(by paco)今週は、2つの話題を取り上げながら、「だめな理由」を考えてみます。
■薬物汚染は「ダメ」なのか?
酒井法子が覚醒剤所持容疑で逮捕されました。前後して、酒井の夫も覚醒剤容疑で逮捕。さらに押尾学が合成麻薬で逮捕されました。
芸能界に薬物汚染が広がっているのは今に始まったことではないのですが、こう立て続けに逮捕者が出るのにはびっくりします。
薬物は、やる人とやらない人、というか、興味がまったくない人と、興味がある人+やっている人の差が非常にはっきりしているので、やらない、興味がない人にとっては、薬物使用の現状にはまったく興味が湧かないし、「特別な人のこと」と考えがちです。しかし現在日本は非常事態に近いぐらいの薬物汚染時代で、身近に薬物がある状況です。
ニュースになってもみんなすぐに忘れてしまうので、すこし前に複数の大学の学生が大麻を栽培、使用していたことで逮捕されたことも覚えていないかもしれませんが、世代を問わず、薬物使用は広がっています。
僕は大学で教えることもあるので、大学生には、必ず3つのことを話しています。ひとつは、薬物汚染、ふたつ目は性感染症、三つ目は鬱からの自殺です。大学生にとっても、この3つはかなり身近な存在であり、かつ相互の関係して起きる可能性もあるのです。
では、大学生に限らず、薬物に興味があったり、使用したりする人に対して、薬物使用がなぜいけないのか、あなたは説明できるでしょうか?
……あなたなりの説明ロジックを考えてみてください。
薬物を使えば、薬物依存状態になり、放置すれば廃人同様になって社会生活が送れなくなります。では、薬物を使用する本人の健康を害することを理由に、薬物をやめるようにいうのでしょうか?
法律違反が理由になるのでしょうか?
薬物は安くありません。経済破綻のリスクが高いことが理由でしょうか。
薬物を肯定する人は、ことごとく反論するでしょう。
クスリをやっても、すぐに廃人になるわけではないし、自分は簡単には依存にならない。冷静でいられるのだというかもしれません。実際、「酒井法子が廃人同様で社会生活ができない」状態だったということはなさそうです。また仮に中毒になったとしても、それは自分が好きでなっているだけで、「自己責任」の問題であり、それさえ納得すれば、人に非難されるようなことではない、という人もいるでしょう。自分が好きで薬物をやり、廃人になったとしても、まあ親兄弟は多少悲しむかもしれないけれど、親きょうだいも、薬物で自分が幸せになったのなら、それなりに認めてくれるはずという人もいます。まして、他人がとやかくいうようなことではない、というわけです。
法律違反は理由になるのでしょうか? 確かに法に触れる行為はするべきではありませんが、薬物の場合、禁止する法律自体が必ずしも合理性がありません。世界では大麻など中毒性の低い薬物は合法にしている国もあるし、一方で売買や所持だけでいきなり死刑になってしまうような場合もあります。国によって考え方が違うのはわかるとしてもこんなに違うなら、薬物が「犯罪だ」という考え方自体が間違っているのだ、と主張する人います。完全に禁止すれば地下に潜ってしまうから、軽いものなら合法化した方がいい、と考える人もいます。
3つ目の経済破綻は、理由になりません。お金持ちなら、薬物をやってもいいことになります。あるいは、自分の経済の範囲内で楽しむ分にはいいじゃないか、と。
こういう反論はヘリクツだと思うかもしれませんが、薬物を否定するロジック自体にも破綻があるのは事実です。僕たちは、薬物を否定できるのでしょうか?
実は、薬物を否定するロジックを成立させるには、「他人」は自分の行為に「とやかくいうことができる」ということを説明する必要があります。別の言い方をすれば、「他人に迷惑をかけなければ何をしてもいい」という、よくある倫理観を否定する必要があります。
ちなみに、薬物をやる人間がいると、密売人が儲けて、裏経済ばかりが活性化し、日本経済がダメになるというような議論もありえますが、だったら薬物を合法化してしまえば、麻薬取引もGDPに乗ってくるので、そのほうがよいということになってしまいます。
これは自殺も同じ構造ですが、「自分が自殺しても誰も困らないし、迷惑もかけない(したいの処理ぐらいは「ごめんなさい」してしまうが、好きにしてください)」と考える自殺志願者(追い詰められた人)に、なぜ自殺はいけないのかを説明するロジックを、人間社会は持たないのです。
自殺を思いとどまらせる(自殺を考えるほどに精神的に追い詰められている人を少し楽にさせてあげるような)最も有効なメッセージは、「あなたがいてくれると私がうれしい」「あなたがいない世界を生きるのは私は悲しい」というものだ、といいます(自殺を予防するワークショップからの知見)。同じように、「あなたが薬物を使って理性の一部を失うのは、私は悲しい」というメッセージは、薬物中毒者が立ち直るときの大きな支えになります。
しかし、このメッセージは倫理や善悪判断から出てくるメッセージではなく、あくまでばらばらな個人が社会の中で他者と関わって生きていく、という事実から生まれたものです。個人型者と関わらずに生きていくような形になってしまうと、メッセージそのものが有効性を失ってしまうのです。
このことから、今一番必要なのは、「薬物はダメ」というメッセージを発すること以前に、「薬物をやるあなたを見るのは悲しい」というメッセージが意味をなすような、「私とあなたの関係」をつくって行くことで、個人と個人がばらばら孤立にならないように、誰もが誰かと関わりをきちんと持つ社会を、「再構築」することにあります。
そういう意味で考えると、酒井法子と高相何某には、そういうかかわり方をしてくれるお友だちがいなかったということになるのかもしれないし、あるいは友だちがいても、その人が真剣に彼らと関わりを持とうとしなかった、ということなのかもしれません。
このことを逆に言うと、「友だちなら、きちんと自分の考えを相手に伝えよう、人のことだからと遠慮していわないことこそ問題だ」という「おせっかいの進め」が教訓として出てくることになります。
もしあなたの友だちが薬物をやっている可能性を感じたら、それを指摘してやめるように、悲しいなと言えますか?
■ホモセクシュアルのビデオに出るのはダメなのか?
今週はもうひとつ興味深いニュースがありました。
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墜ちたスポーツマンシップ AV出演する体育会系学生たち
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/090726/crm0907261801008-n1.htm
大阪経済大学(大阪市東淀川区)ラグビー部員、OBと立命館大(京都市)アメリカンフットボール部員が過去にアダルトビデオ(AV)に出演したことが相次いで明らかになった。伝統ある体育会系クラブで発覚した風紀の“汚染”は、学生スポーツ界に大きな波紋を呼んでいる。大経大によると、学生らが出演していたビデオは、いわゆる「ホモセクシュアル」な内容だったという。大学スポーツで鍛え抜いた体は、特定のマーケットで根強い人気があり、学生たちの間で「お金になるバイト」としてひそかに広がっていたという。
--中略--
大阪経済大ラグビー部員のAV出演は、7月10日に同大で開かれた会見で明らかになった。大経大では、1日にラグビー部員3人が大麻取締法違反(譲り受け)容疑で逮捕されており、この日の会見では、不祥事を受けて、ラグビー部の活動を無期限停止処分にすることが発表された。が、現場に集まった記者の関心は、新たに発覚したAV出演に移り、質問が集中した。
--中略--
報告を受けて、大学側はただちに事実確認に着手。出演ビデオの存在を把握したあと、8日、出演した学生のヒアリングを行い、口頭で注意(叱責)したという。
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さて、あなたはこのラグビー部員は「失跡」など<処分>に当たると思いますか?
あなたの甥っ子や息子がホモセクシュアル向けのビデオに出ていたら、どう話しますか?
で、この件についての僕の意見は、上記の薬物のときの反対で、「この学生への失跡や制裁は不当である」というものです。
上記の薬物や自殺の論理を援用すれば、ホモAVに出るのは、「あなたの勝手」ではなく、「あなたがAVに出ると、私は悲しい」と話さなければならないとなりそうです。でもそれは違う、と考えます。
なぜか? 両者は構造は似ているのですが、やはりかなり意味が違う。最大の違いは、行為の結果が何をもたらされるのかという点です。薬物や自殺は、負荷逆な結果を招きます。自殺はもちろん取り返しが付かないし、未遂でも心や体に傷を負うことがほとんどです。薬物は、自分では「薬には飲まれていない、いつでもやめられる」といっていても、結果的には中毒はどんどん深まって行きつつ、理性や知性の部分が薬によって縮小していき、人格が変わってしまいます。人格が変わっても、本人がいいならいいじゃないかと言うことになるわけですが、それは、これまで友だちだった私としては、「悲しい」ことだというメッセージになるわけです。と同時に、現実問題として、薬物や非合法であり、やはり進んで非合法のことを認めるわけにはいかないという背景もあるでしょう(説得力はないとしても)。
一方、ホモAVに出ることは、どうでしょうか? 不可逆の変化を本人にもたらし、本人や周囲によくない影響を与えるでしょうか。
ホモAVそのものは、合法なものです。女優が出る普通のアダルトビデオも、映倫のチェックを受けたモザイクのかかったものなら、合法ですから、女性がAV女優になること自体は合法です。
しかも、ホモAVでは、男性は同性愛敵性行為を行うわけではなく、単に裸になって椅子に座っているとか、ベッドにいるとか、そういうシーンも多いようで、必ずしも性的な感情を呼び起こすものではないといいます。というより、もしノンケ(同性愛指向のない)の男性が見れば、性的感情を起こすわけがないし、女性はもともとヌード映像などで欲情することが少ないので、いずれにせよ、ホモAVが浴場の対象になるのは、ホモセクシュアルな男性たちに限られます。生殖器を隠した裸の男性を写したビデオに出るのと、水着を着た姿をDVDにとられるグラビアアイドルの、果たしてどちらが「その行為の結果としてよくない不可逆的な変化を招く」のかと考えれば、おそらくむしろグラビアアイドルの方が大きな変化になる可能性があります。ホモAVのマーケットとグラビアアイドルのマーケットを比べれば、後者の方が圧倒的に大きく、金銭的にも人気的にも大きな影響があるからです。
ではなぜ、運動部の男子はホモAVに出演するのでしょうか。
運動部は練習がきつく、普通のアルバイトをする時間がとりにくいのです。短期間でまとまったお金を手に入れられ、かつ「バレル」可能性が低いホモAVは、彼らのニーズに合っています。また運動部できつい練習を経てつくられた彼らの肉体を、誇示してみたいという気持ちもあるでしょう。ナルシストな感情です。相手がホモだと思うと眉をしかめる人もいるでしょうが、ボディビルダーのことを考えれば、ほんのわずかな布きれを付けて肉体を誇示することが「当然のこと」として受け入れられているわけで、ホモAVとボディービルの違いを「善悪」の面で説明するロジックは、かなり破綻しそうです。
もうひとつ隠れた問題として、同性愛者に対する偏見があります。グラビアアイドルとしてDVDに出る女子学生に対して、果たして「叱責」するかといえば、そういうことはないでしょう。男子学生からは注目され、女子学生からはあこがれの目で見られるかもしれません。にもかかわらず、ホモAVについては「汚染」といってしまうメディアの表現は、明らかに同性愛者に対する偏見が隠れていると言えます。
ということで、運動部員がホモAVに出ることは、(1)法律的に、(2)経済的・時間制約的に、(3)本人のナルシシズムを満たすという面で、(4)偏見の面から、いずれも非難には値せず、自由にさせていい話と考えられます。実際、大学側は、「刑事上の問題はない」と明言しているし、記者とのやりとりを見ても、記者が「悪いことをしている」と決めつけの態度をとっているのに対して、大学側は、何を根拠に学生を非難できるのか、迷っている印象です。
以上のことから、ホモAVに出る大学生は非難するに値せず、叱責を受けた学生は正々堂々、悪いことは何もしていないと反論し、名誉毀損で訴えてもいいと思います。一方、薬物使用や自殺の問題は、論理的な反論はできなくても、だまってみすごすことはできない事象です。
同じように「個人の自由でしょ、口出ししないで」というようなことであっても、まったく性質が違うことだというように、切り分けて考える能力がとても重要です。そしてその能力の基礎になるのが、先週まで見てきた「日本の難点」に書かれているような社会学や哲学など、人文科学の論理で、僕たちはこういう知見を背景にすることで、社会にある現象に対してしっかりした定見を持つことができるのです。
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