(by paco)今週も宮台真司著「日本の難点」の解題です。今週は第5章「日本論」です。
この章は最終章ということで、4章までの展開を踏まえて、いま日本にあるトピック的なイシューについて、宮台なりの処方箋が提示されます。
(1)後期高齢者医療制度
(2)裁判員制度★
(3)環境問題★
(4)内定取り消しと企業の質★
(5)秋葉原事件の原因★
(6)日本の民主主義
(7)エリート
(8)日本の農業と食糧自給★
(9)社会を変える★
この章ではそれぞれのイシュー間の関係はほぼありません。ひとつひとつの説について論じていると、膨大な量になるのと、論じる必要もなくわかりやすい説もあるので、特に必要な説に限定して、★の節のみ解題します。
(2)裁判員制度★
裁判員制度については、僕も以前、知恵市場で書いていますが、
http://www.chieichiba.net/blog/2008/10/by_paco_85.html
http://www.chieichiba.net/blog/2007/11/by_paco_49.html
宮台は社会学者らしく、司法の正統性という観点で、裁判員制度を批判しています。
裁判員制度は、裁判の「正統性の危機」を民主主義によって補おうとするしくみだとしてきます。ポストモダンに位置する現代社会では、あらゆる価値が相対化して多くの市民が共通して持っている絶対的な価値が失われました。裁判にもその影響が及んできて、職業裁判官が下した判決だからといって、本当にそれが正しいのか、市民感覚での合理性があるのかが揺らいでしまいました。その揺らぎに対処するために、市民が裁判員として参加し、専門家にクローズした裁判から市民参加という民主的な方法によって、裁判の正統性の揺らぎを補強しようというのが、裁判員制度が作られた理由のひとつだと宮台は指摘します。
そこで提示されるのが、「民主制とは何であるがゆえに、何をどこまで民主化してよいのか」というイシューです(p.216)。民主主義は万能ではなく、民主主義をどこにでも適用すればよいと考えるのは、安易に過ぎるというのです。
日本や英国のような議院内閣制にしても、米国のような大統領制にしても、共通しているのは司法が立法と切り離されて、独立している点です。立法府は選挙(民主主義)によって選ばれ、みんなで選んだ議員が決めたことだから(偶然そこにいる誰かが考えたルールではないから)、そのルールに従う、と考えられるような「正統性」を担保できます。人を制約するルールを作る立場の人が、その立場にいられる要件は、主権者たる市民が選んだ人に、ルールづくりの権限を委譲したということが、ルールを作ってもよい根拠になっているわけです。では、司法の裁判官は、なぜ判決を下す権限があると言えるのか、裁判官が判決を下せる正統性の根拠はどこにあるのでしょうか。
複雑になった現代社会では、判断も複雑になります。類似の事象を扱う法令が多数あり、どの条文を適用すべきかを判断するだけでもかなりの専門性が必要です。さらにその条文と裁判に提示された起訴状を吟味した上で、過去の膨大な判例にあたり、どの判例が今回の事例に類似しているのか、どのような判断を下すのが妥当なのか、その根拠とともに判断しなければなりません。非常に専門性が高い仕事です。そのため、近代国家では、裁判は専門の裁判官にゆだねられるようになりました。条文と判例にあたって判断することで、その判断が脱人格化され、特定の個人(裁判官)の裁量にゆだねられていないと考えられるようになり、それが判決の正統性を支えていると考えられるからです。
一方、民主主義の方法は、市民の意思を反映できる代わりに、移ろいやすい民衆の心理に大きな影響を受けることになります。裁判が民主制度から切り離されているのは、市民の移ろいやすい心理状態から裁判を分離することにある、と宮台は指摘します。判決が恣意的だったり、そのときの時代の空気に大きく影響されるようだと、判決が偶発的だと感じられるようになります。そうなると、ルール(法律)を破っても重罰を受けたり、無罪になったりする可能性があると感じられ、順法精神が損なわれると考えられるのです。
民主主義は確かに人間にある種の信頼感を与えてきましたが、裁判については、かえって信頼感を落としてしまうというのです。
ではなぜ立法については民主的な方法が正統性を担保でき、司法では民主的な方法が正統性を担保できないのでしょうか。立法と司法のどのような違いが、民主化可能性と、民主化不可能性を分けているのでしょうか。
ひとつは、立法府がひとつの法律を作るには数百人の議員の議論、さらにふたつの議員での賛成が必要というように、大規模な議論が行われるのに対して(それが有効に機能しているかという疑問はあるにせよ)、司法では、裁判官、裁判員を含めても10名前後のわずかな人によって決定される、という違いが挙げられます。少人数であれば、特定の見解(たとえば死刑をもっと積極的に適用すべきだ)を持つ人が集まってしまう可能性が高くなるし、多くの条文や判例を参照して論理的な判断が出来ない人ばかりが裁判員で集まってしまう可能性も高くなります。ばらつきが激しくなれば、司法の正統性が揺らいでしまい、順法精神も失われてしまうのです。
裁判員制度はすでに始まっていますが、始まったからといって、「仕方がない、従うしかない」とあきらめていいものではありません。何が問題なのか、きちんとした指摘ができる力をここの市民が付けることが重要です。
(3)環境問題★
これについては僕がこれまで書いてきていることとほぼ同じで、僕も心強く感じました。基本的にはここで書いた内容とほぼ同じですので、両者を比較してもらうといいでしょう
(4)内定取り消しと企業の質★
宮台はほかの章でも若者が社会に出るときに持つべき資質について言及していますが、僕の意見とは違っているところも多く、鵜呑みにはできません。
特にこの節では、求められる人材像について企業は「どんな仕事にも向く人材」「どんな人間関係もこなせる人材」といっていますが(p.236)これは僕の理解と異なります。もちろん、そういう人材も求められているのは事実ですが、主流は違う。もっとスペシフィックな(特化した)能力と、白紙から何かを作り上げていく内在的な動機を自らかき立てる能力を持っていること、が重要だと思っています。
実は、宮台自身、次の章で「たたき上げで獲得した専門性こそ、人材価値をもたらす」(p.239)を述べていて、「どんなものにも向く」という上の話と矛盾します。「入口はなんでもできる人材で、就職後にたたき上げて専門性を持つ」ということかもしれませんが、それはそれで企業の教育研修機能に多大な期待をかけていることになり、今の時代状況と矛盾します。
もうひとつの宮台の指摘は、「内定取り消しに合うような学生の、社会の見る目のなさも同時に批判すべき」(p.237)といっています。この点は合意するものの、より重要なのは、「内定取り消しに合わないような社会を見る目を、誰がいつ、学生にインストールするのか?」という点の方が重要です。社会を見る目がないと就活学生を非難するより、そういう視点を持たせることに失敗した、大学や親こそ批判されるべきだと僕は思います。
企業はもっと、必要な人材のスペックについて大学や親に具体的に提示するべきでしょう。
(5)秋葉原事件の原因★
秋葉原で自暴自棄の大量殺人を行った事件について、メディアの論陣や、「ロスジェネ」世代代表者(たとえば雨宮処凛)のロジックを、宮台が批判します。
こういった人たちは、「事件の原因はグロバリゼーションと格差社会にある」という主張をしていますが、それは違う。グロバリゼーションも格差社会も、それ自体や止められないし、それが秋葉原事件の犯人を産むわけではない。事件を生むのは、犯人のような人物に対して、ちゃんと社会のことを教えてやらなかった、犯人のまわりにいた大人や友人のかかわり方の問題だというのです。この本を一貫して流れる「包摂性」の指摘です。これを「誰か何とかいってやれよ問題」だといいます。
犯人が「理由」としてあげていたことの多くは、理由にならない理由であり、そのことを彼の周囲の人間がもっと早く教えてやるべきだったし、それができていないことこそ「社会の包摂性が崩壊している」ことの証拠である(だからこそ、包摂性をあげる努力をすべき)、というロジックです。
たとえば、犯人は「顔が悪いから、イケメンでないからモテなかった」と犯行の理由を説明しますが、宮台は「実際にはナンパに強い、持てるやつは顔は普通で、むしろ目立たないやつ」といいます。犯人の周囲の人間は、犯人が進学上の敗者であったことを心配するより、友だちがいないことを心配すべきだったのに、それができなかったことこそが、最大の事件の原因、と断じます。
こういう切り口で見たときに、秋葉原事件以外の、荒川沖駅前殺傷事件やバスジャック殺人事件などの犯人にも共通する社会が抱える問題点が見えてくるのだと思います。
(8)日本の農業と食糧自給★
ここで語られている農業をめぐる構図は、まったくその通りだと思います。その上で、この節で重要なのは、農業問題を国の安全保障に位置づけることで、農業について何をするべきかがクリアに見えてくる、という視点です。
食用自給率の低さが問題になるとき、しばしば聞かれるロジックは「競争優位な産業(エレクトロニクスや自動車など)で稼ぎ、そのカネで世界から食糧を買う方が合理的、と言うものです。しかし、これは通用するのは、平時の間で、かつ多くの資源が「金さえ出せば買える」状況にある場合です。
現実には、中国が希少金属を輸出制限したように、金を出しても買えないことが増えてくると、とたんに通用しなくなります。また平時であっても、安全保障上の強みを持っていないと、外交交渉力が弱くなります(足元を見られるようになる)。
安全保障の内容を、軍事に限定することなく、食糧、地下資源、エネルギー資源、文化などの複合的な概念であり、これをしっかり説明した上で、安全保障上も重要というロジックで、食糧自給率を上げることをめざし、そのためのコストそしての行への補助金を使うようにするべきだ、というのが宮台の考え方です。僕も、この考え方には賛成です。
(9)社会を変える★
最終節です。
日本が「わかっちゃいるけど、変えられない」状態になっているのは、多くの人が感じていることです。
この状況の中で、社会を変えていく方法として、2つの方法を提示しています。
a.道徳よりシステム
b.合理より不合理
a.は、たとえば企業に対して道徳を求めるときに、理念として「道徳的に行動せよ」と伝えるだけでは不十分。道徳的に行動すれば、利益が上がるようなしくみをつくり(エコファンドなど)、そのしくみがあれば、環境への志がどうであっても、環境行動をとらせるようにすることです。
環境分野では「エコロジカルモダニゼーション」と呼ばれ、環境を経営や行政の行動メカニズムに組み込んでしまえば、道徳的な意思に期待できなくてもしっかりした成果が期待できるという形で機能します。
b.は、チェ・ゲバラの例を挙げていますが、合理的な能力があるのに、非合理な決断をすることから、ゲバラのやり方が、これに当たるといいます。趣旨に感染(ミメーシス)が起きて、周囲も、利他的な行為をするようになっていく、といいます。
本書では、「感染(ミメーシス)」の意味合いが今ひとつクリアに説明しきれず、読者にとって、何がミメーシスなのか、どうすればいいのか、という点は放置されたままで終わりますが、ミメーシスを理解する作業をこれから始めることが、日本の難点克服のスタート地点なのかもしれません。
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さて6週にわたって書いてきた「日本の難点」解題ですが、一応今週でおしまいです。来週は、「人生のwhat?を見つけるセミナー&ワークショップ」のレビューを書く予定です。
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