(by paco)いよいよ夏本番の時期になりました。夏は休みを取りやすい季節だし、恋人や家族と旅行に行ったり、アクティブにいろいろやりたくなります。ライフの充実というと、プライベートでどれだけ楽しめるかが重要、ということで、僕もあれこれイベントを考え、実行してきました。
でもそれって、なんでイベントなんでしょうね。旅行やイベントは楽しいから? でも多くの男は、夏のイベントを「家族サービス」などと称して、仕事のひとつであるかのようにカウントします。家族を持ったのだから、義務を果たさなくちゃ、そんな感じでしょうか。でも、なんだかヘンな気もします。どう考えたらいいんでしょうね。
先日、仕事をいっしょにしている20代の女性からはっきりした口調で、「なぜ、ご家族をそんなに大切になさるのですか?」と質問され、うろたえました(^^;)。彼女とはワークライフバランスの案件を一緒にやっているので、僕のライフのこともいろいろ話しているのです。なんででしょう? ぱっと答えられなかったのですが、恋人や家族と一緒に過ごすのはなぜ? そんなことについて、考えてみたいと思います。
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最近は、大学生を相手にすることも多くなってきて、中にはカップルもいるのですが、20歳前後の仲良さそうなカップルを見ると、初々しく、何をやっても楽しそうだなあと感じます。一緒にいるだけで楽しい時期なんですね。でもその一方で、ちょっとしたことで傷ついてしまったり、自分のわがままをどこまで受け入れてくれるのか、試したりしているようすも手に取るようにわかって、一生懸命相手のことを考えているのがかわいいなあと思ったり、ままごとっぽいなーと思ったり、危なっかしいなーと思ったりしつつも、基本的には、無条件に応援したくなります。
ではなぜ一緒にいるだけで楽しいのかといえば、映画に行くのも旅行に行くのも、同じ体験、経験をするためなのでしょう。いっしょに時間を過ごすことで、共通する体験をしたときに、自分はどう感じ、何を考えるのか、相手はどうなのか。それを確認して、自分と同じ気持ちや考えになってくれればうれしいと思うし、同じじゃなくても、相手の考えに共感できたり、敬意を感じられれば、それがうれしさにつながって、もっといっしょにいたくなるのだとおもいます。
そういう共感のひとつの形にセックスがあって、自分以外の何者でもないからだと体を使って、感覚を共有するのですから、うまく共有できればこんなにうれしいことはありません。
映画を見て感想を共有するときには、評論家の誰かがいったこととか、何かしらの思想とか、誰かの考えを「借りて」伝え合うこともできるので、自分と相手の間に何か別のものが介在してしまうことが意外に多いのですが、セックスの場合、それが入らない。まあ、演技で感じているように見せてしまうというようなことをやると、ダイレクトだと思っていた感覚に嘘がわかって、余計に距離が遠くなってしまうのでしょうけど。
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僕と妻は、出会ってから、次々と「Our BOOMs」をつくって、いろいろなことをやってきました。出会ったこと、よくやったのはビリヤードで、当時、別にはやっていたわけではないのですが、マイナーながら普通に街中にあったビリヤード場に行って、下手な玉突きをやって楽しんでいました。わりと安く楽しめたし、テクニックとロジック(入射角と反射角とか、完全弾性衝突とか)のほどよいバランスが必要なゲームというのも楽しく、また男女差がほとんど出ないゲームというのも、楽しめた理由でしょうか。最初は僕の方がうまかったのですが、彼女もじょじょに腕を上げて、ほとんど互角になり、あるところで進歩が止まってきたので、あまり突き詰めずに次の遊びに行きました。
泳ぎに行くことも好きだったので、よくふたりでいったのですが、最初は手軽な街中のプール。でも泳ぐなら海の方がいいよね、そうだね(これも共感ですね)、ということで伊豆の海水浴場。僕は、以前から家族と行っていた、安全な砂浜に連れて行ったのですが、砂浜より岩のあるところの方がおもしろいよ、と誘ったのは彼女の方でした。彼女は、小さなころからおじいちゃんおばあちゃんのいる九州の島で泳いでいたので、磯で泳ぎ、アワビやサザエを捕って食べちゃうのも平気だったのです。遠浅の砂浜で遊ぶときは、はしゃいで遊ぶという感じですが、磯で泳ぐときは、生き物を見たり、捕まえたり、深いところに潜ったり、というように、わりと頭を使う一方で、安全感覚が必要な遊びにが中心になってきます。ただはしゃいだり、浮いて気持ちよくなるより、ちょっと知的な要素が入った方が、ふたりともおもしろいんだということに気づき、それが共感と、相手の感覚に対する信頼になっていくのでした。
磯で泳いでいたことの延長で、素潜りを始めるのですが、これも海の家で買ったおもちゃのような水メガネより、スキューバダイビングのゴーグルとスノーケルを使えば、格段に楽に潜れることを、冷やかしで寄ってみたダイビングショップで教えてもらったことが始まりでした。1セット1万円以上するシリコン製のゴーグル&スノーケルを2人分買うのは、僕にとってはけっこうな出費でしたが、これを使えばお互いの楽しみがずっと深くなり、その深さが二人の気持ちをもっと近づけるということがわかったので、高いとは思いませんでした。
2万円を超える出費は、ものを買うためのお金ではなく、ふたりのつながりをつくるための投資と感じられたし、つながりという、無形だけれど、一度つくられればかんたんに崩れることのないものをつくる方が、2万円の現金よりずっとすばらしいことだと感じられたのでした。
若いカップルの中には、こういう、きずなを深めたくて一緒にいたり、お互いに共感を大切にして付き合っているのかなと思える人たちもいて、そんなようすを見ていると、お互いにきちんと向き合っているなと感じられて、うれしくなります。僕自身がそうやって彼女との時間を積み重ねてきたし、そのうえにいまの時間があると感じているからです。
「なぜ、ご家族をそんなに大切になさるのですか?」という質問への答えが、ここにあるような気がします。同じ時間を共有し、それに対する理解と共感を積み重ねることが、信頼感につながるし、その時間を楽しむことが生きる上でいちばん幸せなことだと感じるのです。
その一方で、20代後半や30代のカップルを見ていると、どこか相手と向き合っていないような、相手と向き合う時間をきちんととっていないような印象を持つことが多いのも気になるところ。もちろん、それは年齢ではなく、個人差が、ふたりの相性も大きいのは当然ですが、社会人同士、特に両方が正社員などのややヘビーな仕事についていることと、関係があるのではないかと思えます。
休日でも、仕事の後の夜の時間でも別々の相手と別々のことをしに行くカップルがけっこう目に付きます。グロービスのクラスのあとは、たいてい懇親会になるわけですが、こういう会に出なければ、恋人や結婚相手など、パートナーと過ごす時間に充てられます。もちろん、相手のあることなので、自分が懇親会に出なくても、相手が付き合ってくれるとは限らないし、その時、出会いのチャンスが無くてパートナーがいない人もいるので、懇親会に出ることがよくないというつもりはありません。懇親会自体、けっこう有意義なのは、いうまでもありません。ただ、懇親会とパートナーと、両方の機会があるときに、どちらをどういう観点で選ぶのか、ということはとても重要です。
漠然とした印象になってしまいますが、パートナーはいるけれど、もう恋愛熱々の時期は過ぎたし、ある程度お互いのことがわかったら、そのあとはほどよい距離をとってお互いの人生をすごし、ときどき接点を持てばいいと思っている感じの人が多いように思うのです。それが人間でしょ、という感じもあるし、むしろそういうフェーズに入れば、お互いの時間を共有することは、むしろ束縛であり、お互い縛らずに、仕事や友だちとの時間を優先した方がいい、というぐらいに考えることが、スマートであるべき姿だと考えているような発言をする人もいます。
出会ってまもなくで、熱々の時期なら、少しでも一緒にいたいと思う人でも、ある程度お互いがわかり、かんたんには裏切らないと思えば、あとは相手を自由にさせて上げるのが、よい関係だと。
その延長に、こんな状況があるように思います。
一方が海が好きで、サーフィンをやりたい。他方は食べ歩きが好きで、休日はランチ巡りをしたい。お互いにやりたいことが違うのだし、相手に合わせていてもあんまり楽しくないから、休みの日はそれぞれ、海と街に分かれて遊びましょう、それに気の合った友だちといっしょに。
週末といっても、土日の片方は片づけやたまった洗濯、睡眠時間の確保などでけっこう忙しく、残った片方が遊びの日というパターンが多いでしょう。その遊びの日が、それぞれ別の友だちと別のことをしているなら、そのカップルにとって一緒にいることは、互いに生活に必要なことを一緒にやる相手、という状況になってしまいます。しかし「生活に必要なこと」はそれぞれ「掃除はここまではやりたい、洗濯はちゃんとアイロンまでかけて」と、やるべきレベルがシビアになりがちで、他方が「そこまでやる必要があるの?」と考えると、「どこまでやるか、対立と譲歩の繰り返し」という場面になりがちです。
これでは、パートナーとの間で、対立の時間だけを共有し、楽しむ時間になったらさっさと別のことをしに別れていくという状況になってしまいます。
カップルが一緒にいたいと思うのは、同じ体験を共有し、自分の感覚と相手の感覚が似ていることを発見したり、別の感覚を持っていることをうれしく感じたいからであって、対立や譲歩のためにいたいわけではありません。「すでに、共感性の部分ではお互いわかっているから、信頼感があるから」と考えて、その後、共感し合うことを重視しなくなり、共感のない時間だけを「生活のため」に共有するようになる。それでも、それなりに気心のわかった相手だから、積極的に分かれるアクションをとるのも抵抗感がある。恋人関係は終わって、「家族(みたいなもの)」だから。
あえて分析すれば、こんな感じでしょうか。
もちろん、僕と妻との間にも、同じ問題があります。同じ場所、同じ時間を共有していても、実際には違うことをやっていることも多く、そうなると、一緒にいるものの、本当に僕らは同じ時間を過ごし、共感しているのかと思うこともあります。そのことはわかりつつも、ではどうすればいいのかとなると、改善策が見つからなくて、「お互いこれでやってきたし、こんな感じでいいのでは?」と思うことで自分を納得させていることも多いのだと思います。
もちろん、こういう状況の対処の方法はそれぞれあり、「だからこそ、短い時間を新鮮な気持ちで楽しみ、別々のことをする時間はそれをちゃんと楽しむようにしている」と話してくれた(楽しそうな)カップルもいました。その一方で、「一時は別々の時間が多かったのだけれど、すこし前にいっしょに自転車を始めて、最近の週末は長距離いっしょに走って過ごすので、共通の話題も増えた」というカップルもいます。「やっぱり別々でもわかり合っているというのは自分への言い訳でした。同じことをやり、お互いに<楽しかった><きつかった><終わってからの食事がおいしかった><今度はあそこに行こう>を話ができることで、お互いの距離が縮まるんです」といっていたことが印象的でした。
長い付き合いのパートナーほど、今週末、来週末、一緒にいないこと自体が大きな影響になることはないけれど、その積み重ねがが少しずつ距離を離していくような何年かを過ごしてきた、と言うことなのだと思います。
別のカップルは、保育園に通う子どもがいて、育児は女性(仕事は短縮勤務)が中心にやっていますが、男性の方は理解があり、手伝ってくれるし、どんなことも理解は示してくれるといいます。でも、「許容している」のはわかるけれど、「共有し、いっしょに何かをやってくれるわけではない」ことが、最近だんだん不満に感じてきた、と話してました。
対立と譲歩の時間ではないものの、パートナー同士の間で、これがいい、これは違うとお互いの考えを示し合うことなく、「それもいいんじゃない?」と認めていればいいんだ、というやり方は、時に男性がとってしまいがちな態度かもしれませんが、対立的ではなくても、感覚の共有がないという点では、事態は悪化の方向に向いてしまうのでしょう。この不満は、女性の方が先に感じることが多い傾向にはありますが、男性の側にもじわじわと蓄積が広がり、男性の方が気持ちを伝えることが下手なので、こじれてきても伝えられずに、身動きがとれなくなることもあります。
恋人関係、夫婦関係、いずれにせよ、男女のあり方はさまざまなので、こうあるべきというつもりも、またそれが言える立場にもありません。ただ、仕事が厳しくなる一方、交友関係や趣味のチャンスが増えているので、カップルが互いに別のことをやりつつ、関係を維持した方がいいと考える傾向は強まっているように思います。そういう時代環境の中で、自分たちはどうやって関係を維持し、さらに深めていくか、一緒にいるべき相手なのだと積極的に感じられるようにしていくか。そこには明確な意思が必要なのではないかと思います。
その意思を持っているかどうか、それをどうやって現実の関係に落とし込んでいくか。そういう時間の使い方のために、夏休みを使ってみては? という話でした。
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