(by paco)363「つながり」を「貯金」する

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(by paco)時代がどんどん動いています。

環境問題が大きくなり、その解決に向けての動き。
米国の覇権崩壊と覇権交代の動き。
グロバリゼーションと富の集中、貧困の拡大。

そんな世界の動きは、日本の国内にも投影されているのですが、これまで機能してきた社会の仕組みが機能不全をおこし、新しいしくみを探る動きが、ほんの少しずつ、出てきています。

先週紹介した、自転車や薪もそのひとつ。そして、もうひとつ、最近気になっているのが、「わけのわからないことをいう経営者や大人が増えてきたなあ」という実感です。

以前から紹介している「テトル・クリエイティブ」という会社では、本業を社会貢献に活かす事業を始めています。具体的には、社会起業家を紹介するメルマガ「誰かのリアルを自分のリアルに・・・」を「ドネーションメルマガ」と称してスタートさせ、読者が増えると植林する、というしくみで運営しています。本業の広告制作のノウハウを活かして、NGOなどのサイトづくりに協力してNGOで扱う商品の売り上げを増やし、運営に貢献しているのも印象的です。

と思ったら、もっと込み入ったことを宣言する企業が出てきました。アミタ株式会社です。ここはもともとリサイクルや森林活動で知られた環境企業ですが、社長の熊野英介さんが「思考するカンパニー 欲望の大量生産から、利他的モデルへ」という著書を発表し、新しい社会の仕組みを提唱しています。

本自体は、いささか抽象的でわかりにくいのですが、熊野さんが提唱者となってネットワークづくりが始まり、その中に入れてもらっていることもあって、ちょっとずつコンセプトが理解できるようになってきました。

このネットワークの中でのキーワードは、

人間関係資本
無形価値資本
第二の公

などが使われていて、こういった分野に関心がある僕でも「???」という感じです。とはいえ、こういったキーワードが少しずつリアリティを持っていることも事実だし、もしかしたら、これは本当に新しい時代を開くかもしれない、というポテンシャルも感じるので、今週はこれらのキーワードについて考えてみます。


人間関係資本とか無形価値資本とは、お金に換算できない社会の価値で、人のつながりによって支え合いの仕組みをつくっていこうという考え方です。資本主義万能を排除して、つながりを重視する社会というと、自給自足的で閉鎖的なイメージがつきまといます。かつてはヒッピーが資本主義や帝国主義を嫌って、原野や孤島に渡り、原始共産社会的なコミュニティをつくり、その末裔が最近では環境問題に結びついて、環境的にも持続可能なコンパクトなコミュニティになっています。ちょっと衣替えして「ディープエコロジー」というコンセプトで呼ばれたりします。

日本人の中から生まれた活動としては、宮沢賢治の「美しき村」が代表格でしょうか。これも資本主義の影響を廃して、互いに労働を出し合って理想郷を作ろうというものでした。現代的なところでは「ヤマギシズム」も知られています。

ただ、こういった活動は、活動場所は人里からやや隔絶された場所を選び、閉鎖的で、宗教星を帯びてしまうことが避けられず、たしかにそういう活動もあってもいいよね、と思いつつ、広がりにかけるし、「自分はさんかしなくてもいいや」という感じで、「新しい時代を築く核になるコンセプト」という印象はありません。

少しずれると、地域活性化の考え方として復活しつつあるものもあります。「結(ゆい)」という考え方です。結はかつては日本の農村のどこにでも、普通にあったもののようですが、互助的な共同体活動です。最近注目されているのは合掌造りで知られる白川郷のかやぶき屋根の葺き替えで、結を復活させたというニュースでした。合掌造りのかやぶき屋根には大量のかやが必要で、また吹き替え作業にも職人だけでなく、たくさんの人手が必要です。現金を払ってやってもらうと、何百万円も必要、という以上に、そもそもやってくれる人がほとんどいないという状態で、合掌造りの家の住民は数十年に一度というかやぶき屋根の葺き替えをどうするか、あたまを悩ませてきました。

かつては結というしくみが集落にあり、かやを集めるところから葺き替えまで、共同体の互助によって行われていました。葺き替え作業には、一度に数十人が屋根に上がり、屋根にかやの束を載せ、縄で縛って止めていくのですが、屋根の下にはかやを持ち上げて屋根の上の人に渡す係、作業する数十人に食事を提供する女衆など、総勢100名以上が集中して仕事に関わる必要があります。白川郷のような地域では、順番に葺き替えが発生するため、結が順送りでつくられ、屋根を維持してきました。

たとえば、30軒の集落で、60年に一度かやを吹き替えるとすれば、2年に1回、結による葺き替えれば、集落が維持できることになり、昭和初期まではこれがあたりまえだったのです。結で葺き替えを行えば、金銭的なコストは限りなくゼロです。人々は順に労働を提供し合い、毎年、総出で河原にはえるかやを刈り取って干しておいて順に使い、葺き替え当日の食事は集落でとれた米を使えばよかったのです。

同じことを貨幣経済の元で行えば、1軒の葺き替えが600万円としても、1年で300万円のお金の動きがあることになり、こうなるとGDPにカウントできるようになります。明治以降、じょじょに日本の隅々にまで資本主義が入り込むと、それまでお金でカウントされていなかった「屋根の葺き替え」という価値が「毎年のGDP=300万円」としてカウント可能になった、ということを意味しているのです。

日本ではここ150年間、こうやって結によるカウント不能だった価値をビジネスのしくみで置き換え、GDPとしてカウントできるようにリプレイスしてきました。もちろん今の大きなGDPは置き換えただけでなく、新たに創り出したものが大半ですが、結のように、お金で置き換えられないものを置き換えたことによってカウントできるようになったものも多いのです。

その反面、カネでカウントすることによる問題もたくさんおきてきました。かやぶき屋根の葺き替えは、カネという面で大きな負担を個人に課します。60年に1回、屋根の葺き替えに600万かかるなら、年に10万ずつ貯金しておけばいいようなものですが、実際には人間はそれほど勤勉ではないし、60年も先のことになかなか真剣になれません。経済状態はそのときどきで変わるので、年に10万円も貯金が難しいということもあるでしょう(将来に備えるためお金は、屋根代だけではないし)。

そうなると、やはり吹き替えが必要になってから焦るということになるのが普通です。600万円にもなるおかねは、簡単に出すことはできませんから、結局、安価なトタン屋根にしたり、雨漏りしはじめてやむなく普通の住宅に建て替える、ということになり、日本中から手間のかかる家が失われていったのです。

しかし、失われたのは家だけではありませんでした。結を構成する人と人とのつながりも同時に失われたことを、人々はあまり重視しなかった。つながりが希薄になると、その集落にいる必然性も薄れ、外に出て行く人も増えてしまうし、困ったときに助け合うという週間もなくなっていきました。結いは、お金のつながりはなくても助け合うという関係ですから、困ったときの相互扶助のつながりでもあったのです。

お金やモノでカウントできない「つながり」が、GDPの上昇と引き替えに失われていった、ひとつの局面です。

では、その代わりに、お金によって新しいつながりができることはあったのでしょうか。

確かにあったのだと思います。1970年代までは、日本の企業は「家族的経営」で、結に代わって、会社内での人間関係が相互扶助的になるよう、機能していました。農村から「金の卵」として就職列車に乗った団塊の世代が、農村的な結の関係を企業の中に再構築したのでしょう。

しかしそれも、グロバリゼーションや世界標準の経営の中で、ムダなものとして排除され、企業内「結」が成立する要件のひとつであった、終身雇用も失われ、結は日本の社会から失われていきました。

僕は1960年生まれなので、この過程をまさに目の前で見てきたことになります。子どものころ、おばあちゃんの親戚の家はかやぶき屋根の農家でしたが、カラー鉄板になり、普通の住宅になり、今はどうなっているのかな。就職したころは団塊世代がめんどうな人間関係を押しつけるので(部下は上司と飲みに行くのが当然、とか)、いかに避けるかが大問題でした。

都会に移植された結を嫌い、避けて通ってきた僕が、今、改めて結の復活とか、人間関係資本とかいう活動に呼ばれ、参画するというのは、僕なりにすごく違和感があり、今でも、どう位置づけるか、悩ましいところがあります。しかし、単純に考えれば、行きすぎた揺れは、戻すことが必要だし、人間関係の復活を僕のような三無主義(無気力、無関心、無責任)の世代が歴史的な経緯から「結」的関係を「嫌い」「排除する」なら、それは僕らが嫌った団塊の世代と逆の意味で、下の世代の動きを邪魔しているうっとうしいやつということになるのかもしれません。

まずは、今何が起きているか、見定めることに注力しつつ、この活動に関わってみようという気になってきました。

さて、そんな中、おもしろい活動に出会いました。高円寺の商店街で活動する「素人の乱」です。
http://trio4.nobody.jp/keita/
昨日、J-waveでここの代表が登場してしゃべっていたのを聞いただけなので、正体不明なのですが、活動の概略はこんな感じです。

高円寺駅前商店街は、シャッターストリートと化していて、寂れかけていた。そこに、法政大卒の青年(現代表)がやってきて、シャッターの下りていた店を安く借り、リサイクルショップを始めた。そこそこうまく回っているところに、友だちが広がり、相談を受けるようになり、「飲み屋をやりたい」などの相談に乗るうちに、松江店外を中心に、5店舗程度が開店して、ちょっとした活況を呈するようになった。これを「素人の乱」と名付けて、活動が広がりつつある、と言うものです。

この活動が「結」的なのは、店を出す店長、働くアルバイターが繋がっている関係性が、お金より、人間関係や、信頼関係を軸にしているというか、お金に換算しない価値で強く繋がっているという点です。「代表」は後続の店長に、店の出し方を教え、商店街の店主たちから空き店舗の使用許可を取り付けてきますが、これらはみな「無償」です。助け合い。もしそれにコンサルティング料や不動産紹介料の値付けをすれば、GDPはそこそこ上がるでしょうが、それはやらない。人間関係の強さや信頼関係として「貯蓄」した方が、「お金で精算」するより将来とも価値が大きいということを、ここのメンバーは感覚的にわかっているのだ思います。

関わっているのは、みな、いわゆるフリーターというか、「負け組」「ネットカフェ難民」というようなタイプに近い人たちで、中にはバリバリのビジネスウーマンやシステムエンジニアが、企業での仕事に疑問を感じて、「素人の乱」に身を投じた例もあり、仕方なくという側面と、自ら進んでこういう関係に将来を見いだしたということもあるようです。SEとして夜中まで働き、収入は何倍もあっても、会社はすぐに従業員をクビにするし、受け取った報酬を貯めておいたところで、クビになって半年もすれば尽きてしまう。会社にも仕事先にも人脈が残るわけではない。

素人の乱に参画すれば、仕事を辞めても人間関係や信頼関係が残り、次に何かをやるときに力になってくれるし、自分も相手の力になれる。仕事はしているので、経営者はアルバイターに時給800円は払うけれど、仕事と時給以外の価値のやりとりがあるから、それを求めて人が集まってくる。

「つながり」や「信頼」を「貯金」して、自分の将来の生活を安定させようという理解があるから、成立している関係なのではないかと感じます。実際、メンバーは収入面では月額15万円とか、そういう額だとしても、将来の心配をあまりしていない上に、自分たちのやっていることに自嘲的になっていないのが、印象的でした。

読者の皆さんは仕事を持ち、それなりの収入を得ていると思いますが、その収入は、仕事とお金の引き替えで、お金で払われたあとは何も残らないのか、それとも、お金以外の何かも残っていくのか。お金以外に、将来に繋がる「貯蓄」はしているのか?

フリーターやネットカフェ難民のような人たちは、高度資本主義社会の行き着く先で振り落とされてしまった人たちと考えると、とってもポスト資本主義的な存在です。その彼らが、カネより「つながり」を貯金し始めたとすれば、それはさらにポスト資本主義的なことなんじゃないか。そんな気がします。

彼らがポスト資本主義の先頭を走っているなら、僕らも彼らより遅れつつも、近いうち、「つながり」を貯金する時代に入るのかもしれません。

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