(by paco)393「地球寒冷化」記事に振り回されるな

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(by paco)日経新聞が2月2日付で、「地球は寒冷化?」という記事を掲載しました。こちらのブログにスキャンした元記事があるので、読んでない方はみてください。

地球は温暖化している、という説が、一気に正反対の説が出てきたので、ネットの人々がこれに飛びついて、ほれ見たことかという感じで騒いでいるサイトも見られます。

※ちなみに、上記のサイトの筆者「スパイラルドラゴン」も、「騒いでいる」サイトのひとつですが、その中に「CO2発生量が化石燃料の採可年数を超えてしまう」といって、IPCCの仮説をバカにしています。しかし認識ミスはこの記事の筆者の方です。化石燃料の採可年数(総埋蔵量)は、これまでも大きく変動しています。また、メタンハイドレートやタールサンド、オイルシェールなど、代替燃料の埋蔵量は、非常に大きいのです。石油、天然ガスの埋蔵量だけを見て、「そんなにたくさん燃やすものがない」と指摘するのは、すでに視野が狭すぎるのです。

で、僕のように長年環境をやってきた人間は、この情報をどう見ているのか、書いておきます。

日本では早くから「地球温暖化」という言い方が普通でしたが、英語では「Climate Change」気候変動という言葉が一般的でした。Global Warming=地球温暖化という言葉は、アル・ゴアの「不都合な真実」がきっかけだったと僕は感じています。

環境に取り組んできた人々から見れば、ゴアの「不都合な真実」は、とってもアメリカ人向けのわかりやすいプレゼンテーションで、科学的な説明もうまく交えながらも、どちらかというと、環境というものに目を向けてもらうきっかけにすることが目的で、あの映画(講演)そのものに「真実」があるというよりは、真実はこれからも引き続き明らかにされるが、問題の所在には気づいてほしい、というのがゴアの芯のメッセージだと理解しています。

映画の中で、海面が6メートル上昇するという説明があることに対して、「そんなことはあり得ない」というような反論もなされて、「不都合な真実」はウソばかりというような非難もされました。でも、映画をよく見ればわかるのですが、ゴアも「6メートル上昇する!」と断定しているわけではなく、「こういう可能性もある」と説明してます。あくまで仮説のひとつであることは、ゴアに限らず、環境をやってきた人間ならたいてい知っていることです。

では、なぜゴアが「不都合な真実」の中で、あえて過激な(極端な方の)仮説を大きく取り上げ、気候変動を地球温暖化という言い方で説明したのか。

それは、あの映画(講演)が標準的、平均的米国人に向けて、しかも、ブッシュの共和党政権下で行われたことを理解する必要があります。

米国人の基本的なマインド、特に共和党支持層のマインドは、象徴的にいえば、カウボーイのそれで、いいものはいい、ワルモノは悪いという善悪に文論であり、悪いものならやっつけなければならないし、いいものならもっと伸ばさなければならないという単純な図式に帰結します。米国には、こういった単純な二元論が強い傾向があることに加えて、ブッシュ政権の8年間は、9.11テロ以来の「悪にやられた正義の帝国米国」を信じることで、苦しい時期を乗り越えようというマインドセットに縛られていました。ブッシュ政権は、9.11以降の対テロ戦争が苦戦する中で、「アルカイダ」→「悪の枢軸」のように敵を微妙にずらすことで、単純な二元論を維持するようにメッセージングし続けました。ブッシュ政権与党の共和党支持層は、「人間社会には善悪両面が常に共存する」というような微妙なニュアンスは、ものごとを間に進めたくない人間のうっとうしい言い訳として排除したいマインドが強く、政権と支持層に引きずられる形で、社会全体が善悪二元論でないと説明を受け入れない雰囲気がありました。

ちょっと話し外れますが、このような米国のマインドセットの中で、日本の小泉首相もこれをうまく利用して「改革か、後退か」という二元論にすべてを帰結させることを、政権のアイデンティティにして、これがうまく成功しました。善と悪の中間にある微妙なニュアンスをすべて無視して二元論を提示したり、ひどいときには、そもそもに言論の打ち出しそのものが間違っている場面もありました。たとえば、自衛隊をイラクに派兵するときにも、「世界に貢献する日本か、貢献する気がない日本か」という二元論を持ち出して、強引に派兵に持っていったのですが、世界に貢献するかどうかと、軍を送るかどうかにはほとんど因果関係がないというようなメッセージが横行した8年(日本の小泉政権は5年)でした。

米国に話を戻します。

ゴアが米国人に「不都合な真実」の講演をして回っていた時期、米国人のこういった二元論的なマインドの中に、環境の「問題の存在」自体を打ち込むためには、二元論的な説明をせざるを得ない状況にあったわけです。

ゴアは、かなり筋金入りの環境オタクですから、気候変動と地球温暖化の違いは十分わかっていました。温室効果ガスによる温暖化というシナリオも、有力な仮説のひとつに過ぎないことも十分わかっていたはずです。しかし「温暖化するかもしれないし、寒冷化するかもしれない」では、米国人、特にこの時期の米国人にはまったく理解されないことも、同時によくわかっていた。そこで、あえて気候変動をいう言葉を封印し、Global Warimingという言葉に限定し、繰り返しこの言葉を使って、わかりやすさを優先させたのです。

僕が映画「不都合な真実」を見たときに、何より驚いたのはこの、「Global Warming」という言葉だったのです。

結果としての「温暖化、寒冷化」さえ一元論(温暖化)に統一せざるを得ない中で、原因も温室効果ガスに限定せざるを得ないのは当然の帰結でした。「石油・ガスの利用→CO2増加→温室効果→温暖化」という単純な図式にすることで、はじめて米国人は問題の所在を理解し、何かが求められていることを実感したわけで、この点、同時期の日本人の方が、平均的にはずっと理解が深く、広かったのだと思います。

というわけで、「不都合な真実」をきっかけに、日本も世界も「温暖化」一色になっていくわけですが、実際には危惧されていたのはClimate Changeでした。

気候変動とは、今より温暖化する「かもしれない」し、寒冷化「するかもしれない」けれど、今のままは続かないという意味であって、その意味で、日経新聞の記事は、まったく驚くには値しない記事です。むしろ、温暖化一色になっていることの方が以外、というのが僕のような人間の感覚でした。

また、気候変動は、地球全体のことを語っているというより、地域の気候が変動することによって、地域の生活が成り立たなくなるという指摘と理解が重要だと説明されてきました。たとえば、日本では、台風が頻発して大型化する傾向がありますが、この「頻発と大型化」こそ、気候変動の例です。日本人にとっては一定の規模と頻度までの台風は「織り込み済み」で、備えています。しかし従来の観測データを超える大型台風が頻発することになると、これまでの備えでは不足することになります。大雨が降り、河川の堤防を越える水量になれば、大きな被害が出るし、それによって水田のコメがとれなくなれば、食うものに困る頻度が上がって、生活が不安定になります。世界ではどうかというと、オーストラリアの穀倉地帯で干ばつが毎年のように頻発したり、アフガニスタンでも干ばつが恒常化し、農地が耕作できなくなったりということが起きると、地域の生活が成り立たなくなって、農村の住民が都市に流れてスラム化したり、オーストラリアから小麦を買っている四国のうどん産業が大打撃を受けたりというように、従来の生活や事業が成り立たなくなることこそ問題の本質だと見なされてきたのです。

つまり全体がどうなるかというより、気候変動によって生活が維持できなくなる人がどのぐらい、どの程度出るか、こそが問題の本質だと考え来たのです。

そういう観点から見れば、今回の日経新聞の「寒冷化」の記事は、なとも視野が狭いもので、寒冷化する(温暖化傾向が止まる)ことで、環境悪化による被害者が少なくなる可能性があるのかどうかを、説明しなければならない、ということにまったく目が向けられていないものでした。さらに言えば、こういう肝心なことに目を向けていない記事に対して、「環境問題に注目が集まっていることをうっとうしく感じていた」と思われるネットワーカーが一斉に飛びつき、ほれ見たことかと記事を書き始めたのを見ると、まったくお粗末と言わざるを得ません。

IPCCの報告が「近視眼的、恣意的」だと指摘して鬼の首を取ったような記事が多いのですが、その指摘の理由が、「2008年は21世紀に貼ってもっとも気温が低かった」というような、ピンポイントの情報を根拠にしているのですから、まさに「目くそ鼻くそを笑う」の類です。

もちろん、気温が上がるのか、下がるのかを報道すること自体はいいことだと思います。しかし、それが何を意味するのかについては、もっと慎重であるべきで、「寒冷化した」というデータと同時に、「ツバルでは海面上昇の被害が小さかった」とか「北極の氷の現象が止まった」というような、具体的な「生活への影響」が説明されるべきです。

実際には、寒冷化したといわれる2008年の1月、北極の氷は最小になったことや、従来は影響がないと言われていた南極大陸内部の気温も上昇していることが観測されています。IPCCの報告が「間違っている」という学者のコメントを載せるなら、「全体の寒冷化傾向は観測されるも、温暖化の証拠と見られる現象は止まっていない」という事実も載せるべきで、軽率という非難が当たらないなら、センセーショナルな報道を故意にしているというように僕らは判断するわけです。

もちろん、IPCCの温暖化の報告やシミュレーション、またその原因が温室効果ガスであるという断定について、鵜呑みにすることも、正しい態度ではありません。温暖化傾向が事実としたら、実際に地球の各地で何が起こっているのかを見ていく必要があり、台風・ハリケーンの大型化、干ばつの頻発、極地の陸氷(氷河)の変化、海面上昇によると思われる塩害や浸水にまでしっかりフォーカスし、判断する必要があります。それと同時に、人間の知恵はまだまだ浅はかで、簡単に地球規模の変化を予測できるところには来ていないということも自覚する必要があり、「化石燃料の燃焼→温暖化」というようにゴアが単純化して見せた図式を、「米国人に関心を持たせるための戦術(tactics)」と理解して、本当はどういうことなのか、「本当の真実」を見つめ続ける視点が重要です。

さて、最後に、CO2排出と気候変動の因果関係ですが、何度か取り上げているとおり、この因果関係そのものはあくまで「最有力の仮説」に過ぎません。真実がわかるほど、現段階の人類の知見は深くない。でも、もしこの仮説が正しければ、手を打たなければ取り返しが付かなくなる。因果関係の真実が明らかになってからでは遅いという予防原則に則って、削減しようという動きになっていることは、しっかり理解しておく必要があります。

もうひとつ、特に日本にとっては、削減そのものは、温暖化の有無にかかわらず、国益にかなうという点も理解しておく必要があります。日本はエネルギー多消費の行動で、かつそのエネルギーの90%以上を海外から、それも政治情勢の不安定な海外からの輸入に頼っています。

今の長期目標の通り、2050年までに50?80%の削減が実現すれば、エネルギー資源の輸入額は半分?80%削減され、貿易黒字の面でも圧倒的に有利になります。人口が減って生産が減る時代の中で、輸入必要量が軽減することは、メリットとして作用するでしょう。仮に気候変動とCO2排出の因果関係が薄いことがあとでわかったとしても、削減努力はまったくムダにならないばかりか、いずれにせよ、やってよかったということになります。

こういった経済の長期展望に立てば、日経の記事の近視眼がさらに明らかになるわけで、どういうわけでCO2削減に取り組んだ方がいいのか、もっときちんとした分析にたって、記事を書いてもらいたいと思います。

ちなみに、なぜ大新聞やTVメディアが、こういった視点に立てないのかと言うことについても、ちゃんと理由があるのですが、簡単にいって勉強不足であり、怠慢です。これについては、機会を改めて書きたいと思います。

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