(by paco)先週、大人になるということについて書きました。今週はこれを受けて、大人である自分が、人生を通じて何をやっていくか、自分の「人生のwhat?」を見つけるという話をします。
もともとこの話は、グロービス・マネジメント・スクールのクリティカルシンキングクラスの中で特別講義として話しているものです。
GMSで学ぶものは、あくまでHow?の勉強です。どのように考えると確実に考えられるか、よい結論が出せるのか。マーケティングもファイナンスも人材戦略も、みなHow?が中心です。でもそのHow?の力を、何に活かすかは、what?の問題で、自分のライフワークとしてどんな領域を持つべきか、がわかっていないと、せっかく身につけたHow?の力も、会社という「誰か」のために使うことになります。会社が目指すものと自分が目指すものが一致していればいいのですが、自分のライフワークがなにかが明確でなければ、そもそも一致しているかどうかを知ることもできません。
グロービスのクリシンクラスでの特別講義では、自分なりの人生のwhat?を見つけるために、どんな点に注目していけばいいのか、考える対象や視点をお話してきました。過去3?4年続けていますが、受講のアンケートでも好評で、「あの特別講義も受講費用の中なら、本当に安い(実際、追加料金はいただいていません)」と評価してくれる人もいて、僕としてもとてもうれしく思っています。
では自分の人生のwhat?、自分の人生の目的、これができれば、自分の一生は意義があったと感じられるようなものとは、どんなものなのでしょうか? 僕自身は、大きくふたつのwhat?を持っています。ひとつは環境、もうひとつはライフデザインです。
環境については、その中にもいくつか領域があるのですが、環境についてどんなことを実現したいのか(what?)というと、「環境問題に気づき、何かをやり始める立場にあった世代の人間として、やれるベストと尽くしたことを下の世代、特に娘に見せておきたい」ということです。これではなんだか漠然としているので、これをさらに、実際のアクションに移すときに、「温暖化防止の方向に社会を動かすために役割を果たす。特に、豊かさの向上とCO2排出の伸びが正比例する状況から、反比例する状況に変える」ということがあり、これが僕の人生のwhat?のひとつです。
さらにそれをどのようにやるか、とブレイクダウンして、行政を変える、企業を変える、市民の行動を変えるなど、いくつかの方法を想定し、そのときどきにできることをやってきた、というのがこれまでのところです。「ヤマガラの森」もこのわく組に入るひとつになります。
もうひとつのライフデザインは、「僕とのかかわりを通じて、自分自身の人生のwhat?を見つけ、それを実現する人を、少数でもいいから確実に増やす」ということが僕自身の人生の目的だと位置づけています。ただし、そのために私生活を犠牲にすることなく、私生活の充実と自分の目的の実現の両方を同時に果たせる人を増やしたいというのが、僕にとってのライフデザインという目的になります。
なんだかこんがらかりそうですが、僕を触媒にして、僕と関わった人が自分のwhat?を実現してくれること、というわけです。人生のwhat?、というのは、普通の言い方では、自己実現とか、人生の目的、目標、ゴールなどと呼ばれているものとたぶんおなじだと思います。ただ、あえて目的とか目標という言い方をしていないのは、how?に対してwhat?という問いを持ち続けることが大事だと思うからです。僕たちは、how?はよく自問します。どうやればお金持ちになれるんだろう? どうすれば希望の仕事に就けるんだろう、など。でも「何を目的にお金持ちになるんだろう?」「その仕事について何をやろうとしているんだろう?」という問いは、問われることが少なく、結局は手段が目的と化してしまうことがよくあるのです。目標と持っているのかどうかと考えるより、今「何をしたいんだろう」「何を実現できればハッピーなんだろう」というように問いかけ、答えを探す、その答え探しの家庭が人生の前半戦なのだと思うのです。
本来は、前半で答えを出し、後半戦はその実現のために力を注ぐというのがあるべき姿だと思いますが、もちろん、前半・後半は概念的なもので、たとえば35歳とか、時間の区切りがあるわけではありません。むしろ、いくつであっても、人生のwhat?が見つかって以降を後半戦と呼ぶ、という言い方の方がいいのかもしれません。またいったん見つかった(と思われた)what?が、のちに違うものにに取り替えたくなることもあるでしょう。それあまり好ましいことではないにせよ、絶対に変えてはいけないというようなものではないと思います。つまり、いくつであって、そこから後半戦、言い換えれば本当の人生をスタートさせることができるのです。
もうひとつ補足。人生の目標や人生のwhat?は持たなければいけないものなのでしょうか。無目的に生きているのは、よくないことなのでしょうか。
僕は無目的であったとしても、what?が決まらなかったり興味がなかったとしても、まったくかまわないと思っています。むしろ、人生のwhat?を持つべきだという考え方は、どちらかというと特殊な考え方なのです。でも、人生のwhat?を持たない生き方と比べれば、持っていることで得られる豊かさがあり、持つ生き方を積極的に選ぶ理由はあると思います。
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人生のwhat?を持つということについては納得できたとして、しかしそれを実際に見つけ出すのはなかなか大変なことです。なぜでしょうか?
人生のwhat?とは、日々の目標、たとえば、次の商談を成功させたいとか、英語の力を付けたいとか、今年は何回旅行に行きたいとか、そういう目標とは質が異なるからです。やはり旅行の回数では人生の目標というにはちょっとつまらない感じですよね。
ではどのようなものならいいのでしょうか。はやり社会的な意味があること、自分の個人的なことではなく、利他的な要素があること、これまでなかなか実現できなかったこと、大きな努力がないとできそうもないと自分も他人も感じられるようなものであること、などが要件になるでしょう。
自分に関心があり、しかもこういった広い視野から「これが重要だ」と言えるようなことを見つけ、実感を持って「これが自分の人生のwhat?」と言えるようにすることは、なかなかハードルが高いのです。特に社会性や利他的な要素ということになると、自分の視野を広げて、今必要なことや、今提供されていないことを見つけ出す必要があり、こういう視点を持つ機会が、普通の人にはあまりない、という問題があるのです。
僕の「特別講義」では、縦軸と横軸のふたつを持つように、という話をしています。縦軸は時間軸、歴史の軸で、特に近代史を学び直すように。横軸は地理軸、地球軸で、特に先進国と途上国との関係を学び直すように。そんな話を、具体例を挙げながらしています。
とはいえ、この特別講義は10分×6回という時間しか無く、細かなところまではなかなか離すことができません。そこで歴史と世界から、人生のwhat?をみつけるセミナーを独立の場として実現しようかなという構想は数年前から温めてきたものでした。そのために、適切なテキストがあるといいなあと思ってはきたものの、歴史と地球ではちょっと漠然として、なんでもありになってしまいそうなのも気になり、こうしよう、という具体的なセミナーにまで企画するきっかけがありませんでした。
そんなところに出版されたのが社会学者宮台真司の本「14歳からの社会学」「日本の難点」です。特に「日本の難点」は、宮台真司初の本格的な日本論、政治論ということで、注目して読んだのですが、ただでさえ難解な宮台ワールド、それが短い新書版の本の中にテーマをさらに大きく広げてぎっしり書かれているので、かなり難解です。正直、僕自身も1買い読んだだけでは6割ぐらいしかわからない、という感じです。ですが、今の日本の社会、世界を捉える視点として、持っておきたい重要な考え方が網羅されているので、これはかなりいいテキストだと革新しました。で、いま、「日本の難点」をテキストに、読書会形式のセミナーを全6回ほどかけて実施しようと思っています。
「日本の難点」の目次を見てみましょう。
第1章 人間関係はどうなるのか ……コミュニケーション論・メディア論
第2章 教育をどうするのか ……若者論・教育論
第3章 「幸福」とはどういうことなのか ……幸福論
第4章 アメリカはどうなっているのか ……米国論
第5章 日本をどうするのか ……日本論
という構成になっています。
それぞれがどのように自分の人生のwhat?につながるのか、セミナーで考えていきたいのですが、一例として第1章を見てみましょう。
人間関係を論じたこの章では、まず「若者のコミュニケーションはフラット化したのか」というイシューが提示されます。「フラット化」とは、「人間関係が希薄になっている」ということだとほぼ同じです。
まずここの両者について、ピンと来るでしょうか。
「若者のコミュニケーションはフラット化したのか」
「人間関係が希薄になったのか」
もしyesなら、それは具体的にはどのような意味で、なぜそれが言えるのか、理由を考えてみましょう。
「現代の人間関係の希薄さ」というとき、「昔は人間関係が濃厚だった」ということを意味しています。でも昔も、全員と濃厚だったわけではなく、希薄な相手(知人、知り合い)と、濃厚な相手(家族、地域の隣人)があり、全員が濃厚だったわけではないでしょう。もっと昔の、江戸時代の小さな農村のような場合は、そもそも知っている人が村人100人だけで、全員と顔見知りで、生まれてから死ぬときまで一緒、というような「濃厚な人間関係」をすごしてきたと考えられます。それが、明治以降の近代化によって、職業や居住地が自由になり、農村から街に出ていく人、街からやってくる行政の長や工場主などが入り交じるようになり、昔ながらの濃い関係の人と、薄い関係の人が生まれました。その後、この混淆はさらに進み、逆転し始めます。生まれたときから近所のガキ仲間で、同じ頃小学校に行き、大人になっておっさんおばさんになるまで、過去から今をすべて知っている、というような人が、以前はたくさんいました。今は、身近に小学校の同級生がいる人はかなり少なくなり、濃い関係の履歴を持っている人がごく少数になりました。
恋人になるとさらに明白です。以前は限られた男女関係の中から親の勧めや見合いなどで結婚相手を決めていたのに、今は自由恋愛で誰とでも恋愛関係になることができ、結婚も自由です。出会いの可能性は広がり、リアルの場だけでなく、ネットも含めて、ほぼ無限の可能性が目の前に広がりました。
こういう中で、たとえばナンパもまったく違う様相を示すようになったと宮台はいいます。以前はセックスできる相手を探すこと自体が目的で、それ自体希少価値だったのが、今は希少性がなくなりました。この女(男)がダメなら、次の女(男)というように、いくらでも交換可能になった結果、セックスの相手を維持するために払うコストが圧倒的に低下し、セックスも含めて特定の相手と一緒にいること(コミットメント)のために払うコストが、割が合わなくなったのだと。
出会いの可能性が広がる(=人間関係が流動化する)ことによって、特定の人とじっくり付き合う(=コミットメント)の意味が無くなり、特に濃い人間関係を結ぶという相手がほとんどいなくなる。親友や恋人、家族と行った最も濃い人間関係までもが、コミットせず、次々相手を変えた方がいいような状況になってきました。これが人間関係のフラット化、希薄化です。社会のつくりやネットの広がりという外的要因によって、人間関係の流動化という現実が起こり、それに対応するようにフラット化、希薄化が起きるのは、当然の流れ(合理的判断)だと宮台はいいます。
さて、人間関係の流動性とコミットメント、フラット化、という概念を学んだ上で、改めて自分が何をするべきか、考えてみましょう。
たとえば、流動性を下げ、コミットメントの高い人間関係を構築できるような仕組みをつくることで、濃い人間関係を結べるようにする、というサービスが考えられます。宮台自信も別の著書でいっていますが、「祭り」です。不特定が参加できるものの、毎年決まった日の祭りに向けて、同じようなメンバーが集まって、祭りの準備をした上で、当日同じ時間を過ごし、盛り上がる。これが繰り返されることで、コミットメントが強い、フラットでない人間関係が生まれます。フラット化する社会を、祭りというしくみを使えば、押しとどめることができ、フラット化、希薄化する人間関係を、再度取り戻す可能性が開けます。祭りを単なる盛り上がりや物売りの機会と見なすのではなく、今の時代の中での位置付けとして再定義することで、自分のライフワークにする契機とすることができるでしょう。
今の社会が抱える問題や変化の視点を知ることができれば、そこを軸に、社会的な意味もある、かつ自分も興味が持てる世界観のあるコンセプトを生み出すことができます。それが自分の人生のwhat?につながるのです。
さて、実際にこの本から何が学べるかについては、今僕自身も再読しつつ、セミナーでは悪まで社会を見る視点の獲得を目的として、使っていきたいと思っています。
会の詳細は、ほどなく知恵市場にアップする予定なので、興味のある方はぜひお出でください。
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