(by paco)401豊かさの形・試論 -1

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(by paco)今週は、「豊かさの形」と題して、Quality of Lifeについて考えてみたいと思います。もっと言えば、Quality of Lifeの高い状態が社会に実現されているというのはどういうことなのか、ということです。

知恵市場を10年ぐらい続けてきて、知恵市場は個人個人にとってのQuality of Lifeを考える場であり、Quality of Lifeの高い個人の集合体が、社会のQuality of Lifeであるというように考えてきました。そのように定義していたというわけではなく、僕自身の関心が基本的に個人にしかなく、社会全体や企業全体についてはあまり興味がなかったからです。

企業の経営に関わるコンサルティングもするし、横浜市のように政策にも一部関わってきましたが、そのスタンスは、上位概念を変えることで、「個人がどのように豊かになれるのか」という観点から離れたくなかったのです。

そのスタンスは、今も、そして今後もそれほど変わらないと思うのですが、やはり政策に関わるようになると、考えざるを無いことも多くなり、今回は少し上から見下ろし目線から書いていこうと思います。

基本的な視点は、「GDPで測る豊かさが完全に崩壊して以降、僕たちは何を豊かさの指標にするべきか?」という点です。GDPで測る金銭的経済的豊かさが崩壊したのは、日本の場合、バブル崩壊の後の90年代中葉です。「清貧」という言葉がはやり(すでに死語)、物の値段が下がって住宅価格も大幅下落して、GDPで測る経済は縮小を続けているのに、家は持ちやすくなり、経済の下落と比べて生活の質の現象はそれほど大きくはありませんでした。「失われた10年」と言われましたが、ある部分では「生活の質を確保した10年」とも言えるのではないかと思います。

もちろん、これには否定する意見もあると思いますが、あの10年で確保できたものについてももっと評価されてよいでしょう。たとえば、東京ではここ15年で都心回帰の動きが明確になり、山手線の内側、深夜になってもタクシーで手軽に帰れる場所に家を持つ(借りる)若い世代が増えてきました。グロービスの受講生を夜飲み会をやったあと、タクシーや自転車で都心部の家に帰っていく人が確実に増えていて、僕らの世代でも80平米とか100平米の家を都心3区やその隣接地区に持てる人が出てきました。以前は成功の象徴だった「ホリエモンのヒルズライフ」の裾野が広がっていると感じます。

格差が広がったというのもあると思います。しかし単純に格差が広がったのなら、都心のマンションの価格は下がらずにその高価なマンションにはいる人が増えるという形を取りますが、最近は都心の高層マンションでも6000万、8000万という価格が目に付き、山手線の外側のマンションの価格差は縮小しています。格差が単純に広がったのではなく、「上澄み」が中層に「浸みだしている」印象です。

ほかの例を挙げましょう。文化的豊かさで言えば、バブル期までの文化と比べて、バブル崩壊後の文化の質と奥行きが格段に増したと感じます。バブル期はたとえば質の良い服、質の良い音楽(特に生演奏)を聴くためには、大きな出費が必要でした。安物は安物の品質でした。しかし今では、ユニクロが高品質の服を安く提供し、ポップアーティストの歌う歌のレベルは信じられないぐらい向上しています。アイドル歌手のデビュー時点での歌のレベルを15年前を比べれば差は歴然です。

そこに、サブプライム後の不況が押し寄せて、GDPは戦後最悪の状態といっているわけですが、それが社会の質や生活の質の劣化と比例しているのかというと、違うのではないかと思うのです。

では何が質を担保するのか。そんなことを考えてみます。順番はランダム、まだ抜け漏れが多そうな議論であることはご了承ください。試論です。


●選択肢が広く、選択する力がある

社会の質を測る場合の重要な指標は、「選択肢」にあると思います。個人がさまざまな選択をする自由があり、実際に選択肢が見える状態になっていること。ここまでは多くの人が同意すると思いますが、もうひとつ重要な点は、その選択肢の中から自ら選びとる能力が、獲得される社会になっていることが、非常に重要です。

いま日本では、選択肢はかなり広くなっています。仕事選びの機会、職種の幅広さ、単純労働から経営の仕事まで、あらゆる仕事があり、また仕事のスタイルも、選ぶことが可能です。今、「週2日だけ働いて農業で1000万円稼ぐ」という本を読んでいますが、平日は会社員、週末は農家で、農家分だけで1000万円も可能という方法が事細かに書かれていて驚きます。尚、この本の書評にはいろいろ批判的なことが書いてあり、それなりに正しいのですが、全体としてはわりといい本です。
http://www.amazon.co.jp/%E9%80%B12%E6%97%A5%E3%81%A0%E3%81%91%E5%83%8D%E3%81%84%E3%81%A6-%E8%BE%B2%E6%A5%AD%E3%81%A71000%E4%B8%87%E5%86%86%E7%A8%BC%E3%81%90%E6%B3%95-%E5%A0%80%E5%8F%A3-%E5%8D%9A%E8%A1%8C/dp/4478006997/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1239503138&sr=8-1

今の日本では、選択肢そのものがないわけではなく、選択肢そのものも、このような本を通じてみようと思えば誰でも見ることができる状況にあります。本を買える人はそれなりに豊かな人という意見もありそうですが、ブックオフがあちこちにあり、この本なら300円で買える買える可能性があるし、日本では図書館の利用も簡単です。

問題なのは、選択肢そのものではなく、選択をする力が足りていないことにあると考えるべきでしょう。選択肢があるのに、あることが見えていない、あるいは、見えているのに、自分には無理と思い込んでしまうことも、「選択する力」のひとつです。

また選択するための方法論が提供されていないことも問題のひとつ。たとえば、マネジメントの仕事の求人は今でも一定量在り、良い人材を欲しがっている企業は多いのですが、マネジメント能力を付けるための教育や実践的なキャリアパスがないために、ポテンシャルがある人でもマネジメントの仕事に就けなくなっています。以前は企業内での計画的な育成がありましたが、今はこういった育成も「研修はカフェテリア方式で、自発的に受ける」方式になったために、最初の選択をする力が育っていないと、こういった育成の機会があっても、それさえ利用することができずに、能力が活かせないのです。

こう考えてくると、学びの機会を充実させると同時に、それを自発的に利用する、個人のマインドセットの不足が、社会の質の向上を阻んでいると言えそうです。

もちろん教育機会そのものも重要です。特に日本では、小泉改悪の期間に自己責任論が誤った場所にスタックしてしまい、教育の費用もどんどん個人に押しつけられました。しかし世界のトレンドは先進国はもちろん、途上国でさえ、大学までの教育機会は無料で提供するという方向です。もちろん実現できている国ばかりではありませんが、日本のように、金銭面も含めて、教育機会の獲得は個人の責任などと堂々と言っている国はありません。

さらに、自ら選ぶ力を育てられていないことは決定的で、中学生、高校生になって、これから自分が何を学び、どのような道を選びとっていくのかについて、切りの中という状況にいる子供たちの多さ、そしてそれを当然のこととして容認するおとなの、世代を超えた負の連鎖が、選択肢の広さを使えない若者を育ててしまっています。

こういった機会選択に関わる見かけと本質のずれを解消してくことができれば、GDPの増減に関わりなく、社会的な活性と豊かさの実感を生むと思います。

●社会の中での孤立感なく、存在できる

次に、社会の中での孤立感、実存の問題を考えます。人間は社会をつくる生き物であり、他の人々とのかかわりの中で、自分の存在を実感できる生き物です。これを哲学では実存と呼んでいます。

社会の中で孤立感を感じていれば、経済的に豊かでも真の豊かさを感じることはできず、薄っぺらな自分を感じることになります。逆に社会とのかかわりが適切なら、金銭的には豊かでなくても、存在が認められ、安心して生きることができます。

限界集落とよばれる山間地域のようすを観察すると、生活が過酷で、住む人が減ってしまっても、そしてそれぞれが高齢で一人暮らしであっても、お互いに存在がわかっていて、その地いきなりのかかわり方があれば、そこで人は暮らし続けたいと考えるのが普通です。GDPで見れば、そこでの生活は「限界的」です。わずかな年金を頼りに、電気やガス代を払って暮らしているわけですが、水道は裏山のわき水を濾過したもの、風呂や暖房は薪を使うので、電気代水道代も最小限です。つまりGDP的にはほとんど「限界以下」であっても、孤立感なく存在し、それが持続できるという認識の面では、実存がしっかり確保できているのです。このような実存が確保された状況を、社会学では「承認」「尊厳」と呼びます。尊厳ある暮らしができると、GDP的にどのような状況であっても、人は豊かさを感じるのです。逆に金銭的に豊かでも、承認が得られないような状況であれば、その金を使って見せかけの承認を得ようと考えます。金をばらまいて友達を作るような状況です。

お互いに尊厳を認め合った人間関係が成立している一定範囲を「コミュニティ」を呼びます。かつては社会には定型化されたコミュニティがあり、生まれてから必然的にそこに所属し、生き、死ぬのが普通でした。今は自動的に所属するコミュニティが、家族のレベルからも崩壊しています。家族は「お父さん」「お母さん」「子供」の役割を「果たす場所」になりました。「家族サービス」という言葉がごく普通に使われたり、家族旅行そのものより「旅行にいって家族で写真を撮る」ことが重視されるようになっているのは、その現れのひとつです。カイシャコミュニティも崩壊しました。日本のカイシャは社長を頂点とする家族的役割分担の機能がありましたが、すでに雇用が流動化し、上から下に伝える文化があいまいになった結果、コミュニティ機能を失っています。今は部課長ではなく平社員から飲み会や社員旅行の希望が出てくる時代ですが、これもコミュニティ機能が失われ、若い世代がこれを求めていることを示しています。昭和30年代ブームが起こったのも、昭和の時代には社会のあちこちに複数のコミュニティがあり、それを求める今の時代の背景があるのです。

このようなコミュニティ不在の時代の中で、新しい実存とコミュニティを再構築する方法として、社会学者の宮台真司は「まつり」を上げています。まつりは社会のポジショニングやコミュニティの所属関係をいったん日常から切り離し、まつりという期間と場所限定のコミュニティを臨時に、定期的につくる仕組みです。まつりが活発になれば、ふだん所属すべきコミュニティがある人もない人も、まつりコミュニティの中で実存を確認できます。その確認された実存を糧に、尊厳を実感し、次のまつりまでの期間を生きていくことができる、というわけです。

実際、阿波踊りやよさこい、たなばた、カーニバルなど、新しい時代のまつりが活発になり始めていて、コミュニティ再構築の動きはすでに始まっています。

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というわけで、「選択」と「尊厳(コミュニティ機能)」というふたつの「豊かさの側面」を考えてきましたが、続きは次回考えたいと思います。

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