(by paco)2009年最初のコミトンは、冬休みということで、短めでお送りします。
年末から年始にかけて六兼屋でやっていることといえば、庭の木の枝うちと間伐です。六兼屋ができて丸8年。8年前になんにもない庭に、最初に植えたのは、裏山から掘って抜いてきた雑木でした。ヤマザクラ、リョウブ、エゴノキ、アカシデ、ホオノキ、クヌギなど。中には、お呼びでない木もあって、別の木を掘り出してきたつもりが、その根元にあったヌルデというウルシ科の木が急成長してびっくり、と言うものもあります。
買った木もあります。シンボルツリーとして庭の中央に植えたケヤキ、入口に植えたらどんどん大きくなったスモークツリー、友だちが北海道出張で買ってきてくれたライラック。
どの木も、8年前はひょろひょろで、ちょっと太いものでも根元で500円玉ぐらいで、根が付くかどうか心配でした。何しろ六兼屋の土はひどい粘土質で、根が広がることもできないのではないかという堅さ。ろくに空気も含まないような土でした。だから、最初の数年はとにかく春に新芽が出るだけでうれしく、実際、生きているといっても、葉の付きも悪くて、ぱらぱらという感じだったのです。だから、枝が増えすぎるというような自体は考えていなかったのでした。
しかし、気がついてみれば、植えた木のほとんどが無事に根を張ることができ、枯れた木は、覚えている限りでは、コナラ、ノルウェイカエデ、ハナモモの3本だけかもしれません。
一番の成長株はスモークツリーで、8年前に腰ぐらいの高さの苗を植えたのに、今は7?8メートルにもなり、庭でいちばん大きな木になりました。枝もどんどん広がって、うっそうとしてきたので、思い切って下枝を払い、高い木に育てることにしました。山桜もよく育って、8年前は根元で500円玉ぐらいだったのが、今では20センチぐらいになっています。
木は勝手に育つのだし、ほうっておけばいいと思いがちですが、そうではありません。たとえばスモークツリーは、下にブラックベリーの垣根があるので、両者が絡んでしまうようになりました。枝や葉が絡めば、ごちゃついたところは日当たりが悪くなるし、風通しも悪くなるので、蜘蛛の巣も張るし、じめじめしてくるので、病気や虫もつきやすくなります。木の状態がよくなくても、虫が生きられるならいいじゃないかという考えもありますが、こういった場所ではアブラムシやカメムシが異常繁殖して、数は多いけれど、不自然な感じになります。木も虫も、適量というものがあり、ひとつの種が多ければいいと言うものではないことが、見ているとわかります。
そこで、枝を払うことには積極的な意味もあります。広葉樹の場合、枝を切ると、春になると切り口周辺から新しい枝が出てきます。新しい枝には、古い枝に着くより、大きくて暑くて緑がこいはがつくので、植物は前より元気がよくなります。切り方は注意する必要がありますが、それほど神経を使うものでもありません。ちょっと大胆に、切り過ぎぐらいに切ってちょうどいいのです。
枝を切るといっても、のこぎりぐらいで切れるものではなく、チェーンソーが必要です。太い枝の根元なら、直径が10センチ以上あるし、1本の山桜でも、切るべき枝が5箇所もあることもあるのです。
今回枝打ちしたのは、10本以上になるのですが、切り落とした枝の量は半端ではありません。特に、隣地との境に以前から生えていたクワの木がすごいことになっていて、ざくざく切っていたら、あちこちに切った枝が摘まれてしまい、歩けない状態になってきました。これでは困るということで、チェーンソーでさらに枝を30センチぐらいに切り分けて、カサを落として邪魔になりくくします。そのあと、さてどうするかと悩んだのですが、極力薪として使い切ることに決めました。
ストーブに入るのは35センチまで。おおむね25センチぐらいで切り分け、太さに合わせて分類し、100円玉ぐらいから10センチぐらいまではそのまま積み、それ以上の太さは薪割りのために集めました。丸い枝のままでは乾燥しにくいため、できるだけ斧で割りたいのですが、細い枝を割るのは大変なので、あきらめました。
細い枝、中ぐらいの枝、薪割りした枝と分類して、いつもの薪台に積むと、あとは冬の寒風で乾燥が進んだころに使います。年末年始で、枝を切り、細かく切り分け、分類した枝を摘むと、けっこうな量になりました。今年は薪の量が頼りなかったのですが、この分なら春まで持ちそうです。細い枝は火持ちは悪いし、薪割りする楽しみもないのですが、木の恵をきちんと使い切ることが重要です。
実際やっていると、めんどうな作業です。太い木をががーっと切るより、手間がかかるし、達成感も少ない。おまけにチェーンソーの刃がどんどんだめになります。おそらく、太い木を切るより、刃に負担がかかるのでしょう。15分おきにデッキに戻り、目立てをしなければなりませんでした。年末に伸張したソーチェーンはもうダメになり、今日付け替えました。付け替えると、すばらしくよく切れるのですが、やはり切れ味が落ちるのが目立てを繰り返さなければなりませんでした。
でも、こうして地道な努力をしてみると、8年という歳月が暮れる木の恵みが、どのようなものかが実感できるし、それを利用するためにどれほどの手間が必要なのかも実感することができます。自然の恵を使い切るには、手間を出し惜しんではいけないのです。
こんな地道な作業をしているには、理由があります。ひとつはPresent Tree「ヤマガラの森」がいずれあと数年で間伐の時期になります。そうなったときに、どのぐらい手間をかけたらいいのか、そのノウハウを知りたかったのですね。
もうひとつは、アフリカや東南アジアの取材レポートの映像です。食事を作るために必要な薪を得るために、ろくにきがは言えていない森に入って何時間も探し回り、小枝を集めたり、それを売って得たわずかなお金で子どもに食べ物を買ったりしている人が今も世界にたくさんいるを見ていると、切った木を放置することがどれほどもったいないことか、実感できるのです。なるべく細い枝まで使い切ることが、生活のために木を拾い集めている彼らに対する礼儀かもしれない、と思った次第です。
たかだか庭木の枝打ちにひとつとっても、多面的な意味があり、それを一つ一つ感じながら作業をするのか、それともめんどうな庭仕事としてやるのかでは、まったくモチベーションが違うし、そこから自分の中に蓄積されるものも違います。小さな、地味な作業をしっかりやることが、環境問題など大きな仕事をするときの自信になり、つぶされそうになったときに、自分を助けてくれるのです。
何かをするなら、それがどんな意味を持っているのか、自分の中にしっかり落としておくことが大切です。「仕方なしにやる作業」なのか、「自然や世界を実感するための学びの場」なのか。後者の時間が多いほど、自分の、ものを動かす力の源泉になります。
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