(by paco)前回に続き、「日本の難点」を読み解きながら、「人生のwhat?」を見つけるアプローチについて考えます。前回は主に「はじめに」の部分を解題したので、今回は第2章を深めていきます。
先週、リアルの「what?を見つけるセミナー」第1回を開きました。予定通り序章と第1章について、レクチャーと議論で深め、意見交換を行いました。7名参加と少人数でじっくり議論できたこと、参加者から見ると、こういった人文化学的な議論がはじめてという方がほとんどで、難しく感じた部分と、ふだん考えないことを考えた充実感の両方があったのではないかと思います。
前回の「人間関係論」のような抽象的な話は、議論が拡散して「それぞれ意見が違う」で終わってしまったり、逆に自分の思い込みで終始したり、個別の事例の羅列が続くということになりがちですが、宮台真司の社会学的な知見という軸を設定することで、何をどう見ていけばいいのか、事実と論理を比較対照しながら考えるというやり方を学べたかと思います。それと同時に、こういった考え方をとると、社会の幅広い問題を考えられる(応用が利く)ことにも気づいていただく場面がありました。
終了後、一部の方と食事に行ったのですが(適当な場所が無く、「養老の滝」!)、その中では、脳死の問題や死刑廃止の問題なども、同じ切り口で考えれることを示して、いま日本で以下に議論がうわついているのか、できないのか、までは実感できたとのではないかと思います。
さて、今週は、次回第2回のセミナーに向けて、「日本の難点」第2章のイシュー(論点)を整理したいと思います。
第2章は「教育をどうするのか」(若者論・教育論)です。前回の範囲が47ページだったのに対して、今回は57ページあり、ボリュームも多いのですが、前回で使った概念が繰り返されるので、総量はそれほど違わないと思います。
第2章の60ページ近いボリュームを読み解くと、大きく4つのイシューが含まれています。
(1)いじめをどう克服するか
(2)教育の崩壊はゆとり教育のせいか?(p.70-)
(3)子供に「人の死」を教えられるか?(p.75-)
(4)早期教育は有効か?(p.85-)
そもそも、この4点が日本の教育論を語るのにMECEな切り口なのか、なぜこの4つが選ばれたのかということについては、宮台は本の中では説明しません。こういう不親切なところが彼の本には常にあり、論理的にかかれていないといういんしょうをうけるのですが、おそらく彼の中では緻密な組み立てがあり、教育を語るのに不要な要素はそぎ落として、これらのイシューが取り出されているのだと思います。ただ、本当にここが重要な点なのか、ほかは不要なのかを語っていないのは、読者の理解をそぐのは事実ですね。
それはそれとして、順に、宮台の趣旨を捉え、僕なりの見解を加えてみます
(1)いじめをどう克服するか
宮台は「いじめ」を、単なる「人の嫌がることをやる」という意味合いではなく、より意図的な、社会的な意味合いとして定義します。
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「いじめ」とは、人の「自由」な日常的活動のベースになっている「尊厳」(他者の承認を契機とする自己価値)を、回復不能なまでに傷つけることで、以前と同じ生活を送れないようにしてしまうことです。「尊厳」を破壊することで「自由」を奪う営みこそが、「いじめ」の正確な定義です。(p.50)
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この定義を理解するには、「尊厳」という言葉を理解する必要があります。「他者の承認を契機とする自己価値」と説明されていますが、わかりますか?
ここでいう自己価値とは、自分が自分を価値あるものと認めるということです。自分の存在価値、存在意義といいかえてもいいでしょう。自分は存在する意味や価値がある人間なんだと自分自身が諒解するということです。
そしてその諒解が、「他者の承認を契機とする」とあるので、自分自身が勝手に思うのではなく、他者もまた、その価値を認めることがきっかけになるということです。
自分の存在価値、存在意義とは、自分がそう理解する価値であると同時に、それが他者からも認められているという両方が含まれていて、そういう諒解が自己と他者との間に結ばれていることを「尊厳」がある状態です。(尊厳とは何か、あまり考えたことはないと思いますが、こういうタイミングで考えておくと、やはり社会のいろいろな問題が見えてきます。尊厳がない状況が世の中にあるとしたら、どんな場面か、考えてみるといいでしょう)。
その上で、「いじめ」を、「尊厳」を破壊することで、自由を奪う営みと、定義します。定義を敷衍(ふえん=意味をやさしくすること=ちっとも易しい言葉ではないですが)すると、尊厳は他者の承認が必要です。その承認を、意図的に、組織的に破壊し、Aさんがそれまで自分では自分の価値だと思っていたことを、徹底的に否定し、破壊してしまいます。その典型がシカト(無視)であり、ハブラレ(他者から自分が省かれる)です。また、「死ね」「汚い」「臭い」などということで、Aさんの価値を否定することも、同じことを意味します。
しかし、これらが単発で行われているぶんには、尊厳は破壊できません。X君が自分をシカトし、汚いと呼んでも、PさんやQさんが普通に接してくれれば、他者承認はあると期待でき、尊厳は失われないのです。しかしPQ両名も「いじめ」に加わり、EFGH……も何もいわないけれど、同じように思っているに違いないと感じ始めると、尊厳は崩壊します。他者からの承認が得られなくなるのです。
ここで重要なのは、Aさんへの承認が実際に崩壊していることというよりは、承認が期待できなくなるということであり、ここを宮台は重視する、という点が特徴です。
では、なぜこのような「いじめ」ことをやってはいけないのか。それは「理屈では説明できない」と宮台はいいます。社会がある形をとっていることは、「恣意的」(誰かが勝手に意図したもの)であり、ある価値が絶対的な価値として社会に共有されることは原理的にないのだというわけです。この点は第1章で繰り返し説明されています(普遍主義の崩壊と相対主義)。
「他者からの承認を期待できるか、期待できる社会にできるか」が、「これからの社会を再構築できるか」のカギを握る、そしてその方法として、「感染」という概念が提示されるのですが、この「感染」については、セミナーのときにじっくり考えたいと思います。
(2)教育の崩壊はゆとり教育のせいか?(p.70-)
「ゆとり教育」が来年度から正式に放棄されることになったようで、宮台の立場、そして僕の立場から見ると、実に嘆かわしいことです。宮台はゆとり教育の推進派で、その理由と、なぜ失敗に至ったのかをこのパートで解説しています。
これについては、僕自身もほぼ宮台と同じ文脈で書いてきているので、ここではあえて繰り返しません。
前パート、前章との関係で付け加えれば、コミュニケーションの密度が下がり、平均化・フラット化することで、信頼関係が作りにくくなったために、教師が独自の判断で教科書を教えることがやりにくくなり、「システム」つまり行政の過剰な関与を招いている、という同じ構図が見られること。同時にそれがゆとり教育がめざしたものを実現させなかったのだという点が、「日本の難点」の論旨とのつながりとして見える、という点を指摘しておきます。
(3)子供に「人の死」を教えられるか?(p.75-)
このパートで、いきなり「人の死」が出てくることに違和感を覚える人は多いはずです。宮台の論理展開とのつながりでいうと、第1章で「社会の中で共有される絶対的な普遍的な価値を論理的に設定することはできない」という理解が前提にあります。その上で、「人の死」は、社会で共有しておくべき大事な価値観であり、その代表として取り上げられたというように理解するといいでしょう。
人の死がどのようなものか、そのつながりとして、なぜ誰かを殺してはいけないのか、というような価値観を教えることがそもそもできるのか、できるとしたら、それはどのような根拠に拠るのかを考えるのがこのパートになります。
ここで宮台は改めて「人の死」を理解すること(教えるためには、そのまえに理解が必要)とはなんなのかを考察します。自分自身の死は知ることができません。自分は死んだことがないし、死んだ人は自分の死を語れない。つまり、「人の死とは何か」というイシューは、「ある人の死を、生きている人がどのように理解するべきか」という意味に還元できる、というわけです。
もうひとつの観点は、死そのものではなく、死を通じて、生をどう理解し、その自分の生をどうやってよりよいものに構成していくかに関心がある、ということもできるだろうと、述べています。このふたつが死をめぐるイシューです。
その上で、他者の死がもたらす喪失感の意味合いについて、いくつかの例示を行いながら、「事前に予想できない喪失感、予想外の喪失感」が経験されることだとして、このような経験をする機会そのものが少なくなり、死を理解しにくくなったといいます。「核家族化して、親族の死に立ち会う機会が減った」というのと同じ意味ですが、さらにひとつ加えているのは、「コミュニケーションがフラット化」することで、「つながりの深い人と離れる喪失感(友だちの引越、失恋など)」も減ったことも背景にある、と指摘します。逆に言えば、日常世界でのコミュニケーションの希薄化、フラット化と、死の理解可能性とは大きな相関関係があるということです。
逆に言えば、コミュニケーションがフラット化してしまったポストモダンの現代においては、死を理解することそのものが困難になっているという構造は変えようが無く、この点について、宮台も有効な処方箋が提示できていないようです。
(4)早期教育は有効か?(p.85-)
次に登場するイシューは早期教育です。
早期教育の定義はあえて放置しつつ、宮台が最初に否定するのは、いわゆる習い事や、小さいころからの勉強です。ピアノ、バイオリンなどを早くから習うことの無意味さを彼自身の経験から説明していますが、この無意味さは僕自身も諒解できます。しかし無意味であることをどう説明するか、その論理展開は、かなり個人的な体験を根拠にあげて進められているので、これでは説得力が出にくい、というように僕には感じられます。ほかのイシューに対して、非常に論理的概念的に説明しきっていた宮台のアプローチがここに来て、破綻とはいわないまでも、力を出せていない領域であると感じられます。
小さなころの習い事を否定したあと、宮台は小中高校あたりの「ガリ勉」の無意味さを指摘するのですが、ここも、彼自身の体験が中心になっていて、あまり説得力がありません。この中で、早くから家庭教師を付けたりして受験校に入り、東大をめざす「ガリ勉君」と、適当に遊びながら、大学受験直前の1-2年で勝負をかける「地アタマのいい子たち」との対比を描き、「地アタマのいい子たち」が結局は、最後の1年で一気に逆転してしまうと述べています(p.88)。ここまではある意味、よくあるロジックです。
実は、自分の子供の「地アタマ」に自信がない親は、早くからガリ勉君に育て、最後には追い越されるにしても、少しでも「追い越され加減」が小さくなること、歩留まりをあげることをめざすわけです。こう考えると、ガリ勉君にしようとする親の行動は、合理性があるように見えます。それでも、宮台は「ガリ勉君」にすることの無意味さを指摘しているのですが、その根拠になっているのが、「早期教育をやろうがやるまいが、地アタマはさして変わりません」(p.89)という指摘です。
ここでいう「地アタマは変わらない」と言う意味は、なんなのか。
「早期教育をやっても、持って生まれた地アタマはよくならない」
「もともともの地アタマはみなあまり変らないのだから、早くからガリ勉にするより、ラストスパートで勝負した方がいい」
どちらなのか。
その後の説明で、後者を意味しているように読めるのですが、「地アタマの差」と「努力」の関係について、どちらがどのように優位なのか、あまり説明が無く、わかりません。さらに「就職活動に有利なのは、文科系的体育会系」などとのべ、ここに至ると、ほとんど30年前と変わらない価値観になっているので、僕としてはもはや批判の対象にもしたくないという感じで、崩壊しているように読めます。少なくとも、説明不足です。特に就職についての説明で、説明不足なのは、「内定をたくさんとる」ことが、「本人の希望にかなう就職先を獲得している」と言えるのかどうか、という点でしょう。たくさんとれても、自分が希望する未来をつかめるかどうかは、必ずしも相関関係がありません。
その後、p.90から「スゴいやつ」による「感染」についての記述になります。パート1でも登場した「感染」については、やはりセミナーのときにじっくり考えましょう。
ということで、今週はこのあたりまで解題した上で、木曜日のセミナーにつなげたいと思います。
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