(by paco)409子供が生まれると変わる男女の関係

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(by paco)「子供が生まれると変わる男女の関係」とタイトルを書いたものの、なんか普通のタイトルだな?と思いつつ、書いてみようと思います。

今の男女は恋愛の末に結婚するので、お互いに自分と相手の距離の取り方のパターンができてから結婚に至ります。この、結婚前後の男女関係を見ていると、僕らもそうだったんですが、実際のところ、子供がえりした関係になる傾向があります。幼児語を使ったり、子供のような遊びをやってみたり。実際、僕らも結婚前後は妻は僕を「お兄ちゃん」と呼んでいた時期があり、2人で旅行をしたペンションの男湯で、「妹さんと来ているの?」と聞かれたこともあります。こちらとしては普通の習慣になっていたので、かなりびっくりしたというか、確かにそのように取られると、すごく変なカップルに見えるよなあと感心したり。本物の近親相姦カップルは、それとばれる呼び方はしないと思いますが。

生まれ育った家族の元から独立して、一人暮らしをしたり、それに近い独立した生活ができるようになって、あらためてであった人と新しい「家族」をつくろうとする家庭で、お互い、子供に戻って「成長」し直し、カップルの関係を大人に成長させていく、というプロセスが、2人の関係を創造していく家庭で有効なのではないかと思います。

甘え合い、言いたいことを言い合っても、相手が受け入れてくれるということがしっかり自分の中に落ちていくと、関係に安心していられるようになるので、初めて「子供を作ってもいいかな」という気持ちになる、というプロセスになります。

もちろん、デキ婚の人もいるし、お互いに30?40代になって結婚したり、バツイチだったり、年齢差があったり、といろいろなカップルが存在するので、僕のようにわりと若いときに年齢が近い相手を決めた人とは別のパターンがあると思いますが、それでも、こういうプロセスを経るカップルはけっこういるように思います。

子供を持たなかったカップルの場合、40代、50代になってもこの雰囲気を持ち続けている人たちもけっこういて、見ていてほほえましい、というように感じることもあります。子供を持ってしまうと、こういう「幼児化」の状況を完全に脱してしまうので、僕にとって懐かしい感覚でも、そのカップルにとっては今も「動態保存」された日常という印象を受けることが多いのです。

さて、生まれた家族の中で幼児期を過ごして大人になり、結婚相手を見つけてもう一度幼児化して家族造りの過程を追体験したあとに、子供が生まれる、という流れで、子育てに突入する、その結果として、何が起こるのかを考えてみましょう。

子供が生まれるということは、生んだ方が大人にならなければならない、ということです。あたりまえと言えば当たり前ですが、子供が生まれることで、人は強制的に大人に移行させられます。2どの「幼児期」を過ぎて、もうさすがに大人になってもいいのですが、それでもうんざりするほど子供を経験できたかというと、今の日本時の平均的な感覚では、まだ足りないのかもしれません。

2回のどちらの幼児期も、基本的に幼児化している瞬間は愛情を受け取る側で、受け取ることの快感があります。しかし自分たちが子供を作ったとたんに、愛情を受け取る側から、一方的に渡す側になる。この変化が、2人に影響を与えずには済みません。

もちろん、もう十分成熟している2人ですから、この変化には堪えられるのですが、それでも何の屈託もなしに移行できるかと言えば、そうではない部分があるのだと思います。子供が生まれた幸せと同時に、お互いに、軽い愛情喪失感を感じるようになる。それと同時に、愛情のやりとりが男女間の相互のやりとりから、子供を仲介者としてのやりとりに変わります。子供を鏡にして反射させながら、相手の愛情を感じるようになります。子供が、単純な「鏡」ならいいのですが、子供は子供の人格があり、キャラがあるので、この鏡は反射率も悪いし、屈折したり色が変わったりします。また妻(夫)に向けた愛情ではなく、子供に向けた愛情が妻(夫)に対する愛情としても機能することから、複数の意味合いが複合的に含まれることになり、受け取る側の解釈が複雑化します。

それでも子供が生まれてから、1?2年のうちはこの変化が「特別」なことなので、お互いにかなり必死だし、子供の変化も早いので、ついていくだけで過ぎてしまいます。しかし子供(複数の場合は、第二子)が2?3歳を迎えるころには、家族の生活も次第に安定して、親はそれぞれお互いに以前とは違うコミュニケーションをとっていることに気がつくのです。

子供が2?3歳になれば、だんだん個性もはっきりしてきて、その個性のどこをよしとするか、親の考えもそれぞれ立ち位置が変わります。一方が子供に対してよいと思ってしたことが、他方の親にとってはよくないことと感じることもしばしばになります。そしてこの「子供にとってよくない」状況が、前述の「子供をはさんでのコミュニケーション」の構造の中で、夫(妻)から自分に向けられた「よくないメッセージ=愛情のない言葉や態度」として映る機会が増えていきます。

たとえば、子供がディズニーのDVDを見たいといったときに、妻は「見せてあげよう」と思い、夫は「見てばかりいるより、絵でも描いたほうがよい」と思うことがあります。夫は「DVDより絵を描こうよ」と子供に言うわけですが、その一言が妻には「夫から自分が拒否された、批判された」と感じられるようなことがあるわけです。

それでもお互い大人ですから、ちょっとむっとしても言葉や態度にしないようにするし、全体的な幸せな家庭生活と比べれば、取るに足らないことだと考えようとする。つまり、おとなの態度を取ろうとするのですが、本音では自分の考えは間違っていない、相手とそのことを共有したいという気持ちが残るのです。

こんな場面で、前回お話しした「共感」と「理解と承認」の違いが表に出てきがちです。女性は「我慢の気持ちでいることをわかってほしい、共有してほしい」と感じるし、男性は「自分の考えの正しさをわかってほしい、DVDを見ない方がいいという行動を支持してほしい」と考えがちです。しかし、相互で求めていることが違うこと(イシューがずれていること)に気がつかないので、コミュニケーションはかみ合わず、互いに相手の無理解と薄情を胸にしまい込み、成立しないコミュニケーションを続けてケンカするより、表面的にひどい状況にならないほうを選ぶことになります。それが「大人」なのだと思うようになるのです。

こうして、コミュニケーションがとれない状況が続き、ついにはコミュニケーションそのものが放棄されるようになるわけです。

社会学者の宮台真司は、「社会とはコミュニケーションの総体である」と定義していますが、コミュニケーションがとれなくなれば、夫婦という社会は崩壊の危機に瀕するのです。

このような状況は、子供(第二子)が中学校に入るぐらいまでは続きます。子供のキャラクタによってはもっと続くかもしれませんが、子供があまり問題を抱えずに成長していれば、中学生ぐらいになれば、夫婦間のコミュニケーションも、子供を介さずに成立する機会が増えていくでしょう。

こう考えてくると、第一子が2歳になるころから、第二子が中学に入るまでの、10?15年ぐらいが、夫婦間のコミュニケーションが非常に危機的な状況になっているタイミングだということになります。ちなみに、第二子は末子ではなく、第二子です。第三子以降は、もちろん同じ構図をかかえているのですが、さすがに第二子までに状況の変化を学んでいるのと、親の子供へのコミットが減ることで、末子が成長するまで状況が続くことはないのが一般的だと感じます。もちろんこれらは、個別の家族の状況を無理に一般化していることによる「無理」があることは、認めます。あくまで、おおよその一般論と理解してもらえればと思います。

さて、この10年と少しの期間を、どうのように捉え、乗り越える、あるいはやり過ごすか。その方法の選び方で、子育て後の夫婦の関係が変ってきます。そしてそれ以前に重要なのは、夫婦間のコミュニケーションが必然的に困難なのは、この10年と少しの(限定された)期間なのだということを理解しておくことが重要です。

この「困難な10年間」を、僕と妻はコミュニケーション量を多くすることで乗り越えて(やり過ごして)来ました。共感を求める妻に、こちらの気持ちを必死に押さえて共感を与え、理解を求められた妻も、彼女なりの努力によって、答えてきたのだと思います。それでも、もともと困難なコミュニケーションなので、うまくやれたのかと言えば、正直言って、YESとは言いがたいものがあります。意思の力で、暴発しないようにやり過ごしたのでしょう。

僕たちはこれが一番いい方法と信じて何とかやってきたので、これが一番いい方法と思いがちですが、そうとは限らないとおもいます。他の方法として以下のようなものが考えられます。

(1)徹底的にコミュニケートする(前述の方法)。

(2)お互い仕事を持って、「言いわけ」をつくる。お互いにフルタイムの仕事を持って、人生の半分から7割ぐらいを仕事に注力すれば、家庭にかかるパワーが少なくなることはやむを得ません。子育ては保育園にアウトソーシングし、その残った少ない時間で子供と関わる場面で夫婦のコミュニケーションにギャップがあっても、しょせん全人生の中での占める比重は小さくなるので、ギャップについて深く考えることもできません。ぶつからないように10年を「やり過ごし」、問題の期間が終わってから、再構築をめざすという方法です。

この方法の問題点は、限られた子育ての時間での夫婦間のコミュニケーショントラブルを、全人生と比べてを「小さなことだ」と感じられるうちはいいのですが、逆に「限られた時間なのに、問題ばかり抱えてしまう」とネガティブモードになると、小さなことが大きなことに肥大化してしまって、こじれてしまいます。また、10年間はかなりハードな状況になるので、これが一生続くと感じるとやりきれない気分になり、自暴自棄になったりしますが、うまくやり過ごせば次のフェーズに進めると夫婦それぞれが(直感的にでも)理解していれば、やり過ごすことができます。

(3)仕事、子育て以外に、共通の楽しみをもつ。前回話した、飲んべえや共通の趣味、というのはこれに当たります。夫がサーフィンが趣味、妻や家族は海辺で遊ぶのが好き、というような場合は幸せな共通の趣味ですが、夫の趣味が家族の楽しみにつながらないと、この構図は崩壊します。趣味を夫婦それぞれがやることになれば、それは(2)のそれぞれが仕事を持つことと変わらなくなり、やり過ごしているのと同じです。また共通の趣味をやりながらそれが夫婦間のコミュニケーションギャップのタネになることも多く、一緒にテニスをやっているのに、夫が妻にうんちくを語りすぎて妻が不満を持つというような構図になると、意味がありません。子育ての時間と両立し、かつ、子育てをメルって置きがちなコミュニケーションギャップを打ち消すほどの楽しいコミュニケーションがとれるような楽しみが見つかるかどうかがポイントです。「夫婦そろって飲んべえ」などは、これのよい事例になるでしょう。

ということで、今僕にはこのぐらいのオプションしか思いつかないのですが、あなたの場合はどうでしょうか。自分たちはこうやって乗り越えた、というような方法があればぜひ教えてください。

さて、この「困難な10年」やり過ごせば、その後はなんとかなるのでしょうか。僕らはようやくこの期間を抜けたころなので、「うまくいく!」といいきるまでのことはできないのですが、全体としてみれば、これで残りの人生は妻と2人でなんとか楽しくやっていける、という思いがあります。実際、ここ2?3年は、袋小路に入るような言い合いはほとんど無くなりました。お互い、すみずみまでわかっている相手として、居心地がよくなり、その一方で、コミュニケーションすべきことは前よりたくさん、うまく話ができるようになりました。ヌケた、という感じがしています。

お互い、それなりに努力してこの期間を持ちこたえたという実感があれば、ヌケた時にはふたりはさらに親密になれるのではないかと思います。

このところ、というか、以前からですが、仲がよかったカップルの離婚を何組も見てきました。もちろん、壊れてしまった夫婦関係なら、離婚という選択もアリだし、それを否定的に見ることはありません。それぞれの状況の中で、正しい道を選んだのだと思います。でももし離婚しないでやれたらもっとよかったのに、という思いは、みなあると思います。

あなたが結婚しているのか、子供がいるのか、わかりませんが、もしコミュニケーションが困難だと感じているとしたら、今回の話が参考になればうれしいです。

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