(by paco)402豊かさの形・試論 -2

| コメント(0) | トラックバック(0)

(by paco)今週も「豊かさの形・私論」というテーマで、QOLの高い社会について考えていきます。前半では、

●選択肢が広く、選択する力がある
●社会の中での孤立感なく、存在できる

というふたつについて考えました。今週はその続きです。


●良きエリートが社会をリードするしくみがある

昔は、エリートという言葉が嫌いでした。

力も氏素性もない若い世代は、エリートという概念が嫌いなのは当然で、なんでそんなわけのわからないものに自分たちの生活が支配されなければならないのか、という反発を持つものです。

それがエリートの否定につながっていくわけですが、今になってわかってきたことは、エリートの存在そのものを否定しようとしていたわけではなく、「かつて考えられていたエリートの概念」と、「そのころ存在していたエリートになるプロセス」について、否定したかった、またはその意味するところがよくわからず、不透明であるがゆえに、肯定できなかった、ということです。

要するに無知だったというか(多くの人は今もわからないと思うけど)、若かったというか。これについては、またあとで触れるとして、まずはエリートについて考えてみたいと思います。

今の時代の民主的な社会におけるエリートとは、出自の正しさとか、もちろん勉強ができるというようなことではなく、次のような要件を備えた人のことではないかと思っています。

(1)公平で、公正な態度、行動を取ろうとしていること
(2)社会全体を見ようとする視点を持っていること
(3)時間軸でものを見て、過去から未来の中間に自分を位置づけ、未来に責任を持とうとしていること。
(4)説明責任が果たせること。
(5)自分の個人生活は自分で責任を果たすことができ、余力があること。

エリートの仕事には、この3つの要件が必要で、ここに、それぞれの専門分野に必要な知識や能力が加わります。ただし専門知識がどのようなものであるかはエリートの種類によって違うので、あえて加えてはいません。また専門知識を持っていることはエリート以外の要件でもありますが、上記の5つはエリートを構成する要件であり、この要件はエリート以外にはあまり役に立たないものでもある、という点が、「専門知識」とは性質が異なるものです。

この定義から見えてくるエリートとは、必ずしも政治的なエリートだけではありません。社会に存在感のある事業をつくろうとする経営者、社会的な影響力のある人材を育てようと志す教育者には求められる要件であり、逆に言えば、こういった人たちは政治とは無縁であっても、エリートなのだと思います。

つまり、エリートとは、「未来に向けて、社会的な影響力を与えていこうとする者」であり、それゆえ、未来に対して「善なる影響」を与えようという気概を持つものだと思うのです。

もちろん「善なる……」の部分は、ポストモダンの社会では基本的に相対的です。神の意志が社会を支配していた中世なら、前なる意志は神の意志でした。しかしポストモダンの世界ではすべての価値、善悪(倫理)は相対化されてしまい、「可能的なオプションの中での最善と(本人が)思うもの」に過ぎなくなっています。要するに、絶対的な善を想定することが不可能になり、あくまでもその人個人の中での善の概念に忠実かどうか、という以上のことは期待できなくなっています。それ故に、たとえば「戦争こそ、社会を進化させる善なる者だ」と考え、戦争の実現こそ自分が考える「未来への責任」だという人がいても、それをエリートの条件から外れていると否定することは、できないのがポストモダンの世界なのです。

ただし、未来への責任が持てない人物をエリートと呼ぶこと、エリートにすることはできないでしょう。その意味では、ブッシュJr.は、果たして未来への責任を果たしたと言えるのか、相当疑問ですが、小泉・元首相は彼なりの未来への責任を果たしたという点で、エリートではあったのだと思います。ただし、小泉氏は(1)の公平・公正な態度については相当疑問があります。僕は彼がイラクで人質になった4人に対して取った態度の不公正さについて、決して忘れない。

ちなみに、エリートの要件を満たしていれば、「優れたエリート」であるわけではないでしょう。エリートの仕事をするにふさわしいと見なされるだけで、優れているか凡庸かは、結果で判断されることになると思います。

と、抽象的な話になってきたので、もうちょっと具体的に考えましょう。僕は、エリートは嫌いだったし、エリートになろうとも思わなかったし、エリートになるような大学にも進めませんでした。しかし、今はエリートの仕事をしています。横浜市をはじめとする審議委員や行政の研究委員、そしてビジネススクールや企業でエリートになる人材の育成にもかなり深く関わっている。こういう仕事をエリートの仕事ではないと言い逃れすることは潔くないと思うようになりました。自分なりに紆余曲折はあるものの、自分で望んで今の仕事をして、今の仕事で一定の評価を受けているのは間違いのない事実であり、そのことをへんに否定したり、卑下することは、まさに「未来への責任」を果たしていない態度だと気がついたのです。

逆に言えば、エリートとはこの程度の仕事だということもできます。若い頃から英才教育を受けたり、華々しい経歴を歩んでエリートになるとは限らず、要件を満たす人が、ある種の偶然も手伝って、そのポジションに着き、そのの仕事をすると言う者で、役割ではあっても、そしてその人個人の資質には深く根ざしているにしても、いったんエリートになったら修正エリート街道を歩み、失敗したら転落、というようなものではないのだと思います。エリートとしての要件を満たしつつも、あるときはエリートの仕事もし、あるときはごく普通の、エリートとは呼べない仕事もする。そういう時代になってきているのでしょう。

というのは、今横浜市の温暖化対策の政策決定にをリードしている人を見ると、いわゆるエリートではなく、またエリートのポジションをすでにものにして、これから先もエリートの仕事をし続けると決まっている人たちではなく、いわばパートタイムのエリートだからです。今はたまたま偶然もあってここに集って、未来への責任を果たしている。でも、3か月後にはどうなるかわからないし、この先、再びエリートの仕事をするかどうかは、別に決まっているわけではない。そんな感じです。

さて、最初の問いに戻りますが、エリートになるプロセスの問題です。

上記の要件が備わっている人材がエリートのポジションにつけるようなプロセスが存在していればいいのですが、これまでのところ、実現していません。上記の要件をクリアしているかどうかを審査する機関をつくるのでしょうか? 正直、よくわかりません。

ただ、この要件を参照して選びました(選ばれました)と説明することはできると思います。たとえば、首相や市長が部長(局長)以上の職員を決めるときの基準にするとか、そもそも、占拠で選ばれる立場の人が、自ら立候補にふさわしいかどうかを、こういった基準に基づいて宣言するとか。

で、この考え方は、なにが違うのかというと、原理原則をあらかじめ立てておき、それを参照して行動するという行動規範のあり方なのですね。こういうやり方は、ここ20年ぐらいに登場してきた一部のベンチャー企業に採用されてきました。何かをやるときに、先に原理原則を決め、それに適合するように、自らの行動を決めていくという考え方です。

これと対極にあるのが、行政にありがちな「個人裁量」=「社会のルール」というやり方です。あるいは「部族社会的」と呼んだりもしますが、権限がある組織のポジションに着いた個人が、個人の考え(裁量)でいかようにも判断できてしまうというやり方は、もはや時代に合わないと言うことです。近世までは、こういう個人裁量が当然で、だからこそ、遠山の金さんや大岡越前の守のような奉行が、名判決を出すと、喝采を浴びるわけですが、奉行が変わって凡庸なやつになれば、不当な判決が出ても修正できません。これに対して、法律や規則で行動を決めようというのが法治国家の考え方ですが、そうはいっても何もかも法律で決めることは難しく、担当者の個人裁量がどうしても必要です。またあらかじめルールが決まっていないような問題が起きると、ルールなしになり、判断が恣意的になります。原理原則を使うことで、ルールがあるところはルールに基づいて判断し、ルールからはみ出す部分は、原理原則に則って判断するようになり、個人のブレが少なくなるのです。そのためには、判断の立場にある人(エリート)を決める際にも原理原則を当てはめ、原理原則から判断できる人材をエリートの仕事に就ける必要がある、ということです。

ちょっと議論が戻りますが、そもそもエリートと呼ばれるような、社会の未来を決めたり、行動を取っていく人は必要なのでしょうか。庶民とは別の、特定の役割として必要なのか。

これも僕自身が長らく疑問だったことなのですが、いろいろ経験を積んでみると、やはりエリートは必要だという考えに至りました。

エリートの仕事は、自分のことだけでなく、社会全体や、未来の世代のことまで考え、最適な判断をすることにあります。でも、こういった判断が出来る人は、やはり現実的に限られている。どのぐらいの比率に限られているかははっきりは言えませんが、たとえば、義務教育である学校の教室30名のうち、どのぐらいがこういう判断が出来る人になるかと言えば、僕の経験値ではせいぜい多くて3名、でも実際には1名いるかどうか、でしょう。しかも、素質があっても、本人の健康状態や家庭環境、仕事環境、本人の切磋琢磨、見出されるかどうかの偶然などを加味すると、さらに少なくなり、500人にひとりとか2人とか、多くてその程度の数ではないかという印象です(もっとちゃんと調査する必要はありますが)。

それ以外の多くの人たちは、自分が生き、生活することだけで精一杯だとか、それ以上のことには関わりたくないと考えているわけで、そういう人に「国民の義務だから、エリートの仕事をしなさい」と言っても、希望もしないし、やったとしても結果はよくないのです。こういう社会の実際の状況について、子どものころの僕はよくわからなかったし、実際にしみじみわかってきたのは、ここ5年ぐらいのもので、論理思考をきちんと教えるようになって、初めて気がつきました。

こんな、偉そうなエリート論を展開するようになるなんで、自分でも違和感がありますが、エリートとしての一定の役割を果たしている以上、なぜ自分がそこに関わる資格があるのか、という点について、自分なりの意味づけをしておく必要があると感じるようになりました。そうしないと、自分がやっていることの重みにつぶされそうになる、ということでもあります。

さて、ここまでが社会をリードするエリートとは何かという話ですが、Quality of Lifeの高い社会とは何かという話に戻しましょう。

仮にエリートがこういうものだとしたら、豊かな社会とは、エリートの原則に従ってエリートの仕事をする人が出てきて、エリートの仕事として社会参加したい人がエントリーできる社会であり、ふさわしくない人が入れない社会であるべきだということが言えます。つまり、社会の運営に参画する権利は誰にでも開かれているべきだけれど、実際に運営に参画する人は一定の条件をクリアする必要があり、どんな条件下は公開されているべきだということになります。

と同時に、冒頭の原則(1)?(5)がクリアされた人が決めたことであれば、おそらく社会で生きていくための安全と安心が確保されるような運営がなされるだろうと考えられ、自らエリートとなる能力や気持ちが無くても、安全と安心が保障された生活は実現されると考えられます。

もちろん、これも僕らしい理想主義なのかもしれませんが、みんながそれなりの幸福感と豊かさを享受でするために、社会の運営にあたる人が必要で、その人の役割とは何かと考えたときに、(1)?(5)の要件が出てきた、ということなのです。

ということで、まだ見落としている議論がありそうな気はするのですが、私論として、エリート論をまとめてみました。


 ★ ★ ★

予定ではあと1項目書いて完結するつもりだったのですが、予定量に達してしまったので、残りはまた来週にしたいと思います。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://w1.chieichiba.net/mt/mt-tb.cgi/224

コメントする