イシューを使いこなす方法を考えていきます。

僕はロジカルシンキングの「研修」だけでなく、ワークシートスタディで回答してもらい、スコアリングとコメントを返すという仕事もしているのですが、その中の課題に以下のようなものがあります。

▼演習「少子化対策」
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課題文を読んで、以下の問いに答えてください。
(1)筆者がこの論説文を通じて伝えようとしているメインメッセージは何か?
(2)主張のための文章としてみたときに、事実と主張とのバランスは妥当か、妥当でないとしたら、その理由は何か?
(3)この文章のメインメッセージが主張として不適切である理由を説明してください。
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■人口減少 子育て支援の有効性探れ

今年上半期の半年間で日本の人口がわずかながら減っていることが、厚生労働省の人口動態統計(速報値)で明らかになった。人口減少社会は政府予想を上回る速度で迫っている。全国の市区町村に提出される死亡、出生届に基づいて集計された速報値によると、1?6月の出生数は53万7,637人で、死亡数を3万1,034人分、下回った。つまり、その分だけ、人口の「自然減」を記録したことになる。
政府予測では、日本の人口は来年、1億2774万人でピークに達し、平成19年から減少に転ずるとされていた。冬場に高齢者の死亡が多い上半期に比べ、下半期は例年、死亡が減り、出生は増える傾向があるため、予測より2年早く、今年から人口減が始まるかどうかは微妙だが、速報値は変化が待ったなしで進んでいることを印象付けた。
総選挙でも人口減少社会に対応するための少子化対策は一段と大きな争点になるはずだ。各党のマニフェスト(政権公約)はすでに「子どもは社会で育てる」(自民)、「子どもが健やかに育つ社会」(民主)と社会全体で子育てに取り組むことの必要性を強調している。人口が減れば、社会の働き手としての女性の存在感は増していくが、同時に次代を担う子供たちを産み育てる役割も期待されている。その両立が可能な社会でなければ、日本には衰退の道しかないだろう。ただ問題は、個々の支援策がどこまで少子化対策として有効なのか、その評価が必ずしも定まっていないことだ。
たとえば、表現に相違はあるものの、各党とも児童手当の充実を掲げている。確かに子育ての経済負担の軽減は大切だが、現金給付は人気取りのバラマキ政策に終わるおそれが強い。子供を育てながら仕事を続けられる環境の方が一時的な現金より切実なニーズだろうし、当面は子育てに専念し、一段落したら再び働ける仕組みを望む女性も少なくないだろう。人生がそうであるように、子育てのかたちもいろいろである。単一のモデルもないし、切り札となる解決策もない。総選挙の論戦を、メニューの効果を吟味できる機会にしたい。
(2005年8月26日 産経新聞社説)
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と言うものですが、今回はこの課題の解答や解説をすることが目的ではありません。考えるにあたって、イシューの設定がいかに重要か、どのように設定するべきなのかを考えていきます。

まず、課題(1)は、「この文章のメインメッセージは何か?」ですから、最初に考えるイシューがこれになります。この文章のメインメッセージは?

……ちょっと考えてみましょう。

よくある回答の例としては、「少子化対策をしっかりやるべきだ」というメインメッセージを答えるパターンですが、実はこれは正解ではありません。なぜか?

……ちょっと考えてみましょう。

日本語の文章では、結論は文末に置くのが作法です。ということは、これがまともな文章なら、文末に書かれていることがメインメッセージです。「総選挙の論戦を、メニューの効果を吟味できる機会にしたい」とあります。つまり、「選挙戦を通じて子育て支援の適不適を見極めよう」というのが筆者の主張です。先ほど見つけたイシュー「少子化対策をしっかりやるべきだ」との違いはわかりますか? 

「総選挙の論戦を、メニューの効果を吟味できる機会にしたい」→主語はweで有権者全体

「少子化対策をしっかりやるべきだ」→主語は"I"で筆者

もうひとつ考えられます。

「与野党は、少子化対策をしっかり立て、マニフェストで提示して、判断を仰げ」→主語は与野党=政党

微妙に違いますが、どれがメインメッセージでしょうか?

この社説を論説文として尊重するなら、やはり文末の「総選挙の論戦を、メニューの効果を吟味できる機会にしたい。」であるべきです。しかししばしばそれ以外のものをメインメッセージにしたくなります。なぜでしょうか? 筆者は文末に持ってきた有権者を主語にした言葉ではなく、本当は政党が主語か、Iが主語のメッセージを出したいのです。しかしメッセージを読者に近づけるために、最後の1文を付け加えたのでしょう。主語がIや与野党なら、読者=有権者は傍観者でいいことになるのが気になったのだと思います。

では、改めて問います。筆者のメインメッセージはどれでしょうか? 筆者が本当にいいたいこと(与野党が主語)?、筆者が文章構成上の結論にしたこと(有権者が主語)? おそらく、論理思考がかなりできる人の中でも、ここで意見が分かれると思います。僕は、文章のプロの書き手なら、何が何でも文末に責任を持つべきだと考えているので、「主語は有権者」がメインメッセージだと考えます。書き手を書き手と尊重した上で、書かれた内容を批判(吟味)することこそ、書き手に対する礼儀だと思うのです。結論としておかれていない部分(与野党が主語)を「本当はあなたのいいたいメインメッセージはこれでしょ?」と勝手に想定した上で、それについて批判するのは、やはり批判の主峰としてズルだと思うからです。

ということで、課題(1)の回答は、「選挙戦を通じて子育て支援の適不適を見極めよう」になります。

これをメインメッセージと設定したうえで、筆者の論理展開が妥当かを考えるというのが、「批判的(クリティカル)」読み方なのです。

ここまで考えると、筆者が考えようとしたことと、結論がはっきりします。

「少子化対策はやらなければならないことを前提にした上で、どのような対策を打てばよいか?」(問い=イシュー)

これに対する回答が、

「筆者としては、これがよいという提案はわからない。政党がいろいろ策を出してくるので、選挙戦を通じて見極めようね」(結論=メインメッセージ)

これが文章が書かれた動機(イシュー)と結論です。

イシューと結論をセットとして抑えた上で、その間の論理展開が妥当かどうかを考えると、筆者の主張に合理性があるかどうかがわかります。

筆者の問題は大きくふたつあり、ひとつは、人口減少の事実についての情報量が多すぎること(前半4割ぐらい)、もうひとつが、吟味せよといっているのに、筆者自身は「何をすればいいかわからない(ばらまきもダメ、人によって求めるものがちって一律には行かない)」と判断を放棄している点です。論説の筆者が判断を投げているのに、読者に判断せよと求めるのはあまりにも無責任ですね。無責任なので、読んでもおもしろくないのです。

筆者の文章の問題点はほかにもいろいろあります。たとえば、「人口減少が本当かどうかわからない」といってみたり、「人口減少のどこが問題なのか、国が衰退すると言える根拠が示されていない」とか、「人口を増やすなら、少子化対策より、外国人の流入促進の方がいいのではないか?」とか。しかし、これらの点を批判しても、筆者への批判としてはたいした批判にはなりません。なぜか?

それは筆者の核心に当たる論理展開を攻めていないからです。筆者の論理展開の核心部分は、イシューとメインメッセージの間にあります。筆者のイシューは、少子化対策にあるので、少子化対策が出てくるまでの論理展開は筆者のメインではありません。筆者のイシューは「人口減少を食い止めるには?」でもないし、「国の衰退を食い止めるには?」でもありません。「少子化対策をどうればいいか、それを提示する政党の政策を見極めよ」にあるからです。

もし、「人口減少を食い止めるには?」がイシューなら、「少子化対策を見極めよ」では、問いと答えがつながらないのです(イシューがずれている)。

イシューがずれたことについて批判する(指摘する)ことがいいのか、イシューとメインメッセージは了解した上で、論理展開を指摘すればいいのか。確実に筆者の問題を指摘するには、イシューとメインメッセージを認めた上で、中間の論理展開のまずさを指摘した方がダメージが大きいのです(実は、相手が自分より目下の場合、イシューがずれたことを指摘した方がダメージが大きくなります。相手が対等か目上の場合、イシューとメインメッセージは認めた上で、論理展開を指摘した方が、効果的です)。

 ★ ★ ★

と、ここまではいいでしょうか。ちょっと込み入っているので、何回か読み返した方がいいかもしれません。

ここで重要なことは、「イシューとメインメッセージは常にセットで考える」こと、「メインメッセージは、文章や言葉の作法通りに抽出する(文末が結論)」のが、書き手を尊重したことになるのだということを押さえてください。イシューとメインメッセージを押さえた上で、その間の論理展開が適切か不適切かを吟味し、それ以外のところにはあまり関わらないようにします。

これを習慣にすると、ものごとの理解が確実になり、正しいものは正しいと考えられ、おかしいものはおかしいと言えるようになります。

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さて、ここで練習問題です。

「人生のwhat?を見つけるセミナー」の受講者にだした卒業課題(夏休みの自由研究)。

以下の記事について、次のことを考えてください。


▼卒業課題(夏休みの自由研究?)
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(1)あなたは偶然ネットでこの記事を見つけました。その時、あなたが立てるべ
きイシューは?

(2)そのイシューに対するあなたの結論は?

(3)その結論に至る理由を説明してください。

※3つの問いは、当然ですが、今回セミナーで学んだことを応用してくださいね。
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回答には【卒業課題回答】とタイトルを付けて、答えていない人が不用意に読ま
ないようにしておきましょう。クリシン方式ですね。


イスラム教徒用水着「だめ」 仏の公営プール拒否で論議
2009年8月13日12時19分
http://www.asahi.com/international/update/0813/TKY200908130090.html
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【パリ=飯竹恒一】パリ郊外に住むイスラム教徒の女性(35)が、体の線などを隠すようデザインされた同教徒用の女性水着「ブルキニ」を着て地元の公営プールで泳ごうとしたところ、断られた。プール側は「衛生上、着込んだ格好で泳ぐのはだめ」と説明しているが、女性は「イスラム教徒への差別だ」と反発している。仏メディアが12日に伝えた。

ブルキニは、イスラム教徒の女性が顔まですっぽりと覆って着用する「ブルカ」とビキニを合わせた造語。パリジャン紙によると、頭髪を隠すベール、体を覆うコート、ズボンからなる。オーストラリア在住のレバノン人が07年に発案したという。

女性は「イスラム教の教えに沿い、体をあまりさらけ出さずに水泳を楽しめる」とブルキニの着用を決めたが、プールを管理する地元当局は「イスラム教とは無関係。ひざ上まである半ズボンの水着なども認められない」などとして拒否。女性は納得せず、市民団体の支援も受けて法的手段も辞さない構えだ。

政教分離を徹底するフランスでは、04年に公立学校でのイスラム教のスカーフ着用が禁止された。公共の場でのブルカなどの着用禁止を求める声も強まり、国会に調査委員会が発足したばかり。委員の間では、ブルキニを含むスポーツをめぐる問題も調査対象にすべきだとの声が出ているという。
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★さて、今回は(1)を考えてください。というか、(1)が決まれば、(2)もある程度決まってくるとは思いますが、とにかく(1)のイシューを決めてみましょう。

やってみましたという方は、以下の要領で回答をお寄せください。

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to:paco@suizockanbunko.com
sub:自由研究回答
本文:
イシュー「…………」
説明「……このイシューに決めた理由や、決めた経緯を簡単に説明してください」
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これについては、来週のコミトンで続きを書きます。

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