(by paco)400温暖化対策「意見広告」の情けない内容

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1b.jpg今年3月17日に、日本の主要な作業会の団体が連名で、新聞全面の意見広告を発表しました。日経と朝日に出したようなので、けっこう話題になったので、ご存知の方も多いと思います。また、広告を出している業界に属している方も多いと思います。

しかし、この意見広告、内容はなんとも無責任なもので、本当に情けない。詳細はこちらをみていただくとして、今週は、この広告を肴に一本書いてみようと思います。

■キャッチフレーズ

まず全体のメッセージを見てみます。ピラミッドストラクチャでいうところのメインメッセージはどこにあるのでしょうか? 本来はいちばん大垣されるキャッチフレーズにこめられているはずですが、そのキャッチは、「考えてみませんか? 私たちみんなの負担額。」なんとも遠回しな言い方ですが、負担額が大きいので、温暖化対策はやるべきではないといいたいと言いたいようです。

キャッチの横に、普通やらない妙なサブコピーが置かれています。「日本は世界トップレベルの低炭素社会です。私たちは、世界最高のエネルギー効率をさらに向上させ、地球規模での排出削減に取り組む決意です。一方、社会全体のコスト負担の問題も大切です。」とあります。So What? 何を言いたいのでしょうか? 「すでに十分やっているから、これ以上やらない」と言っているのかと思うと、「もっとやる決意」とあり、さらに「コスト負担が問題」と言っています。キャッチフレーズと合わせると、

「CO2排出削減をもっとやるけど、金がない、負担してくれ」

ということでしょうか。それとも、

「金がないから、排出削減はやらない」

と言っているのでしょうか。どちらとも読めそうなキャッチです。こういうメッセージの作り方は、そもそもピラミッドストラクチャ以前の問題で、失敗です。

■リードコピー

さて、本文に入りましょう。冒頭のリードコピーはこんな感じです。

「先頃、日本政府は、京都議定書に続く2013年以降の地球温暖化対策の新たな取り組みに向けたCO2削減の中期的な目標を6月までに決定する事を表明しました。 私たちは、石油危機以降、家庭も産業も最大限の省エネルギー努力を推進してきました。その結果、日本は既に世界トップレベルの低炭素社会となっています。従って裏付けのない過大なCO2削減には国民全体に大変な痛みが伴います。 また、日本がいくらCO2削減努力をしても、主要CO2排出国の参加がなければ地球温暖化問題は解決しません。次期国際枠組みには主要CO2排出国全ての参加が必須です。」

さて、これを細かく突っ込んでいきますが、まずあなた自身が、どこに問題があるか、考えてくださいね。クリシン・ロジシンの練習です。

まず、日本はすでに低炭素社会だと言っていますが、これが本当なのか。地球温暖化問題を考えるときに、いちばん重要な基準は、当然ですが温暖化が起きない(影響が大きくない範囲での気候変動)のはどのぐらいの排出水準なのかという点です。温暖化は他国との比較ではなく、絶対値で考える必要があります。また、CO2排出は地球の自然に対する影響で上限を考えるべきもので、経済(GDP)との比較で考えるべきものではありません。

もちろんGDPとの関係を考えることは重要です。しかしそれは「どのようにCO2を削減するか」というhow?を考えるときに重要なことであって、どれだけ減らすべきか、今の削減で十分かを考える(目標=what?)を考えるときには、how?を含めて考えるべきではありません。でないと、経済はよかったけれど、自然が崩壊して、最後は経済自体も失われます。実際に今起きつつあることは、こういう話です。

つまり、上記のリードコピーはwhat?をきちんと議論せずにhow?を考えるという、問題解決のもっともやってはいけない手順で考えられているのです。クリシンを学んだことがある人ならわかると思いますが、問題解決は「イシューの特定(what?)→where?→why?→how?」の手順を踏んで進めないと、ピントはずれになります。

さらに「裏付けのない過大なCO2削減」とありますが、「裏付け」については別途考えるとして、「過大」というのは何をもって過大と言えるのかと考えると、あくまで地球の気候変動が起きるかどうかを軸にしてみるべきで、「過大」というのは判断が間違っています。

次の「次の排出削減のわく組には世界の主要なCO2排出国の参加が必要」とあります。これは前ブッシュ政権が言い訳に使っていたもので、すでに8年も前のロジックであり、オバマ政権後の世界では、こういうロジック自体が世界から消えていることに、気づいていないことには愕然とします。KYというやつですね。

ちなみに、このブッシュ型ロジックがなぜ破綻しているかはちょっと考えればすぐわかることで、CO2排出が問題なのは、今現在の排出量だけでなく、過去の排出量の総和が問題だということです。CO2は基本的に大気中では分解しないので、産業革命以降、地下資源を燃やすことによって排出されたCO2の総量が問題です。その総量は、主に先進国が排出したもので、今現在、インドや中国がどれだけ出していたとしても、主要な責任は欧州、米国、日本の主要先進国が負うことは明かです。当然ですが、インドも中国も、排出のわく組に距離を置いているのは、先に豊かになったものが責任ある行動を示せ(ちゃんと削減しろ)」と言っているのですね。つまり日米欧がきちんと削減実績を出せなければ、BRICSに対しても説得力がないということです。

それともうひとつ、とても重要なことですが、京都議定書には、中国もインドもロシアもちゃんと加盟しています。削減努力義務も負っています。ただ数値目標をもつ国のリストの中に、中国、インドは入っていないだけです。ロシアは削減目標を持っていますが、1990年時点より減っているので(ソ連時代を引きずっている時期なので、産業が古く、排出量が多かった)、削減努力が不要なのです。インドはともかく、中国はすでに排出削減に向けて舵を切っていて、風力、太陽光発電をどんどん増やしているし、効率の悪い旧式の設備の更新には非常に積極的です。広大な国なので目が行き届いていないところはたくさんありますが、一党独裁なので、動き出すと効率がいい。日本のエネルギー効率はいいと言っていられるのもいつまでのことか。

■第一ブロック

「3%削減でも一世帯あたり約105万円の負担→長期エネルギー需給見通し(経済産業省総合資源エネルギー調査会)によれば、2020年のエネルギー起源CO2排出量を1990年比で3%削減(2005年比13%削減)゛するためには、約52兆円の社会的負担が必要とされています。これは、仮に一世帯あたりにすると約105万円の負担にあたります。」

よく見られるロジックですが、これをどう考えるかが重要です。52兆円、105万円という数字が妥当なのかの議論はあえてやめておきますが、この金を「負担」と呼ぶこと自体が問題です。

温暖化対策の経済負担については、2006年に出されたスターンレビューで「決着がついた」とするのが基本的な世界の見方です。


スターンレビューの骨子は、「温暖化対策の負担は、将来起こりうる損失よりはるかに小さく、を防ぐために、毎年GDPの1%を負担すると、将来起こりうる20%の損失を抑えることができる、と言うものです。もちろん、スターンレビュー自体に対しても批判はありますが、大きな考え方を否定する有力な反論はありません。

この見方は、温暖化対策の負担は、コストではなく、投資だということを意味しています。将来のGPPを確保するために今一定の投資をしておく。これは資本主義社会では当然のことで、道路も鉄道もダムも、こういう考えに基づいてつくられてきました。設備投資の額は景気動向の主要な指標になっていることからもわかるとおり、投資を負担と呼ぶことは愚かなことです。

これでメインメッセージが崩壊していることがわかりました。

■グラフ

そのあとのグラフは「GDP単位あたりのCO2排出」です。確かに日本は小さくなっていますが、はたしてGDPあたりで見ることが妥当なのか。単純に言えば、第二次産業の比率が高いほどCO2排出量は増えるし、第三次産業が増えれば下がっていきます。米国が、政府の対策が進んでいないにもかかわらず、低い方から3番目なのは、第三次産業と第一次産業の比率が高いからでしょう。また、比較されている国は妥当なのか。見ればわかりますが、先進国とそれに準じる国は入っていますが、アフリカ、南米、アジアの途上国は入っていません。日本が一番左に来る指標を選んでいるのでしょう。

それ以外のグラフは日本の産業のエネルギー効率の高さをアピールしているのですが、よく見ると、日本とそれ以外の国の平均的な数値を見たときに優位性は、グラフの右側にある効率の悪いところとの比較ではなく、近いところとの比較で見ると、ドングリの背比べであって、決定的な優位ではありません。決定的かどうかは、流行温暖化による悪影響が広がらない範囲にあるかという点で見る必要がありますが、現在想定されている削減量は、20?80%というレベルですから、10%程度効率的であったとしても、誇れるものではなく、むしろこれは、日本は世界の中でよいモノづくりができているという点で、現在の項炭素社会のわく組の中での経済・産業的な競争優位を示しているに過ぎないと見るべきです。

■第二ブロックコピー

一番下の第二ブロックのコピーは、リードコピーの部分で批判している部分は繰り返しませんが、総合して考えれば、このメッセージの矛先はすでに行き場を失っています。米国はブッシュ政権からオバマ政権に代わり、環境に向けてすでに舵が切られています。京都議定書は責任期間に入っているので、米国が本格的にアクションをとってくるのはポスト京都になり、オバマ政権が何らかのわく組を提案してくるのは間違いありません。新興国については前述の通り、先進国がある程度の結果を出してはじめて説得力を持つこと、すでにインドも中国もブラジルも手を打っていることを考えると、説得力がありません。

米国や新興国も含めたわく組をつくるべきというメッセージそのものは有効ですが、それはすでに議論の俎上に載っていて、重要なのは、どのようなわく組ならすべての国が乗れるのかについて、これまでのスタック状況を打破する提案ができるかどうかです。しかし、これについては「他国も参加しなくちゃイヤだ」と言っているだけで、代案がない。

基準年の1990年についても変更を主張していますが、これもあまり意味がないでしょう。いつを基準年にするにしても、誰かが有利になり、不利になる。政治的駆け引きとしてはやっていく意味はありますが、これだけダイナミックに変化する世界の中で、すべての国にとって公平で合理的な基準年の引き方があるわけではありません。それ以上に重要なのは、1990年という基準年が決まった京都会議は、日本が主宰したという事実です。産業界は「京都議定書にはコミットしなくていいという密約を交わしていた」と逃げたいのでしょうが、もし1990年以外の基準年を主張するなら、京都会議の時点できちんとコミットして基準を提示するべきでした。それをやらずに逃げ回っていたのに、今になって異議を唱えても説得力がありません。結局、コミットしなかったことによるツケを払っているのです。

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ということで、全体を見てきましたが、以下にお粗末な内容かおわかりいただけたと思います。本当は、こうして語るべきほどのことないのですが、「あの広告についてどう思いますか?」と何人かの方から聞かれたので、やはりきちんと批判しておく必要があると思い、書くことにしました。

最後に、日本企業がなぜ京都会議にコミットしなかったのかという点について、補足しておきます。京都会議までに地球環境や温暖化について議論をリードしてきたのは世界のNPO、NGOで当時はまだNPO・NGOの信頼感も薄く、グリーンピースがかつてそうだったように破壊活動を行う環境テロリストというようなイメージもありました。口うるさい連中が国連を動かしてとんでもない取り決めをしても、産業界はそんなものは破壊してしまえる影響力があると高をくくっていたのです。確かに、そういう一面も、京都会議時点ではありました。しかしこれはものごとを軽視しすぎた考え方で、政治的なKY、鈍感さです。

その一方で、世界のNPO、NGOは経済界からの批判も受け止め、実質的な影響力を持つ努力と、一部の先進企業との連携を深めた10年でした。世界の環境葉の懸命な努力に対して、企業群、特に日本の企業群(一部の環境先進企業を除いて)は「そのうちブームは去る」と無策を続けてきました。この努力の差が、今はっきり現れたと見るべきです。

残念ながら、日本企業は、きちんとコミットする以外に取るべき道はありません。くだらない広告に金を払っているだけ、くだらないメッセージで何かいった気になっているだけ、時代に遅れていきます。

社員としての読者のみなさんの立場で言えば、いつ潮目が変わるか、注意深く経営を見守る必要があります。CO2削減が、コスト削減や利益向上と同じぐらい、あるいはそれ以上の重要テーマになる時代は、すぐそこまできている、というか、実はそういう時代をすでに来ているのです。

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