(by paco)今週は若い世代、というより子供たちの孤立について考えます。
すこし前にリストカットに悩む女性と会い、この問題についてあれこれ考えてきたのですが、まだうまく理解できないというのが正直なところです。ただ、読者の皆さんに、問題の所在を知ってもらいたいと思い、半端な状態になりそうですが、書いてみようと思います。
参考にしてもらいたい本として、
著者の岡田敦は写真家で、写真集として
「CORD」
「I am」
「Platibe」
があり、これらもリストカットについて扱っています。
リストカットとは、自傷行為のひとつで、文字通り腕をカッターなどで傷つけ、出血させる行為です。腕を切るのですが、血管を切るようなところまではしないのが普通で、多くの場合、死のうと思ってやることではありません。しかし状況によっては死に至るほど切ってしまったり、首つりなど本当の自殺に至ることもあります。
基本的には、何らかのストレスによる精神的なダメージに対する代償行為として行われるわけで、たとえば、男子でいえば、やり場のない怒りを抑えるために、壁に向かって拳をぶつけ、手から出血したり骨折しての殴り続ける、といったことに近いといえます。しかしリストカットは10?30代の若い女性に比較的多いこと、虐待(肉体的、精神的、性的)経験などを伴っていることも多い、といった特徴があり、大きくいえば、子供や若い世代が追い詰められた状況にいることの、ひとつの現れということができそうです。
というような概論的な話派ひとまずおいといて、僕がリストカットと出会ったのは、岡田敦の写真からでした。
「DAYS JAPAN」という写真ジャーナル誌を講読しているのですが、その中に岡田敦の写真と記事が掲載されたのがきっかけです。みていただくとわかるのですが、そのビジュアルは強烈で、見るものの心を動かさずにはいられません。
この記事と前後して、僕は偶然知り合った女性から、リストカットしています、と告白されました。あまりにあっさりいわれたので、すでに克服したのかなと思ったのですが、まだ続けているということがあとからわかりました。といっても、彼女の場合、すでにある程度気持ちの整理は付いていたらしく、ほぼ克服で着かけていたので、告白できたのだと思いますが、岡田の著書「リストカット」によると、リストカットの事実を人に話せる場合は非常に少ないことがわかります。
リストカットという行為に至る理由は、もちろん個人によってさまざまです。その中の代表的な例と思われるもののはなしをします。
リストカットに至る大きな理由は、親との関係です。親との関係が、ざっくり言うと、形式化していて、本当の心の交流になっていない。そういう状況の中で、子供が学校でいじめや孤立など、ストレスフルな状況になったときに、その状況を親と共有することができなくなり、葛藤の中で事象という選択をするという流れになることが多いようです。リストカットをする人の年代自体は、10代から50代、60代までさまざまですが、特に若い世代の場合、10代からの親子関係なり、人間関係づくりの状況が反映していることが多いようで、たとえば30代のリストカッター(リストカットしてしまう人)であっても、自分の親との関係が投影されているというのがひとつのパターンではないかと思います。
リストカッターが、親子関係がよくないとか、親と話をしないとか、そういうことではありません。むしろ、普通に仲良くしている場合が多い。親の、こに対する理解が浅いといえば言えますが、「無関心で放置されている」状態でなくてもリストカットに至るので、客観的に見て、親子関係が悪いと言えるかというと、そういう場合もあり、まったく悪くない場合もある、ということです。というか、「親子関係がよくても、親子関係が理由で、子供がリストカッターになる」ということに注目する必要があります。
僕はリストカッター世代の娘を持つ親だし、そういった女性たちを企業や大学で教えている立場でもあるので、親の側から気になっているのですが、読者のあなたの場合は、自分と親の関係かもしれません。いずれにせよ、親子関係が一般論としてよいかどうかは、あまり関係がない。ここがポイントのひとつです。
リストカッターは、親子関係とは別に、学校や会社など、外の社会との接点の中でストレスを持っていて、それがリストカットのきっかけになっていることは多いようです。いじめだったり、いわゆる人間関係のトラブルだったり、そのきっかけは以下にも厳しいということもあれば、客観的に見れば「よく、たいしたことのないもの」ということもありますが、本人にとってはそれは重大なことで、それによって、自尊心が極端にダメージを受けていることがひとつの要因になっています。
自分は存在価値のない人間である、いてはいけない人間である、消えてしまいたい。そういう気持ちがあり、その無価値なむなしさを誰かにわかってもらいたい。わかってもらいたいという気持ちがどこかにあるからこそ、リストカッターの多くは、見ようと思えば見れる腕という場所を傷つける。ふだんは長袖シャツを着て隠しているのですが、自分で手当をして包帯をしたり、夏でも長袖を着ているとかで、家族や親しい友だちにはわかってしまう(伝えてしまう)。多くの場合、リストカットは、追い詰められた人のSOSのサインであり、何かに気づいてほしいというメッセージなのです。
ではそのサインを送られた親や友だちはどう反応するのか? もちろんこれも人それぞれなのですが、いずれにせよ、切った本人の期待にそうものではないことが多く、ある意味、親や周囲が自分の期待に応えてくれないということがわかっているから、言葉で伝えるのではなく、リストカットという方法になるのだということが言えます。
もしあなたの子供や甥っ子、姪っ子、あるいは会社の後輩や同僚の腕に、たくさんの傷があるのを見てしまったら、あなたはどうしますか?
少なくとも、相当重たいことだということはわかるでしょう。自殺を図ったのかも、と思うかもしれないし、リストカットという言葉を知っていれば、ぴんと来るでしょう。会社の後輩なら、「この人はストレスに耐えられないかもしれないから、大事な仕事を頼むのはやめよう」と業務上の対処法を考えているかもしれません。リストカッターだからといって、つらそうな顔をしているわけではないし、能力も問題ありません。会社など公の場では普通の人以上に明るかったり、仕事をばりばりやってくれることも多いのです。でも、リストカットという問題を抱えているのは事実。
「すでに克服していて、あとだけ残っているんだな」
と思いたくなりませんか?
「プライバシーには口を挟まない方がいいだろうな」
「ヘタに聞くとセクハラやパワハラになるかな」
と思いたいかもしれません。そしてそれが悪いとは言えません。
では自分の子供やきょうだいだったら?
どうやって対応していいか、迷いますよね。やめなさいといえばいいのか、理由を聞くのがいいのか、普通に明るく対応するのがいいのか、深刻に受け止めて、泣いて「そんなことをしてほしくない」というのがいいのか。もちろん、実際にそんな場面では、冷静に対応を選んでいる余裕はないかもしれません。
リストカッターの親たちも、おそらく同じようにうろたえつつも、周囲がうろたえてよけいに本人が動揺するかなと対応することが多いのかもしれません。
親の対応に対して、実はリストカッターはよけいに孤立感を深めていくことが多いようです。親に話してもムダ、親は本当のことはわかろうとしていない、自分がリストカットしていることを親はうっとうしく面倒なことだと思っている、なるべく無かったことにしようとしている。リストカットして、それをあえて隠さずに(見つかってもいいと思い)、気づいてほしいのに、気づかれてみると、自分がますます孤立していることに気がつく。自分は存在していなくてもいいのだと思い、「消えたい」と思う。
「死にたい」ではなく、「消えたい」という感覚も、リストカッターの特徴です。自分など、存在している価値がない。でも積極的に死を選ぶというような、強い意志もない。自分の存在に対する意欲がとても低下していて、自分が置かれている状況への怒りや反発さえない、という状況です。
でも、そんなみじめな自分を周囲に完全に暴露されてしまうと、自分がますますみじめになる。だから、これ以上みじめにならないために、自分の存在価値の希薄さまでは気づかれないように、普通に見せようと振る舞うことで、かろうじて最後の一線を守っているのが、リストカッターの心理なのではないかと思います。
「友だちには話せない」
「友だちの、重たい状況を理解して、共感したり支えてくれるほど、強く関わってくれる友だちはいないし、自分も逆の立場ならできない」
「親は心配はするけれど、理解はしてくれない」
「学校でいじめられていても、学校にだけは行きなさいといわれる」
「保健室登校なんてしないでね、狭い街なんだからみんなに知られちゃうと言われる」
「普通に見せようとする」リストかったのマインドを、親は逆手に取るように、普通に振る舞っていなさいというメッセージを、有形無形に伝えてしまう。多少つらいことがあったとしても、普通に振る舞っていれば、やり過ごすことができるというおとなの処世術という面もあるし、忙しくて向き合っている余裕がないというおとなの都合でもあります。リストカットは、外に怒りを爆発させるのではなく、自分の体を傷つけるという行動なので、外にいる親にとっては、それを「問題自体を見ないことにする」という行為につなげ、正当化させやすいのです。それによって、リストカッターはますます孤立感を深めていくけれど、それ以上、追い詰められた気持ちを出せなくなってしまう。
親も、友だちも、個人の重たいものを支えてあげられなくなった今の日本の社会が、ここに集約している、と思えます。支えられないなら、ヘタに手を出さない方がいい。ヘタに手を出すのは無責任、という価値観です。
僕が、Life Design Dialogueをやっているのは、あいての人生の重さの一部を受け止めようという気持ちがあるからやっているのですが、本来、こういう気持ちは人間は持っているものだと思います。「フーテンの寅さん」などにはこういった人情が描かれますが、寅さんは困っている人を放置したりはしない。何もできないことはわかっていても、なにかしようとする。僕は寅さんが好きなわけではないけれど、そういう気持ちと行為が存在していたことはわかります。
知恵市場でも、takeさんがレポートを送ってくれているフィリピンには、そういう感覚が今もあるのだと感じます。日本では、すっかり無くなってしまいました。その、喪失の間隙に、リストカットは存在しています。
ヘタに手を出すのは無責任という感覚は、自分のことはすべて自己責任という感覚の裏返しでもあり、これは小泉純一郎が首相時代に強調していた「イラクにいったのも自己責任」と同じロジックです。ああいったメッセージが強く出され、それが社会に受け入れられているのを見ると、若い世代は「手をさしのべてくれる人がいないことが当然のこと」と考えてしまうようになります。ネットカフェ難民の状態に陥っていても、それは自分が悪く、自分を助けてくれるような人がいないことは普通のことで、「自分は単に価値がない人間に過ぎないので、ネットカフェでかろうじて生きていけばいいんだ」という感覚につながっていきます。
もし、自分子供や家族、身近な同僚の腕に、リストカットの傷があったら、あなたはどうしますか?
ちなみに僕は、告白された彼女のケイタイに、月に1回程度メールを送っています。「どうしてる?」「僕はこんな風に過ごしています」「何か困ったことがあったら、いつでも話してね」僕と彼女は、特に親しいわけではないので、距離を決めるのは僕ではなく彼女です。でも距離はいつでも縮めていいのだというメッセージだけは伝えておこうと思っています。そういえば、しばらくメールしていないので、このあとメールを出してみようと思います。
今回の記事に書かれたように、フィリピン人は周りの人に関わる気持ちが強いと感じます。困った顔をしていたら、ほぼ確実に「どうしたんだ???」と知らない人から声をかけられます。そしてほとんどが問題解決には役立ちません。だから声を掛ける人は「問題を解決してあげよう」なんて思っていなくて、困った人を見てみぬ振りをするのは、気持ち悪いって感じです。でも声をかけられた僕は解決してもらえなくても、何か暖かい気持ちが生まれて救われる部分が多いのです。
又、もしお漬物を食べたい時に醤油が無かったら、フィリピン人は自然に隣の家に借りに行き、味の素までかけて帰ってきますが、日本人なら自転車で近所のコンビニにお醤油1本、味の素1パックを買ってくるかもしれませんね。なぜ人に頼れないのだろう???お醤油を貸したフィリピン人はその時「美味しそうなお漬物ね!」と言って、おすそ分けを貰い、両方ハッピーになるのに。
だから僕は不便でいい加減なこの国が、やっぱり好きなのかもしれません。日本も数十年前まではあった気持ちだから、思い出して欲しい気がします。フィリピンはア
ジアで一番自殺の少ない国です