(by paco)先週金曜日、人生のwhat?を見つけるセミナー&ワークショップは無事全5回を終了しました。参加いただいた皆さん、タフなセミナーにおつきあいいただき、ありがとうございました。
僕自身としては、こういったセミナーは以前からやりたいと温めてきた企画だったので、意欲の高い受講者の皆さんに集まっていただいて、セミナーを開催できたことは、何よりの喜びで、いちばん得るものが大きかったのは僕自身であることは間違いありません。
今週は、全5回を通じて伝えたかったことを、改めて整理していきます。
■なぜ社会学か?
今回は、宮台真司という社会学者の本をテキストに、セミナーを行いました。「なぜこの本を選んだのですか?」という質問を受けるので、改めてここで答えておきましょう。
「日本の難点」を選んだ理由は、3つあります。ひとつ目は、人生のwhat?を定めていくためには、哲学とか社会学とか心理学とか、人文系の学問の知見のうちの少なくともひとつ、できればふたつぐらいの領域で、ある程度専門的な本や専門家の知見をきっちり学んでおくことが、効果的だという点。ふたつ目は僕自身、宮台真司は10年以上前から著作を読み続けていて、彼の基本的なスタンスや考え方に共感を感じていたこと(特に彼の知見がぶれていないことに大きな意味がある)、3つ目は宮台を代表格とする現代の社会学者の本の中では、この本は比較的読みやすく、かつボリュームも新書版ということで手頃だった、などが上げられます。
グロービスのクラスのあとの懇親会や、さまざまなパーティ、交流会などの場で、ビジネスや世の中の「あるべき論」を雑談モードで話すことがよくあります。たいていの場合は、僕が話し始めるというより、話しかけられてこういった話題になることが多いのです。おそらく、植林をやったり環境問題に取り組んだり、家庭を大切にしていたりと、ビジネスオンリーの人ではないという点に興味を持って話しかけてくる人が多いのではないかと思います。
こういう場で話をするときに出てくる議論に共通するのが、議論が浅くて根っこがないので、少し話すとすぐに話題が逃げてしまうというか、思考停止に入ってしまうという点です。特徴的な言葉としては、「環境によって違う」「人それぞれ」「いろいろな考え方がある」などの言葉で議論を終わらせてしまうパターンです。
相手の方からこういうことが場出てくると、あとは僕が一方的に話すことになりがちです。大きな視点では社会のどのような動きがあること、小さな視点ではどんなファクト社会の中に起きているかということ、それに対する基本的な考え方と、処方箋。そんな流れで話を始めると、やりとりについて来れなくなる人が多くなります。
僕が、幅広くいろいろな分野について、その場その場で自分の考えを表明できるのは、なぜなのか。他のビジネスパースンとどこが違うのか。その違いの根底に、社会学や哲学的な知見についての理解があるかどうかがある、と気がついたのです。
知識量も、確かに重要です。たとえば、貧困やワーキングプアの問題について話す場合、現在広がっている貧困はどのようなものなのか、ある程度のファクトを知識として知っているかどうかは重要です。でも、相手によってはこういった知識を持っている人も多く、知識を持っているかどうかと、自分の考えを話せるかどうかは、必ずしも相関しないことに気づくのです。
やはり違いは、社会学や哲学などの人文科学の知見があるかどうかにあるのです。自分科学の知見があるとなぜ自分の考えがはっきりするのか。それは、自分科学がもつ、抽象化の力にあります。社会にある減少やファクトは、個別的で多様です。社会のさまざまな場所に広く存在し、時間軸で見れば、過去から現在、さらに未来につながることが普通です。こういった問題について語るには、抽象化された概念が不可欠なのです。
一例を挙げてみましょう。「日本の難点」の中には、「包摂性」という概念が出てきます。社会の包摂性が失われたことから、さまざまな問題が起きているというように論理展開されるのですが、この包摂性の概念を使うと、多くのことが説明できます。
たとえば、貧困やワーキングプア、自殺者が多い、などの問題は、「たかだか仕事を失った」ぐらいのことで、立ち直れないほど困窮してしまうのはなぜか?というイシューに還元され、仕事を失うという「落ちるきっかけ」があったときに、軽症のうちに支えるようなしくみ(相互扶助)が失われたことが原因だと指摘されます。グロバリゼーションを背景にした企業社会の仕組みの変化も確かに原因の一つですが、それは日本に限らず世界中で起きていることであり、コントロールが難しい。また他国の例では支え合いの仕組みが機能していれば、落ち込んだあげく立ち直れないというような状況は回避できている例もある。グロバリゼーションや競争原理そのものを原因と捉えるより、「落ちるきっかけ(失職など)」のあとのささせ江合のしくみが失われたことが、貧困やワーキングプアの原因だと捉えたほうが合理的だ、と示されます。
秋葉原無差別殺人のような事件があると、グロバリゼーションや競争社会が原因という言説が多いのですが、それらは原因ではないし、原因としたところで解決策が見つからない、ということになります。一方、包摂性が失われたことを原因と捉えれば、説明も付くし、解決策も見えてくる。ひとつの概念(包摂性の消失)で、多くの問題を説明でき、かつ解決策が考えられるという点で、社会学や哲学のもつ抽象的な考え方のメリットが理解できます。
ちなみに包摂性の概念では、他にも、少子化や女性の社会進出困難の問題、介護、農村疲弊など、さまざまな問題が説明できるし、処方箋も考えることができます。
包摂性の考え方自体を理解することはなかなか難しいのですが、しっかり読み込んで、概念をつかめば、理解が進み、視野が広がり、処方箋も立てやすくなり、社会のあちこちにある事例から学びやすくなります。
これが、今回僕が、「人生のwhat?をみつける」というテーマに対して、社会学の本をテキストに選んだ理由です。
と同時に、そのメリットを活かすためには、包摂性のような主要な概念をしっかりつかむまでは、本を上っ面だけでなく、背景までも含めてじっくり読み込む必要があります。今回のセミナーでは、毎回1章を扱うことで、細部まで読み込むことができ、ズレがちな概念理解を僕とのディスカッションで修正しつつ勧めることで、受講者が的確な理解に近づけたと思います。
もちろん、僕の理解も十分深いとはいえません。本来であれば、宮台氏自身に講義を受けた方がいいのでしょうが、その機会はなかなか得られないし、理解はできたとしても、個々人の応用(人生のwhat?)までは付き合ってくれないでしょう。この部分の橋渡しは僕がやれる部分であり、セミナーのねらいになります。
■人生のwhat?と社会学の関係
今回のセミナーで社会学をテキストに使った理由は、別の視点で説明することもできます。
人生のwhat?とは、ライフワークと置き換えてもいいでしょう。やり始めてすぐ決着が付くような簡単なものではなく、困難で時間もかかりそうだけれど、やっていく価値が十分あるものがライフワークです。
では「やっていく価値」とは何か? 仕事なので、金銭的なリターンという価値もありますが、それだけでは不足です。やはり自分以外の社会に対して、何を提供でき、どのような変化を起こせるかという視点ぬきには、ライフワークは成立しにくい。そうなると、社会にどのような問題がどのようなメカニズムで存在しているのかという説明がどうしても必要になります。
今回の受講者の中に、ワーク・ライフ・バランスや少子化の解決に取り組んでいるAさんがいました。彼は企業にアクションをとらせるべく、企画書を書いて企業にプレゼンする日々ですが、なかなか思うようにいきません。僕も企画書を見せてもらいましたが、クライアントが興味を持つかどうか以前に、「なぜ企業が少子化に取り組まなければならないのか」のロジックが弱いのです。ロジックがあれば取り組みを実行に移すわけではありませんが、ロジックぐらいちゃんとしていなければ、不安で動けないのが人なのです。
理論武装の方法として、前述の包摂性や、それがなぜ問題といえるのかという、宮台の主張をかみ砕いて説明できれば、少なくとも論理構成としては、筋が通ってきます。できれば、他の概念も使って、多面的に説明するべきですが、少なくとも、包摂性のロジックで、一歩前に踏み出すことができる。そしてその方法を別のロジックにも適用することで、自分の主張(なぜ御社が少子化に取り組まなければならないのか?)に力が出てくるのです。
実際には、これは入口に立っただけで、ドアを開けてもらうためには、クライアントの損得計算(コスト/リターン)や、計画の時間スパンで見たときの現実感など、まだまだやるべきことはあります。しかし「なぜやるのか」という基本の論理展開は、十分論理を尽くす必要があるのです。
論理を尽くすメリットは、クライアントへの説得だけでなく、自分自身にもあります。社会的な問題を解決しようとすると、困難がつきものです。「無理」と言われたり、「がんばってね」と突き放されたり、「そんな理想論を振りかざしてないで大人になれ」と言われたり、何にせよ、心ない言葉を投げかけられがちです。当然、ヘコみます。自分でも自分のやっていることに自信がなくなりそうなとき、しっかりしたロジックに支えられた説明は、自分を勇気づけ、立ち直らせてくれます。自分がやっていることは間違っていない、やるべき何だと。
何度もヘコみ、そのたびに、自分がなぜそれに取り組むかを、原理(たとえば包摂性)に戻って自分なりに考えを整理し、立ち直ることを繰り返すと、そのたびに原理が自分の中に少しずつ腹に落ちてきます。何度も何度も腹に落とし直すことで、込み入ったロジックが自分にとってはすごく自然な論理展開に感じられれるまで、頭に入っていきます。そこまで来れば、状況が変わります。どんな相手に、どんなにヘコまされそうになっても、その場で堂々と反論できるようになるし、それでもわからない相手には「この人には未来がない」とまで自然に思えるようになるのです。
ひとつだけ自慢話をします。
5?6年前に、ある研修会社主催で環境経営のセミナーをやりました。プリウスを例に挙げて、「あのクルマはトヨタの21世紀の屋台骨をさせるだろう」と話し、環境経営の意味を説明しました。その後、その会社とは疎遠だったのですが、先月、再び訪問することがあり、こんなことを言われました。「あのセミナーの時は、プリウスを説明されても前々ピンと来なかったけれど、今年になってようやくその意味がわかりました、先見の明に驚きました」。
僕はプリウスが出た10年前にすでにそのねらいについて気づいていた(原理的に位置づけることができていた)ので、5年前のセミナーの時はすでに僕の中では何の疑いもないことだったのですが、セミナー会社の担当者画素の意味に気づくのには5年の歳月が必要だった、ということです。
社会学や哲学など、人文科学の知見(抽象化された概念とメカニズム)を理解し、それをベースに社会や企業経営について考えて、出てきた結論は、その時点ではなかなかわかってもらえなくても、決して揺らぐことなく、確信になるのです。
大きなことをやり遂げる人が信念を持っているように見えるのは、こういうメカニズムを背後にもっているからです。
■次につなげる
今回のセミナーでは受講者ひとり一人に、自分の人生のwhat?について考えてもらい、発表し合いました。その人にとって大きな発見になった人もいれば、「こんなことでいいのかな?」とちょっと半信半疑の人もいましたが、僕が見るところ、どの方の話も、ねらいは間違っていない、筋のいいアプローチが見つかっています。かなり具体的なアクションに落とせている人、それが複数ある人もいれば、ちょっと態度を変えていこうかな、会社で話すことを増やそうかな、という感じの人もいますが、おそらく、そのちょっとしたことが、あとで大きな変化につながるのではないかと思う人ばかりです。
人生のwhat?はそう簡単に特定できるものではありません。「芽」を見つけたのちは、人に話し、人とかかわり、アクションをとることで、いろいろな反応を人からもらえるようになります。ヘコまされることがあっても、上記の理由で、それは自分の道を強固にしてくれる大事な役割です。そのたびにロジックを追いかけ直すことを繰り返すと、いつの間にか、揺らがない確信になるし、もっとやるべきことが見えてくる。そこに至るまでに、3?5年かかるかもしれませんが、長い人生の中ではけっこうあっという間のことです。今年は2009年ですから、2012?15年頃には、今回受講の皆さんは、今とはまったく違う確信をもち、それを元にした人生を歩んでいることと思います。
そんなちょっと長いスパンの話になりますが、ひとまず、1?2か月後をめどにレビューの会を開くことにしました。せっかく集まれたメンバーなので、少し時間をおいて考えを深めてもらい、自分なりに消化して、また考えを持ち寄って話しをしていこうと思います。
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すでに「次はやらないの?」「続編は?」という問い合わせをいただいているので、そちらも計画してみたいと思います。受講に興味がある方、こんなテーマでやってみたいというアイディアのある方は、ぜひpaco宛メールをいただければと思います。
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