(by paco)369国家のビジョン、企業のビジョン

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(by paco)ちょっと前に映画「闇の子供たち」をみて心を打たれたので、同じ監督の前作「亡国のイージス」のDVDのリユース商品を買ってみてみました。事前に、あちこちのサイトを覗いて、評判を読んでみたのですが、あまりよい評価はなく、「原作の方がずっといい」「スペクタクル映画としては、ハリウッドとのさが見えてしまって見るに堪えない」とか、酷評と言ってもいいような内容が多く、「あまり期待しないで見ておこう」ということで、さらっと見ることにしました。

で、見てみると、これがなかなかよいエンターテイメントです。いろいろと突っ込みどころはあるし、原作は読んでいないので、どちらがいいかもわからないのですが、映画単独で楽しめるかと言えば、僕はけっこう楽しめました。

確かにハリウッド映画と比べればちゃちですが、そもそもカネのかけ方が大学生バンドととメジャーレーベルぐらい違うわけで、比べるぐらいなら見るな、という感じですね。

2005年の映画なので、まだ未定ない人はあまり興味は無し、と考え、ネタバレを承知で以下、書いていくので、これから見てみたいという人は、映画を見てから読んでください。

ストーリーは、海上自衛隊の虎の子「イージス艦」が乗っ取られ、東京に化学兵器を落とすとオドして戦闘を仕掛ける、という軍事ものです。北朝鮮とおぼしき亡国の工作員と、その男に洗脳されたイージス艦の副艦長がイージス艦を乗っ取り、国のことも国を守ることも考えていない日本人の目をさまさせる、という思想が同期になっているのですが、

「進むべき道を見失った国家は亡国である」「亡国とは、人間はいても、中身が失われた国なのに、イージス艦は何を守るために存在しているのか」「守るべき未来のない国を守る海軍に何の意味があるのか」

そんな問いかけが、「犯行」の動機になっていて、日本人は平和ぼけ、日本の未来は何なのか、何を守るのか、といったことを、見るものに突きつけます。

といいつつ、実際のところ、映画では、こういった問いは薄められ、犯行グループに対して、単身で挑む「たたき上げの自衛隊伍長」のサバイバル&サクセスストーリーという色彩が強く、「ダイハード」みたいなイメージになっています。そのため、「日本の現状は亡国だ」とか「守るべきものはなんなのか」といった問い自体は、映画を見るものにとっては、それほど迫っては来ないので、こういった問いに敏感な人は過敏に反応するだろうし、あまり関心がない人には単なるサバイバル・スペクタクル映画に見えるのではないかと思います。

実際、僕も「守るべきもの、未来」という視点はほとんど意識しないで楽しんだのですが、見終わって、「そういえば、この人(犯行グループ)は何のために戦ってたんだっけ?」と思い直してみると、ようやく「日本人は何も守ろうとしていない、無防備」というメッセージが残ってくる。そんな、距離のある描き方になっているわけで、そこが物足りない人と、そんなものはエンターテイメントにはいらない、と考える人で、評価が分かれるのだと思います。

では、改めて「日本人は平和ぼけで、守るべきものがないのか」と問われたときに、そもそもこの問い(イシュー)の立て方にワナがあるなと感じられてくるわけです。

「守るべきもの、未来」というと、国の将来像や、あるべき姿、ビジョンといった言葉が思い浮かびます。国のアイデンティティといい変えてもいいでしょう。こういった言葉が思い浮かんだ上で、そういえば、日本のビジョンを語る政治家は見たことがないなあと思い、ビジョンがはっきりしないうちの会社ににているなあと思ったりすると、これは原作と映画の作者の思うつぼというか、うまく乗せられてしまっている、と思うのです。

日本企業は、ビジョンの描き方がヘタで、それが日本企業の弱さであるという言説がよく見られます。実際、自分の会社のビジョンが言える社員は少ないし、言えたとしても、それが社内に浸透しているのかと聞かれたら、自信を持って答えられる社員はもっと少ないでしょう。そしてビジョンがしっかりしている方が会社は経営力があるのだと言われれば、「確かに自分の仕事がやりにくいのも、経営者のビジョンがしっかりしていないからだよな」と思ってしまうわけです。

企業にビジョンが必要であり、それが企業を強くして、ひいては社員が幸せになるなら、国にもビジョンが必要であり、それが国を強くし、ひいては国民を幸せにする、とアナロジー(類推)で考えることができそうです。

でも、この考え方が正しいのかを、疑ってかかる必要がある、と思うわけです。

企業は、社会の中のいちセクターで、国民の中の限られた人が参画する小さなサブユニットです。それゆえ、ある個人がどのような理由でA社に参画するのか、またB社には参画しないのかは、選択肢があります。もちろん企業にも選択肢があり、A社は入社希望者から社員を選んで入社させることができます。それゆえ、企業、社員(候補)、どちらにとっても、選ばれ、選ぶための基準が必要で、企業のビジョンや理念は、そのための基準として大きな意味を持っています。

一方、国はどうでしょうか。ある個人が国を選んで戸籍をとったり、国が個人に対して国民にするかどうかを選択的に決める、ということは、少なくとも日本の場合、基本的にはありません。日本人(日本国籍)の親から日本国内を出生地として産まれたこの場合、日本国籍を与えられます。逆に生まれてきた子供がそれを拒否することは原則的にできません。(もちろん例外はあり、あくまでも多数派の一般論です)。

つまり選択的ではないのだから、選ぶ基準としてのビジョンや理念は、少なくとも企業においてのような意味は持たないのです。ここはとても重要な点です。これが自治体ぐらいの規模になると、多少は企業的な色彩も出てきて、「A市よりB市の方が住みやすいから、B市に移る」という選択が出てきます。こうなると、市のビジョンを掲げて、それをよいことと考える人を立つめることで、もっとよい市にする、という考え方も出てくるでしょう。

しかし実際のところは、B市でも多くはもともとそこに住んでいた人の子孫か、あるいは、企業の視点などに配属されて、必然的に転勤してきた人など、自らが積極的に選んだのではない人が大半を占めることが普通なので、市のビジョンや理念が果たす役割は限定的にならざるを得ません。

これが米国のような、人工的につくられた移民中心の国家の場合は事情が違っていて、「自由と民主主義と世界覇権」をビジョンとしているから、それが気に入っているから積極的に選んで国民になるという人が多くなってきます。そして価値観が共有されているがゆえに、国としても強くなる、というようなストーリーが現実味を帯びてきます。

では、日本のような、自然発生的な国家の場合、ビジョンや理念の果たす役割が違うので、国が弱くなってしまうのがやむを得ないのでしょうか。あるいは、だからこそ、国のビジョンや理念が必要なのでしょうか。

たとえば、「富国強兵」や「経済大国」というビジョンは、国民の大半が受け入れ、支持していたと考えがちですが、もちろん支持していない人たちもたくさんいました。「経済大国」をめざした1960年代には、それが同時に米国の支配下に入り、米国の帝国主義を受け入れることを意味すると考えて、反対する人がたくさんいました。それが全共闘や安保反対運動の形をとって、今で言うところのテロリズムにまで発展するわけです。そして彼らが掲げたビジョンが「第三世界の国として、東西冷戦とは一線を画して生きていく」ことで、それがたとえ目先の豊かさを失うことであっても、米国の帝国主義の手先になって他国を抑圧するよりはましだ、身の丈に合った発展をめざそう、という考えた人たちもいたのです。

つまり、経済大国や所得倍増は、国民全員が受け入れたビジョンだったわけではなく、大きな反対運動を抑圧し、押しつぶして、経済大国というビジョンを受け入れた人たちの手で、推し進められ、今のような日本の形になったのでした。

確かに、国としては「強く」なったのかもしれませんが、その日本に生まれ、国民になったからといっても、「経済大国になる」というビジョンを受け入れていない人もいて、そういった人たちへの激しい弾圧を考えると、「経済大国になる」というビジョンは、反対する人たちにとっては、自分の政治思想の自由を抑圧し、弾圧する、敵対的な行為であり、政府による国民への明確な敵対行為、破壊行為に映っていました。政府や国家が国民の生活の発展や幸福のために存在しているのなら、その政府が国民と敵対し、国民の生活を圧迫するのは倒錯した状況ですが、現実には、あるビジョンを掲げるということは、そのビジョンを認めない国民を圧迫することと同義になりがちです。それで「国」が強くなったとしても、国民の中に(ビジョンを受け入れていないがゆえに)、豊かにも、幸せにもなれない人たちが、一定の割合(たとえば40%とか)いたら、それはビジョンが国民を幸せにしたとはいえないでしょう。

ちなみに今の団塊世代の人たちは、この40%に該当する人になった可能性があるのですが、結局は政府のビジョンを受け入れ、先頭に立って推進したがゆえに、日本は今、こういう形の苦になってます。

では、別のタイプのビジョンを想定してみましょう。「すべての国民の思想的な自由を尊重し、弾圧しない、自由な国」をビジョンにすれば、少なくとも弾圧はおきず、40%の国民も、国のビジョンとのコンフリクトを起こさずに済みます。

しかしその場合、別の問題が出てきます。「私は私の考えを持っているし、あなたはあなたの考えをもっいて、それでいいでいいんだよね」という「みんなばらばらでいい」という思想を持っている人は、この国のビジョンを受け入れられるのですが、その反対に「私はみなが同じ考えでまとまらなければいけないと考えている」という人は、この国のビジョンを受け入れられません。「どんな考えを持ってもいいんだよ」と認められているから「みんなも自分の考えに賛同すべきだ、みんな同じ考え(経済大国になる!)を持つべきだ」という考えを持てるのに、その考えを持ったとたんに、「人それぞれの考えでいいんだよね」という国のビジョンが「認められなくなる」という矛盾を抱えてしまうのです。

実際、「日本にもみなが共通して持つ文化や未来像を持つべきだ」と考える人は、「国を大切にしなさい」とか「自分のことより、みんなことを優先して考えなさい」といった思想を、「広める」ことに意味を見いだしているので、「私は、<国を大切にしよう>と思っているけれど、あなたはそう思わなくて別にいいんだけどね」とはいってくれません。そのためこういった人たちは、結局のところ、「だれもが何を考えてもいいのだ」という自由の思想を少しずつ切り崩すことを考え、「自由といっても、何でもいいというわけではなく、優先されるもの(国家とか)の前では、制限されるべきものなのだ」と考えるようになります。

ばらばらであったとしても、ばらばらな意見をそれぞれが持ち、行動することに価値があると考える人と、「自由であってもいいけれど、自由がばらばらを意味しているなら、その自由だだめだ」と考える人の間に、やはり溝ができはじめるわけで、「みんな自由であっていいんだよね」という人は、他者の自由を認めるがゆえに、今度は自分の自由を制限されてしまうという矛盾を抱えてしまうのです。

ということで、「亡国のイージス」に戻りますが、「犯人」がいう「亡国」、つまり「語るべき未来がない」というメッセージの中には、「みんなばらばらでもいい、自由が保障されているなら」というような主張は「語るべき未来」の中には含まれていなくて、「国民の行動が具体的にひとつの方向に収束する」ようなことこそ「語るべき未来だ」という意味合いを、必然的に含んでいる、ということがわかってきます。

日本の場合、国の未来を憂えるという思想の中に、「自由でばらばらはだめだ」というニュアンスが必然的に含まれている、という状況にあるということを、この映画で再確認できるのですね。日本という国は、そういう状況にある。そしてそれは、日本の今の時代に固有のものです。

その一方で、正反対の国もあります。「国の行く末を憂える」ことは、「自由がどんどん無くなっていって、ひとつの考えにみなが従っていくことを危惧する」ことだという国です。今、そういう状況になっている国のひとつが、ロシアですが、それについては、また機会を見て書きたいと思います。

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