(by paco)今週も宮台真司著「日本の難点」の解題です。今週は第3章「幸福論」です。
「日本の難点」は10万部を突破したみたいで、こんなに難しい本がこれほど売れるとは……。前回のワークショップのときに、受講者の皆さんに「わかりやすく書くことが僕の使命と思ってやってきたけど、難しく書いた方が売れるのかなあ」と珍しく愚痴ってしまいましたf(^^;)。
さて、第3章です。「幸福論」というテーマで、p.108から147まで39ページにわたります。
内容を読み込むと、大きく5つのパートからなっていることがわかります。
(1)社会を設計する必要性(?p.113)
?市場に任せるか、設計するか
(2)自己決定は社会従属に優先する(?p.120)
?自己決定を優先しても社会は崩壊しない
(3)宗教論(?p.130)
?ヘブライズムとヘレニズム
(4)自殺多発の原因は社会の包摂性の欠如である(?p.136)
?自殺多発のメカニズム
(5)価値観の異なる他者との共存(?p.147)
?ゾーニングしつつ、しすぎない
この中で、(3)宗教論は、全体の中での位置付けがいまいち不明確で、僕の知識と理解ではほかのイシューとの関連が読みきれませんでした。今週金曜日のワークショップでは受講者の知恵も借りながら、もう少し深めてみますが、今日のところはここを差し引いて、(1)(2)(4)(5)の4パートについて考えていきます。
この章のテーマは幸福論です。社会の中で個人が幸福になること、幸福を追求することとはどういうことなのか。特に、個人が幸福を追求しつつ、社会に済む他の人の侵害をしないで済むというのはどういうことで、どうやってそれを実現するのか。そのあたりがイシューになります。
(1)社会を設計する必要性(?p.113)
?市場に任せるか、設計するか
この章で最初に提示されるイシューは、市場原理をどう考えるかという点です。「自分だけ幸せならそれでいいのか」という問いで始まります。
その前提として宮台が確認するのが、「ひとの幸せとは、非常に多様で、あらかじめこれが幸せと決めることはできないし、変化するものだ」という点です。これだけ書くと「あたりまえじゃん」となりそうですが、ここは重要な確認です。江戸時代に「幸せ」だと思われていたこと、もっと前の戦国時代に幸せと思われていたこと、もちろん世界の、他の国、ほかの時代も含めて考えれば、幸せの形や要件はものすごく多様です。
江戸時代の幸せが、今も継続しているものももちろんありますが、異なるものも多く、過去のいつかの社会、今の社会の別の場所や個人の幸福を、自分の幸福と見なすことは無理があります。
社会の構成者が幸福を実現するということは、本質的な多様さを認め、相互に(可能な限り)侵害しない社会をつくることだということを、まず確認しているわけです。
この確認の背景には、たとえば国家が「これが幸福というものだ」というように決めて国民に提示するようなことは無意味である、ということが含まれています。かつての教育勅語に「両親や天皇を敬って生きることこそ大切(幸せになる道)」とありましたが、こういうような決まった幸福の要件を示して従わせるような社会をつくっても、人間の社会は幸福を実現できないということを確認しているわけです。
そこで問題になるのが、人々がそれぞれ思うままに求めたら、それは「万人が万人に対する闘争」の状態になり、幸福が損なわれる、という点です。この「闘争」を「競争」に置き換えると、アダム・スミスの国富論に見られる「神の見えざる手」によって市場は最適解に到達できる、とする考え方でした。これが今の資本主義を含む自由社会を正当化するベースになるわけですが、実はアダム・スミスも、「神の見えざる手」が導く要件を示していて、「人々が何かを選ぶ価値観が、反社会的にならないこと」をあげている、といいます。つまり市場が社会の正義を実現するためには、社会の構成者が「反社会的な価値を許容しない」ことが条件だ、というわけです。
となると、ここで話は戻ってきてしまって、あらかじめある種の価値観が共有された上で、市場主義に任せておけば、幸福が実現できる、ということになるわけです。
そこで、宮台は改めて以下のように定義します。
「何が幸せなのか、その答えはひとによって異なり、決めることはできないが、その答えが社会の存続を可能にするような範囲に収まるように制御する必要がある」
とはいえ、その「制御=社会システムの設計」は人間の手に余る、実質的にうまくできない、ということも認めてしまいます。社会の存続と個人の価値が矛盾しないようにするべきだが、これを意図的に行うことは人間にはできない、というわけです。
あらら、これでは答えになっていません。
せいぜいできることは、「自分の幸せは、他者の幸せと無関係ではいられない」「他人の理解と承認があって、はじめて個人も存在できる」という感覚を社会に広げていくことだ、というわけです。
ではこの感覚とは、具体的にはどのようなものなのか。それがかつては「教育勅語」や「軍人勅諭」だったとして、今はどうするのか。答えが提示されないままに、このパートは終わります。
(2)自己決定は社会従属に優先する(?p.120)
?自己決定を優先しても社会は崩壊しない
次に議論されるのは、自己決定です。個人が自分の意思で何かを決定するという自由意思やそれに伴う責任の感覚は、どこまで原理的に正しく、自明なのか。
僕たちの感覚的な常識では、自分の行動は自分が決めていると考えますが、実際には、ある行動をとるべきかは、社会が規定する側面がたくさんあります。たとえば、今の時代では電車の中で子供が騒いでいても、大人がそれを注意することはためらいがちですが、40年前なら注意しない大人が非難されました。自分では「騒いでいる子供に対して黙っている」という行動は自分で決めていると考えていますが、実際には社会の規範が先にあり、それを判断基準にしているので、自分の意思で行動をとっているとはいえない、という考えもあるのです。つまり自己決定というのは、実際には人間にはないのだ、というわけです。
しかし、そういった言説が仮に論理的に正しかったとしても、自己決定能力があるという考えを放棄することはできないと宮台は指摘します(p.116)。もし、自己決定能力に疑問を差し挟んでしまえば、犯罪を犯しても罰することができないし、大工が手抜き工事をした結果、家が倒壊しても、その責任を問うことができません。論理的には「自己決定能力はない」という説明がありえるとしても、社会的には自己決定力を肯定するしかないのが人間社会だというわけです。
このことから、自己決定能力が先にあり、その決定(選択)の結果として、ある社会の形になったと考えるべきだというのが宮台の主張になります。
ちょっとわかりにくいので、ブレイクダウンしましょう。自己決定を認めてしまえば、同性での結婚や性転換なども自由にできるということになります。しかしこれでは社会の形が定まらなくなる、とする保守は批判が出てきます。同性同士の結婚や男に生まれたのに、途中で女になるなどというのは、反社会的だというわけです。自己決定権を認めることが社会の崩壊につながるから自己決定力は認められない、という主張です。
これに対して宮台は、同性の結婚も結婚の形であることを社会の1人1人が認めると意思決定して社会の形になるべきであり、どこかの誰かがいったからとか、伝統的にそうなっているからという理由で「結婚は異性間のみ」というルールがきまり、それに従わない「同性の結婚」は認められないと考えるのは間違っている、といいます。社会のルールを決めていくのは、1人1人の自己選択の結果であって、先に社会のルールがあって、その範囲内において限定的な自己決定ができる、という考えは間違っている、ということです。この順番の確認は非常に重要です。
このような状況を宮台は「社会の再帰性」と呼びます。この概念はなかなか難しいので、あまり突っ込まずに先にいきます。
先ほど話した順番、個人の決定の総体的な結果として社会のルールが決まるのであって、あらかじめ社会にはルールがあるわけではない、ということは、特に宮台「へたれ保守」「バカ保守」と呼ぶ短絡的な保守的言論を封じる役割を果たします。
あらゆる社会的な正義が、個々の個人の選択の総体として決まっているという考えに対して保守派は「社会が個人主義化してまとまりが付かなくなる」と主張しがちですが、これは間違っている。個々の選択の結果、まとまりのある社会がうまれることもあるし、そうなるように選択をする社会にしなければならない、というのが宮台の主張です。
この両者の違いは、安易に考えるとどう違うのかまったくわからなくなりますが、とても重要な意味を持つので、ぜひしっかり押さえてください。
その上で、この前提をもとに、宮台の主張は「包摂性を軸にした<社会のまとまり>=社会が回ること」に向かいます(Part4)。
(3)宗教論(?p.130)
?ヘブライズムとヘレニズム
そのまえに、宗教論が6ページほど挟まるのですが、前述の通り、ここに宗教論が挟まる意味合いが、どうしてもうまくとられられないので、ここは省き、Part4に行きます。
(4)自殺多発の原因は社会の包摂性の欠如である(?p.136)
?自殺多発のメカニズム
宮台は序章で「経済は回っているが、社会が回らなくなった」といいます。
社会が回らない、とは、社会の形がうまくないことの結果、個人生活がトラブルを抱える状態です。
たとえば、カップルが合法的に結婚し、2人で週20日きちんと働いているのに、その収入では子供を育てる資金をまかなえないとか。好きあった者同士が結婚して共同生活を営みたいのに、同性であるというだけで結婚できないとか。学校のいうままに勉強をして、悪くない成績で大学まで出たのに、どうしても定職に就けないとか。こういった状況が限られた例外ではなく、あちこちで起きているなら、その問題を放置しておくことは、社会に参画できない人を増やしてしまい、「回っていない」状況になっていると言えます。
(対比的な概念として「経済が回らない」とは、お金を持っている人が全員現金にしてタンス貯金に入れてしまい、それをわずかな最低限しか使わない状態です。何兆円もの「お札」が社会にあっても、経済は「回っていない」状況になります。経済が回るというのはそういう意味です。同じように、「社会が回らない」とは、人はいるのに、ひとがうまく活動できず、社会に参画できていない状況です)
そんな「社会が回らない」象徴的な状況として、宮台は自殺者が多い状況を取り上げ、論じていきます。
日本の自殺はOECD加盟国中、2番目の悪さですが、そのメカニズムは、分析により以下の通りだということがわかってきました。(p.132)
1.病気やケガ
2.会社を休業するか退職
3.収入がたたれる
4.家族、地域、会社の人間関係から見放される
5.相談相手のいない状況で生活に行き詰まる
6.鬱状態になり、自殺
このような分析結果に対して、宮台は「どうして経済的につまづいた程度で自殺しなければならないほどに、社会が薄っぺらいのか」(p.131)と問います。
この薄っぺらさを「包摂性のなさ」と呼びます。ちょっとしたトラブル(に見える)状況のときに、それを身近な社会が包み込み、トラブルが小さいうちに相互扶助にトラブルを小さくして、支え、問題を大きくしない」という機能が、社会にはあるはずなのに、それが無くなってしまったわけです。
では、なぜ包摂性が無くなったのか。
その理由を、「ネオリベラリズム」の誤解によって生じたと説明します。日本では小泉政権時代、「小さな政府」を主張して、政府の機能(たとえば福祉)を縮小しました。その場合、小さな政府に対応するように、「大きな社会=包摂性のある社会」の構築を進めなければならないのに、「小さな政府&小さな社会」の組み合わせにしてしまった。
「大きな政府&小さな社会」→北欧型高福祉社会
「小さな政府&大きな社会」→サッチャー政権型相互扶助社会
このいずれかの選択肢だったを示すべきだったのに、小泉政権時代に
「小さな政府&小さな社会」→行政による福祉は放棄され相互扶助の仕組みも消失
という行動をとったことに、社会全体が気がつかなかった。ここに今の問題があるというわけです。
では「大きな社会(包摂性のある社会)」をどうやって構築するのか。そのための方法論として「へたれ保守」が提示するのは、伝統社会への回帰です。しかし伝統社会は実は伝統に合わない人を排除する社会です。村八分という言葉が伝統釈迦に存在したように、伝統社会ではルールに従わない人を外に排除することで内部の包摂性を確保してきました。今のように個人の自由な意思決定が当然の社会になると、伝統社会への回帰という方法では、排除される人が多くなり、限られた人のみの閉ざされた「包摂」になって、社会全体の包摂性は確保されません。社会的排除のメカニズムを含まない、新しい包摂の機能が求められます。(p.136)
(5)価値観の異なる他者との共存(?p.147)
新しい時代の包摂性の考え方として、「他人への迷惑」をどう考え、どう許容するかという問題を設定します。
たとえば、同性愛を認めよという要請には、「おおいにいいことだ」という人もいれば、「それほどいいこととは思わないけど、でもその人の勝手でしょう」と言う人もいます。ここまでは許容する態度です。しかしそういえずに、「そういう目障りな人がいること自体、迷惑」と考える人(特にへたれ保守)もいて、こうなると同性愛自体が迷惑ということになります(p.140)。そこで、両者をゾーニングして、お互いに棲み分ければいいじゃないかと言うことになり、「何がよくて何が悪いか」という議論はやめて、「どういう場合ならいいのか」という議論をするべき、ということです。
ポルノをめぐる判断もこれに沿ったものになり、ヘアはわいせつ、性器はわいせつという議論から、どんな場面ならヘアはOKなのか、という議論をすべきであり、これによって「望まない人が望まないときに不意打ちのように望まないものを見せられることはやめよう」というのが、確保すべき「迷惑」の排除ということになってきたのです。
さて、この議論の中で最も重要な概念は、「他人に迷惑をかけない」の中身が「誰かに暴力をふるったり、マナー違反をする」というようなことではなく(これはもちろん当然やってはいけないことですが)、それ以上に「他人が自分の価値観に基づいてとっている生活や行動を互いに尊重しなければならない、自分の価値観を押しつけてはいけない」ということになってきた、という点です。(p.141)
包摂性のある大きな社会をつくるために、
a.全員が排除されずに、相互扶助に包み込まれている社会
b.自分の価値観や生活スタイルを押し通すことができ、それが他者から排除されない社会
c.たがいの迷惑はゾーニングによって棲み分ける
を実現するべき、というのが宮台の結論になるでしょう。
な?んだ、あたりまえじゃないかと思う人もいると思いますが、包摂性のある社会を「かつてあった伝統社会」と勘違いしたり、市場原理社会と相互扶助社会が両立しないと勘違いしたり、というような言動に、きちんと論理的に反論できることが重要です。そうしないと、今僕たちが直面している自殺やワーキングプアなどの問題に、適切な答えを出せなくなってしまいます。
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