(by paco)403豊かさの形・試論 -3

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(by paco)豊かさについて、もう少し続けます。前回までに

●選択肢が広く、選択する力がある
●社会の中での孤立感なく、存在できる
●良きエリートが社会をリードするしくみがある

という話をしました。今回は、

●世界との協調し孤立感を排除、独自性の存在感を出す

というテーマです。

この話は、実は2つ目の「社会の中での孤立感なく、存在できる」で話した意味合いを、個人ではなく、国という集団に当てはめたものです。

社会の中で個人として孤立していない、尊厳を持って存在できるということは、個人の豊かさにつながります。しかし、そうやって存在している社会自体が、それを含むもう少し大きな社会の中で孤立したり、尊厳(存在感)がなければ、個人の存在感もまた、希薄なものになる可能性があります。

もし、日本という区に(社会)に存在感がなく、他の国の人々から敬意を払われない国なら、どうなるでしょうか。

日本という社会の中ではそれなりにちゃんとやっているつもりでも、一歩世界に出てみると、日本人であるというだけで軽く見られたり、軽蔑されたりしてしまい、自分自身の持てるものが差し引かれてしまいます。逆に、日本という国がしっかりしていれば、日本人であるというだけで一定のゲタを履かせてもらっている状態になります。

では、国家というのは、個人の「ゲタ」としての機能が目的なのでしょうか。今の状況で言えば、僕はその通りだと考えています。

個人より国家が優先されるのか、国家より個人が優先されるのかというのは、昔からある問いですが、僕は基本的は、個人が優先で、国家は個人をアシストすべきものだという立場をとります。

この二律背反は、今の時代に生きる人は意外にピンと来ないのかもしれませんが、歴史上、このふたつの二律背反はしばしば具体的に登場します。

日本では、1960?70年代の安保闘争や全共闘の時、日本政府による強力な弾圧が行われて、学生運動や反政府運動は非合法なほどの強力な警察権力によって崩壊しました。国家の存続を脅かすものは、ろくな武器を持たない学生相手であっても、弾圧してつぶすという歴史が、今人気の「昭和の時代」に実際にありました。

もう少し前の太平洋戦争末期には、個人はもっと国家の犠牲になりました。作家の司馬遼太郎は、終戦直前、北関東の陸軍基地で本土決戦に備えて訓練していましたが、本土決戦が迫り、上官に質問しました。「米軍が東京に上陸した場合、東京からの避難民が国道を北上してくるでしょう。決戦のために東京に向けて進軍すれば、逃げてくる一般市民とぶつかります。戦車は東京に向けて進めなくなります。どうしたらいいでしょう?」すると上官は「市民は踏みつぶしていけ」。

国家が個人より優先されるべき存在になると、個人は簡単に押しつぶされるのだと司馬は言います。

国家は、個人を守るためにこそ存在し、個人をつぶすために存在してはいけない。

こういう原理がきちんと認知されるべきなのですが、実際には、「全体があって初めて個人が幸せに暮らせる」というように本末転倒で考える人々が一定数いるのも事実です。こういうタイプを保守派とか、右派といい、一方、個人を優先する立場をリベラルと呼びます。左派ではありません。左派もさらに左になり、共産主義の立場になると、全体優先主義は逆に強まってしまいます

もう少し言えば、国家は個人に「ゲタを履かせる」存在でなくてもいいと思っています。個人が個人としてニュートラルに見てもらえさえすればいいのです。しかし現実にある「世界」では、個人はやはり国や民族というカテゴリのバイアスで見られる傾向が強く、個人が所属の国家を無関係に、個人としての資質で判断されるまでには、人間社会はさらにいくつかのハードルを越えていく必要があるのだと思います。

以前は、日本という国家の中にもクニがありました。土佐の国、武蔵の国、長州、薩摩……。さらにクニの中に町や部落という単位があり、所属する集団によって個人の評価が変わってしまうことが当然でした。しかしそういったクニの単位が社会を形成し、個人に対してゲタを履かせたり、ゲタを奪ったりする時代は、近代化とともに終わりました。今は、「東京出身だから、半分ぐらいの能力しかない」とゲタを奪われることはありません。少なくとも日本のような国にあっては、クニ(地方)単位の偏見によるゲタはかせや、ゲタの足切りは今はほぼなくなりました。いずれ世界も、国家に対する理解の仕方によって、国家が個人を存在感あるものにしてくれるのか、逆なのかかといった価値判断は、過去のものになるかもしれません。出身地がどこであろうとも、個人の資質や行動によってのみ、評価されるようになれば、その時こそ、国家という形そのものが消滅するときなのかもしれれません。かつて日本にあった「薩摩のクニ」「薩摩人」がすでに過去のものになったように。しかしそうなるまでには、まだ結構な時間がかかるでしょう。それまでの間は、国家の存在感が、個人に影響を強く与えるということを、了解しなければならないのです。

世界と国、個人の関係をどのように考えるべきかの基本的な理解のしかたが、

国家は、個人を守るためにこそ存在し、個人をつぶすために存在してはいけない。

ということのだと僕は考えています。

この原則の下に、国家は控えめに存在感を示しつつ、しかし同時に世界に対してマイナスの存在感にならないように一定のプレゼンスをもつべきです。

とはいえ、「国家」というものがいきなり存在しているわけではありません。国をリードする人がいて、その人たちが日本という国のプレゼンスを考えるということになるでしょう。誰が、どのようなプレゼンスの発揮を考え、リードすべきなのかと考えると、これは前回お話しした「良きエリートが社会をリードするしくみがある」という要件の中での「よきエリート」が担当すべきだと言うことになるのだと思います。

そのエリートが、どのような日本の存在感を描くべきかについては、この私論では語りません。語らなければならないことは、エリートにその任を預けるにしても、原則は、「国より個人が優先される」ことであり、国家は、世界での個人の存在感に寄与するか、ニュートラルな影響であるべきで、国家の行動によって個人の世界の中での尊厳がマイナスされてしまうことがないように運営されるべきだ、という点が原則になると思います。

 ★ ★ ★

ということで、3回の連載で、豊かさを感じられる要件として、

●選択肢が広く、選択する力がある
●社会の中での孤立感なく、存在できる
●良きエリートが社会をリードするしくみがある
●世界との協調し孤立感を排除、独自性の存在感を出す

という4つが揃っていることが必要なのではないか、という私論を書いてみました。

ひと通り書いてみて、これでいいのか、他にはないのか、フレームがちょっとヘン?と思わなくもありません。

特に不足感については、

◎文化や芸術へのアクセスとその育成
◎経済的な豊かさをどう位置づけるか

というあたりを、上記の4つの下部に位置づけることでいいのか、それとも別の枠が必要なのかについては、まだ答えが出ていません。あくまでもまだ試論の段階なので、ご容赦願いたいと思います。

もともとこの試論は、GDPで測れる豊かさから、別の豊かさの評価軸への進化をめざしたものです。現段階ではまだ十分ではありません。

ここまでの論では下記きれていない部分として、「文化や芸術をGDPに換算しなくても、<資産化>できる」ことが重要だろうと思っています。デザイン、コミック、アニメ、ポップミュージック、ファッション、アート、スポーツ。こういったあたりをどうやって豊かさに位置づければいいか。また逆に、高齢者福祉や障害者など社会的弱者の観点もまだ抜けているような気もします。

そんなことをこれからのイシューとして設定し続け、また折を見て書いてみようと思います。

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