(by paco)先日、J-WAVEのニュース番組「JAM THE WORLD」(音楽専門局を標榜する東京のFM局J-WAVEにも毎日2時間のニュース番組枠があるのです)に、小泉改革を推進した竹中平蔵が出ていました。政界は離れていますが、経済や財政が専門ですから、改めて今の状況を竹中がどう見ているのか、興味深く聞きました。その趣旨は、彼のサイトにある、以下の一言に集約されています。
「日本国内の政策論議は、あまりに独りよがりです。目先の痛み止めではなく、グローバル競争に勝つための強い日本経済を目指す必要があります。」
小泉政権時代からぶれない発言という意味では、良心を感じますが、ここまで「痛み」が広がっていることにまったく目を向けていないことに、改めてびっくりしました。
小泉純一郎は、わかりやすさ重視の劇場型政治の中で、「痛みを伴う改革」を表現し、それを国民も受け入れました。その結果、実際に「痛み」を国民は被りました。こうして、痛みに苦しんでいる国民に対して、そしてその痛みがはっきり形になっている今の時代の中で、竹中は今も「痛み止めではなく」と言っていることの意味を、改めて考えてみたいと思います。
まず、「痛み」の実態について考えてみます。コミトンを読んでいるあなたは、「痛みを被る」対象になっているのかどうかは僕にはわからないのですが、格差が広がっているのは事実です。
マクロ的に見れば、格差の指標として使われるジニ係数は、過去20年、一貫して上昇していて、金持ちはより金持ちに、貧乏人はより貧乏になっています。一般的に、若い人は資産の蓄積が少ないので、ジニ係数が上がることは若い世代が苦しくなることを意味しています。また高齢者にとってはさらに過酷で、富裕層は年齢が行くほど富が富を生んで豊かになる反面、貧しい高齢者はますます貧しくなるという二極化が進むことになります。30?50代の中堅層は、勝ち組と負け組が次第に広がっていくことを意味していて、世の中が「勝ち・負け」にこだわる傾向が一貫して上がっていることと、ジニ係数の上昇は一致しているように見えます。
一方で、日本のジニ係数に見る格差はまだまだわずかだという指摘もあります。日本のジニ係数は過去20年で0.31から0.34に上がっているとはいえ、0.4を超える米国や英国より低く、先進国の中では中位レベルと説明されます。しかしここで中位すべきなのは、所得自体で見ると、ジニ係数は0.47で、0.5をこえると社会は不安定になり、暴動や革命が起こる危険が高まると言われているので、収入段階の格差はかなり広がっていると言えます。ちなみに中国も0.4台で格差が大きく、0.5を超え、0.7などになる国は、アフリカやアジアなどの途上国が多くなります。日本の所得段階でのジニ係数は、富裕層から相対的に高額の税を徴収したり、低所得層に助成したりといった富の再配分機能で、0.34になっているのですが、この富の再配分の恩恵にあずかれない人たちが現実にいるわけで、こういう人たちの困窮の度合いが高まっていると見る必要があります。(参考1/参考2/参考3)
具体的な格差について、僕が見聞きしていることを書いてみます。まず、格差という言葉でよく出てくるのが、ネットカフェ難民や日雇い派遣。そしてフリーター。ちゃんと働ける健康な若い世代であっても、不安定な雇用の中で、日雇いでの仕事や、いつかいこされるかわからないアルバイト、また将来の収入増につながらない仕事についている人が増えていて、彼らの困窮ぶりは厳しいものがあります。竹中は、大臣時代に記者の質問に答えて、「能力や努力と収入が一致しているなら、それはいいことだ」「あなたが以前より2倍努力していれば、収入も上がっているはず」と発言しています。この発言を裏返すと、収入が下がり、生活に困窮しているのは、努力や能力が足りないことだということになり、日雇い派遣でネットカフェ生活をしている人は、努力が足りないだけだということになります。実際、こういった現代の困窮者は、自分自身のことをそのように努力が足りない人間だと理解していることも多く、足りないのだから苦しい生活もやむを得ないし、自分のような人間は早く死んだ方がいいけれど、自分で死ぬ努力もできないだめなやつ、というぐらい、自尊心を傷つけられている人もいる状況です。
しかし、実際には、経済的困窮者が努力が足りないのかと言えば、そうとは言えません。まず、彼らの多くが以前はちゃんとした仕事に就いていたこともあり、倒産や病気、あるいはほんの少し軽率な退職によって収入を失い、収入がないことでアパートを失い、ネットカフェなどで生活することになっただけで、本来、能力がない人ではないということです。そして日本ではいったん住所と固定電話の番号を失うと、正規雇用の機会は失われ、チャンスが無くなるのが普通で、そうなるとネットカフェや深夜営業の店に住み(転々とし)、日雇いに近い仕事をする以外にないし、こういった生活は実はかなり高コストなので、お金を貯めてアパートを借りることも難しく、二度と復帰できないという構造になっているのです。こういった構造的な生活困窮者に向かって、おまえは努力や能力がたりないのだから、当然だと言っているのが竹中平蔵ということになります。
こうした都市型の困窮者に加えて、地方には財政不健全による作られた困窮者がたくさん生まれています。北海道夕張市の財政破綻は衝撃を与えましたが、今全国で300の自治体が財政破綻の危機を自覚しており、500を超える自治体がその一歩手前にいます(全国の市町村は約1800中の約3割)。財政状況が厳しくなった自治体は、住民サービスの切り捨てを始めています。生活保護支給の資格審査を、適正化という名の下に厳しくしたり、高額医療費の個人負担額を引き上げたり、障害者への手当支給を減らしたり。もともとぎりぎりの生活をしている人たちへの負担を引き上げることで、生活が破綻する人が現実に増えているのです。
具体的な一例を挙げれば、島根県に住む高齢女性のAさんの場合、夫が脳疾患で倒れて長期入院中です。高額医療費の補助で、これまで月額5000円程度で済んでいた入院費が、一気に5万円に跳ね上がりました。これでは生活ができないと、負担が上がっていない隣の鳥取県に引っ越さざるを得ませんでした。しかし引越先でも補助額が減額されて負担が増え、途方に暮れています。人工透析を週4日しなければ生きていけない患者、軽度の知的障害で作業所で働き、グループホームで生活する人などが、軒並み、生活ぎりぎりの状態を、生活不可能な状態に突き落とされているのです。
ネットカフェ難民も同様で、何とか働けているものの、実質的には生活は破綻状態。そこには何の手もさしのべられていない例がほとんどです。さらにそこに、雇用の適正化の圧力が起こって、日雇い派遣やアルバイトがへり、その日暮らしの生活が崩壊しつつあります。
さて、このような状況が現実に起きている中で、竹中平蔵は何を語ったのか? インタビューアが格差拡大を指摘すると、「格差の問題は、小泉改革とは関係がない。80年代から一貫して格差は広がっているが、日本の格差(ジニ係数)はまだ問題視するほど大きくない」。
インタビューアがこれに突っ込まなかったのは非常に残念ですが、僕なら、「格差が広がっているのが事実なら、格差の拡大による犠牲が出ることはわかっていたはず。当時からセーフティネットの必要性は指摘されていたのに、何も手を打たなかったし、それが現実のものになっても何もしなくていいと考えるのはなぜか?」とまず問うでしょう。まあ、頭のよい人なので、そういうことについての模範解答は用意されているでしょうが。
最初に紹介したとおり、竹中は「目先の痛み止め」はだめだと言っています。一見正論ですが、では、痛み止めに意味はないのか、痛み止めを使おうとする人はだめな人間なのかを問うべきです。それは、麻酔なしに手術をしようとする外科医のようであり、頭痛や生理痛でも仕事に行かなければならない人に、「目先のことを考えて痛み止めの薬を飲んではいけない」と言っているようなものです。
現在の状況をどう理解するかは難しいところがあります。社会のしくみを変えていく変革の作業(あえて竹中用語の「改革」は使いませんが)は、続けなければなりません。しかし、小泉政権の負の遺産である格差の拡大、というよりは、底辺に落ちてしまった人の救済は、「痛み止め」としての意味と、変革の両方の側面からも、やっていかなければなりません。名目のジニ係数が0.4を超えているということは、暴動を起こすぐらい困窮している人が出てきていることの表れです。社会が不安定になる前に、それぞれの人に役割を果たしてもらい、税収も自立し、納税できるよう、手当てするという道を取る必要があります。改革という名の下に、現実に痛みの中に落とされた人を「わずかな犠牲」としてみないフリができるタイミングは終わったと考えるべきです。
先日、表参道にいたら、大規模なデモを見ました。「貧困を撲滅せよ」「○○会社は搾取をやめろ」などとさけんでいたので、まさに追い詰められた人たちのでもです。最近、小林多喜二の「蟹工船」が売れていますが、久しぶりに読んでみると(ケイタイブックで)、蟹工船で描かれた「搾取される労働者」の過酷さと比べたら、今の時代のネットカフェ難民の方がずっと過酷ではないかと思えるほどでした。読まれる理由がわかった気がします。
今、サブプライム問題に端を発して、激しく経済が変動しています。これがひどい結果を生むのか、意外にそうでもないのか、日本にとってはまだはっきりわかりません。しかし食糧の値上げやエネルギーの値上げは低所得者を直撃します。「痛み止めはダメ」などと言っている場合ではありません。その一方で、株式相場が下がっていることについて、竹中は「米国の相場下落より日本の下落の方が激しい。日本経済の方が米国よりずっと悪いのだ、米国の影響ではない。日本の<痛みの伴う改革>をもっとやるべきだ」と主張していました。
果たしてそうなのか? なぜ株式相場が下落しているのかについては諸説あるでしょうが、僕は、同時に進行している円相場の上昇との関係で見る必要があると思っています。円高になることで、輸出産業が弱体化すると見て、株が売られているのでしょうが、円高になれば、ドル建てで見た東京の株相場の下落幅は圧縮されます。今は円相場の上昇率より株の下落率が大きいのですが、今後はどうなるかわかりません。
また日本企業が円高によって業績が悪化するという見方は、すでに過去のものでしょう。日本の主力産業は過去の経験に学び、極力現地生産を行ってきました。為替相場による利益の増減の影響を減らす動きを取ってきたし、すでに原材料を買って製品を売る経済は脱皮して、部品を売って製品を買う経済になっています。円高になれば、原油や鉱石などの資源は円建てで価格が安くなるし、世界経済の減速で相場そのものも下がり、原油はすでに1年半前の相場である64ドル/バレルに下落しています。円高効果を考えれば、実質50ドル台ですから、これは日本経済にとって大きなメリットになるでしょう。もちろん、食糧なども円高で下がっていますから、低所得層にもメリットが出るようにしなければなりません。
グロバリゼーションだとか、国際競争力だとかということも重要ですが、今は、これまで無視してきたセーフティネットの機能回復に力を入れるべきです。今度の選挙では景気対策と同時に、重要なテーマになると思いますが、キャッチフレーズ政治にごまかされないように、イシューの整理を十分やっておきたいと思います。
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