(by paco)前回に続き、「日本の難点」を読み解きながら、「人生のwhat?」を見つけるアプローチについて考えます。前回は主に「はじめに」の部分を解題したので、今回は第1章を深めていきます。
前回は「普遍主義の理論的不可能性と実践的不可避性」について考えたのですが、今回考えるのも、これを別の角度から深めるというアプローチです。
第1章では「若者のコミュニケーションはフラット化したのか」「人間関係が希薄になっているのか」というイシューがたてられます(p.20)。宮台はこの問いにYESと答えつつ、具体的に深めていきます。
人間が自分の存在を理解するためには、他者の存在が必要です。人間は1人単独では、自分が何者かを確立することができない、やりにくいという原理があります。自分が自分であることを理解するためには、「他者とのコミュニケーションの履歴ゆえに自分は揺るぎない」と考えることが、自分が自分であることを理解することを意味している、ということを理解するところから始めなければなりません。
おそらくこのことは、「人は1人では生きていけない」ということの本当の意味なのだと思います。「人は1人では生きていけない」とは、「お互いに助け合わないければダメだ」と言う意味で考えがちですが、もしそうなら、「助け合わなければならない」ことと「人は自立しなければならない」というメッセージが矛盾が説明できません。自立しているなら単独で生きていけることを意味し、助け合う必要はありません。助け合う存在なら相互依存に終始すればよく、人々は完全に他者に依存して生きればいいことになります。自立する必要はないはずです。
「人は1人では生きていけない」というのは、助け合うか自立するかということではなく、「他者の存在なしに、自分の存在に自信を持つことができない」という理解の方が、矛盾なく説明できるのです。
その上で、「他者の存在」を「他者とのコミュニケーションの履歴」と読み解きます。履歴という説明の仕方がとても今っぽいのですが、生まれてから今に至るまで、親や姉妹、親戚から始まり、じょじょに関わる人々を広げて、それらの人たちとどんなかかわりをしてきたのか、そのつながりの総和が自分を自分たらしめる、というのが宮台の主張です。別の観点で見れば、ものとのかかわり、自然とのかかわりだけでは、人間は人間として存在できないということでもあります。「オオカミに育てられた子供は<人間>ではない」という話に近いし、自分以外の人間と関わりを持たずに育てば、やはり<人間>には育てない、ということです。
もうちょっと現実的な話でいえば、自分とは何者で、友だちとはどこが違うのかという点を明らかにするには、性格や体系を比べてもダメで、自分は誰とどんなコミュニケーションをとってきたか、その歴史を明らかにすることであり、同時に誰とコミュニケーションをとってこなかったのかをあきらかにすることでもあります。そして同時に、友だちは誰とコミュニケートしたのか、誰とはしなかったのかの歴史を明らかにすることです。
同じ小学校に通う自分と友だちがいて、自分はA先生が担任で、友だちはB先生が担任なら、友だちはA先生とのコミュニケーションの履歴が、自分とは違うことを意味しているし、自分と友だちはB先生とのコミュニケーションの履歴が違います。A先生からXという話を聞いて影響を受けた自分と、その影響を受けていない友だち。だから、自分はこういう人間で、友だちはああいう人間なのだと、理解することが、「自分の存在、他者の存在を理解すること」なのです。
このようなメカニズムを、「他者とのコミュニケーションの履歴ゆえに自分は揺るぎない」と呼んでいるわけです。
このような関係を前提にした上で、「若者のコミュニケーションがフラット化」し「人間関係が希薄」になったということを、特に性愛関係を例に宮台は説明していきます。
現代では、誰かと恋愛関係になったとしても、恋人との関係を履歴として積み重ねる機会が乏しくなっています。誰を恋人とするのか、その選択の領域は、以前と比べて飛躍的に広くなっています。初恋を済ませる中学や高校生ぐらいまでの年齢で見れば歴然としています。かつては初恋の対象は、学校の同級生か同学年、せいぜいいとこの学校の同級生とか、幼稚園で一緒だったけど学校は別になった子、ぐらいの範囲に限られていました。それより広い範囲の人間関係を作りようがなかったからです。
でも今は、可能性のある範囲が格段に広がりました。かつては、同級生で気になる子がいても、引っ越してしまえば、話すこともままなりませんでした。手紙をやりとりするぐらいのことはできても、電話をすることもはばかられました。電話は家の真ん中にあり、家族に会話のすべてを聞かれていたので、恋愛(深いコミュニケーション)に発展することはほとんどありませんでした。しかし今では、家電はコードレスになり、自室が与えられたために、家族に聞かれずに、離れていった元同級生と話すことができます。携帯があり、メールがあり、スカイプがあれば、さらにつながる可能性が広がります。さらにインターネットを自由に使えるようになれば、プロフやSNSでコミュニケーションがとれる範囲と可能性が格段に増えました。このことは、「気になるあの子」と多くのコミュニケートをとる可能性が増えた反面、より多くの、「気になるあの子」と出会う可能性も広がってしまったことを意味します。恋人候補と出会う可能性が増えました。
すると、Aさんと少し深い関係になったときに、Bさんとであって深まりつつあえれば、AとB、どちらにしようか、迷う可能性が増えます。Aさんといいところまでいっても、そこでケンカしてしまえば、Aさんとは合わないんだ、Bさんと付き合うことにしよう、でもまだ見ぬCさんもキット近くにいるに違いない、と考えられるようになります。この結果、かつてであればつながりかけた恋人と、簡単には離れずに、関係を深めようとするタイミングで、あっさり「ダメだ、別の人にしよう」とあきらめてしまう可能性が増える、という方向に作用してしまいます。コミュニケートの手段や交通機関の発達で、つながれる可能性が増えたことが、特定のAさんとの深まりに作用するというよりは、広く浅く、BさんCさんと遍歴する方向に作用してしまったのだと宮台はいいます。
個々の人間関係が薄まり、量は増えても、質が深まらない。すると、自分の(コミュニケーションの)履歴と、他者のコミュニケーションの履歴に、差異が少なくなっていきます。恋愛では、初期は誰でも比較的に多様な経緯をたどりがちで、1人の相手と深まるにつれて、個別性が増えていく傾向があります。1人の相手とある程度以上深まらないことが繰り返されれば、自分だけの履歴が形成できず、同世代の他の人と類似した、ありふれた履歴しかもてない人ばかりになっていく。その結果、人間関係が希薄化し(差異がなくなり)ます。コミュニケーションの履歴としては、AさんとのコミュニケーションとBさんCさんとのコミュニケーションの履歴があまり差が無くなり、どの恋人とも、渋谷でデートして、ディズニーランドにいったあたりで別れた、というような状況になる。これが「フラット化」です。
さらに、この結果、恋愛(性愛)関係になっても、いつでもこの関係は「交換可能」だと感じるようになります。Aさんがダメでも、Bがいる、Cもいる、と自分も考えるし、相手もそう考えているだろうと感じる。今の恋人Aさんとの関係が少しトラブルと、お互いにこだわることなく、あっさり別れてしまうので、履歴が深まらないのです。
ここに、女性のセックス観の変化が加わります。性の倫理が薄れ、「簡単にセックスさせてくれる」ようになってきたのです。そのため、男から見れば、誰かとセックスすること自体には「深い履歴」の意味が無くなり、性関係があってもなくても、それ自体では履歴は長くならなくなったのです。
これを「彼女はいてもココロは非モテ」(p.37)という事態だと宮台はいいます。いくら恋人がいても、それが自分の自信やアイデンティティの確認につながらず、ますます希薄感がつのる方向に働いてしまう、というわけです。
これについては、30歳前後の人たち(グロービスの受講生のような)から聞く恋愛話からも伺えます。付き合っている相手はいても、結婚には至れない(相手に結婚を迫れない、クロージングができない)人。結婚まで行きかけても、自分からやめてしまう人。出会いの相手はいくらでもいる環境にいるのに、恋人がつくれない人。こういった話を聞くことが増えたように感じます。特定の人と深まるにつれて、「ほかにもっといい人がいるのではないか」「相手は自分をベストと思っていないのではないか」と不安になり、それを確認するのが怖くなって、踏み込めずに崩壊してしまうような感じです。
こういった「深まれそうで深まれない人間関係」が恋愛以外でも同時に広がり、親友やマブダチになるハードルがインフレーションを起こして、友だちはたくさんいるのに、親友やマブダチはいない、知り合いばかり多い自分、という状況が生まれてくる。これも自分だけの人間関係の履歴は形成されにくく、履歴はあるけど、ほかの友だちと同じような履歴に過ぎないと感じるようになり、自分に自信が持てない、自分が何者であるかうまく理解できない人が増えていく、という関係になっているのです。
特に30歳以下ぐらいのあなただとしたら、このような傾向が強いと思われますが、どう思いますか?
★ ★ ★
以上のような「人間関係のフラット化」「コミュニケーションの希薄化」は、「郊外化」と密接に結びついています。「郊外化」というのも、宮台社会学の重要なキーワードです。
「郊外化とは、旧住民に対して、新住民が増えること」と定義しています(p.32)。日本では、団地化、ニュータウン化という流れの中で起き、同時に専業主婦化とコンビニ化が起きてきたといいます。さらに言い換えれば、地域社会が空洞化し、家族に内閉化し、市場化と行政化=システム化とつながっていきます。
このあたりの連続が早すぎて読者はついて行けないのですが、こういう話でしょう。
多摩ニュータウンのあるあたり、町田市や多摩市や稲城市あたりをイメージしてください。昭和30年代まで、そこは里山のある丘陵地帯でした。田んぼ、畑があり、茅葺き屋の農家が集落を作り、交通の便は悪くて、東京の郊外というより、東京に近い農村地帯でした。集落共同体があり、村祭りがあり、共同体による水利用管理があり、自治活動によってあぜ道の雑草刈りやお年寄りの相互介護などが行われてきました。そこに、多摩ニュータウン建設が始まり、山を削って宅地やマンション群ができます。旧住民は移転したり、ニュータウンの中に引っ越します。すると、協働体内のコミュニケーションをになってきた「お母ちゃん」たち、そしてその年齢の新住民たちは、コミュニケーションの機会と必要を失って、家庭内に内閉します。以前は、住民相互が作った野菜を相互にあげてもらい合う関係にあったのが、物々交換が消えて、コンビニで買うことになります。POSシステムが提供する「欲しがっているだろうモノデータ」に基づいたモノだけが流通するようになり、住民のコミュニティからもたらされるモノより、システムが提供するモノが生活の中心になります。祭りなどの自治コミュニティも弱体化するので、地域のさまざまな事象を住民感の話し合いで解決する能力がなくなり、行政に仲介を頼むようになります。住民のひとりが自宅でエレキギターをかき鳴らしてうるさければ、かつては住民相互の牽制(たしなめ)、さらには村のおさのひとことで解決したものが、そこに行政が入り、行政のルールを示すことで、解決するようになります。行政は集落自治体より広域を扱うので、より広範な一般ルールを用意してことに望むようになり、土地土地の自治的な決めごと(たとえばうちの集落は年5回草刈りをする、とか)より、一般ルール(税金によって年4回草刈りをする)に代わり、地域固有の自治能力を失います。
専業主婦化が始まると、生活空間の自治的コミュニケーションが失われ、結果として、コンビニと行政が提供する「システム」が生活空間を覆い始める。これを「郊外化」と呼んでいるのです。
このことが、子供が大人になる家庭で、コミュニケートできる範囲の拡大(前述)、そしてそれによる、ひとつひとつのコミュニケーションの希薄化、そしてフラット化(濃いコムニケーションを持つマブダチと、薄い知り合いの差が無くなり、広く薄くなる)が進行する、というように、若者のコミュニケーションと、郊外化は連動して起きてきている、ということがわかります。
このような状況の中で、われわれは何をしていくべきか。コミュニケーションのフラット化に対して、どのように対応するべきなのか。それに答えるための何かなら、社会の要請にしっかりリンクし、意味のある活動になることがわかります。そしてそれを言語化して自分の人生のwhat?といて位置づけ、そのwhat?を、ではビジネスとして実現するのか、NPOや任意団体として実現するのか、というhow?が考えられるようになります。
具体的な答えとして、宮台は、別の本で「祭り」をあげています。え??なんで祭りなの、と思うわけですが、ざっくり言えば、祭りによって生まれるコミュニケーションは、フラット化や専業主婦化で失われた「この人とは特に濃い関係にある」というつながりを再構築する、ということです。祭りで盛り上がった経験は、そこにいた人だけに共有でき、だからこそ来年もまたやりたい、となる。専業主婦的な内閉性を打破して、関わる人の地域的なコミュニティが形成できる。若者から高齢者まで参加できる。こういったツールは、祭りしかない、というわけです。
各地で盛り上がるよさこい祭りや神輿担ぎ、カーニバルや阿波踊りなどは、こういう文脈で読み解くと、必然性があることがわかります。また、しくみとして、上記の問題を解決するような仕組みがつくれたところが成功していることもわかります。祭りをただやればいいのではなく、解題された状況を踏まえて祭りを設計するかどうかが、成功の鍵になるのです。
社会学的な理解から、自分のwhat?を明確にし、それをどのように実行するかhow?に落とし込む。こういうプロセスがあれば、本当のwhat?が実現できるのです。
コメントする