(by paco)今週は夏休み週ということで、コミトンはお休みさせていただきます。といいつつ、何もないのもさびしいので、北京オリンピックについて少し書いてみます。
テロや大気汚染など、いろいろ心配されたオリンピックですが、無事に開会し、競技が進行しています。そんな中、中国の広州在住のyukiさんから、開会式のレポートが届きました。yukiさんは生粋の日本人、でも中国在住歴が長く、いったんは日本で仕事に就きつつも、中国への思いやまず、現地採用の日本人として、日本企業で仕事をする道を選んだ若い日本女性です。
北京がオリンピックの開催地に選ばれたとき、中国にいて、中国人と一緒にオリンピックを開けることを喜んだ彼女は、その後、日本にいる期間を経て、「やっぱりオリンピックを中国人と一緒に、中国で迎えたい」という思いもあり、中国に仕事を探して、戻りました。そして迎えた開会式でした。
このレポートを読んで、中国は「クジラ」のようなものかもしれない、と感じました。
「クジラは、人間と同じ哺乳動物として、等身大に見られたことはない」と言われます。古代、クジラは人を喰う地獄の使者として描かれ、恐れられました。小説「白鯨」のエイハブ船長は、クジラを求めて大海原を航海しましたが、恐怖の対象だからこそ、その恐れがクジラを求め、狙うエイハブ船長が人の代表的なヒーローとして描かれるわけです。その後、19世紀になると、文明が大きく進歩して、蒸気船からディーゼル船が造られ、大きく、強くなった船は鯨を容易に捕まえることができるようになりました。こうなると人間は、クジラを「鯨油」をとる「材料」としか見なくなり、巨大な鯨を捕まえては、油だけとって、あとの肉も骨も、大量に海に捨てられることになりました。鯨油は、エンジンや武器の潤滑油として圧倒的な高性能を示しために、文明に欠かせない資源として大量に捕らえられました。油以外に利用もせずに使い捨てになったという点で、クジラは今度は経緯もないも感じられない使い捨ての対象になったのです。その後、1970年代になると捕鯨の時代が突然終わって、今はクジラはウォッチングや観光の対象になり、ようやく等身大の生き物としての生態が研究され、多くの人に共有されるようになってきました。
中国は、この逆に、19世紀、「眠れる獅子」と恐れられ、しかしアヘン戦争、日清戦争で意外な弱体が明らかになると、植民地同然の収奪の対象にされました。その後、戦後の策動善の時期を経て、再び「昇竜」となると、今度は大きな「経済的期待」と、それと反比例する「大国化への恐れ」、そして「衰退への恐怖と、口にされない期待」が入り交じり、等身大の中国、等身大の中国人が、周辺の人からなかなか見えてこない感じがします。期待と、影響力の大きさへの畏怖が、ひっくり返されて「衰退する」というような見解になったり。等身大の中国がどこにあるのか、を見るのにどのようにすればいいのか、それ自体よくわからないところがあるのですが、北京五輪の終了後が、それを見るタイミングになるのかも、とちょっと期待しています。
等身大の中国情報をお持ちの方、どんな立場からの情報でもかまいません、ぜひ知恵市場までお寄せください。paco@suizockanbunko.com
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