(by paco)先週の続きです。
さて、奈良の事件についての調書をそのまま公開してしまった「僕はパパを殺すことに決めた」(講談社)。少年事件の調書は非公開で審判が進められるのに、公開すること自体をどう考えればいいのでしょうか?
この問題は、たとえばamazonの書評などを見ると、「非公開のものを暴露するのは悪に決まっている」というような単純な主張が見られますが、こういった単純な議論はするべきではありません。
非公開といっても、少年事件についての情報は公共の情報であり、公共の価値のためには従来は非公開だったものを公開するのは、情報公開法などの精神にもかない、時代の流れでもあります。今非公開扱いだからといって、公開することを単純に悪だとは言えません。行政が非公開と決めたことに従うというだけでは、そもそも情報公開法も成立しなかったでしょう。
行政が非公開と決めたもの(あるいは、当然のこととして非公開にしているもの)であっても、公開すべきものは公開に踏み切る。こういう行為は、実はジャーナリズムでは、日常的に行われています。道路特定税による財源がマッサージ機の購入に使われていたというような情報も、どのようにつかんだのかはわからないにせよ、どこにでも公開されている情報ではなく、正式に申し込んで教えてくれるようなことではないと思われます。汚職や不正に関する情報も巧妙に隠されているわけで、ジャーナリストはそれをいろいろな方法で聞きだし、情報を取り、自らの責任で公開することで、社会にその是非を問おうとします。
この場合、情報の取得の方法さえ合法的なら、ジャーナリストの行為は合法的で問題がないとされています。たとえば、ジャーナリストが情報がある場所に不法に侵入して盗み出すとか、知っている人物を拉致監禁してしゃべらせるとか、そういう犯罪行為によって獲得した情報を公開した場合、盗んだことや監禁・拷問・傷害については罪に問われるでしょうが、情報を公開したことそのものについては罪に問われることはありません。
そういう意味で、今回草薙さんが審判の関係者から得た調書を公開する行為そのものを、「非公開のものを公開するのは悪いこと、罪悪」というように裁判を起こすことはできないし、実際、そのような裁判は起こされていません。またこの事件について、僕たち一般市民が「やってはいけないことをやった」というように社会的非難の対象にするのも、決して「行儀がいい」ことではありません。「公開したがらない情報を公開する」ことから、社会的な悪や問題が明らかになることも、歴史上、決して珍しいことではないのです。
今回の事件では、実際、検察が罪に問おうとしたのは、情報を漏らした側である少年の精神鑑定を行った医師でした。草薙さんに対しては、この医師に対して情報漏示を強制したとか、迫ったというような「漏示の共謀」とか、医師が望まないにも関わらず調書を「勝手にコピーして持ち出した」のではないかと、ずいぶんしつこく追究したようですが、結果的にそのような事実は出てきませんでした。
漏示事件の顛末を書いた「いったい誰を幸せにする捜査なのですか。」(光文社)には、巻末に漏示罪に問われた鑑定医が別の雑誌のインタビューに答えた記事が転載されています。そこには、医師が自分の意思で草薙さんに調書を見せ、調書の内容が公開される可能性があることを知っていて、そのことを「後悔していない」と話しています。調書がそのままの形で本に載るという点については予想外だったものの、内容が明るみに出ること自体は、草薙さんの主張と同じ意味合いで「むしろ望ましい」と考えていたことがわかります。つまり、草薙さんは鑑定医に調書をみせることを強要したわけでも、盗み出したわけでもないことがはっきりしたのです。
この結果、草薙さんは不起訴処分になり、鑑定医は漏示してはいけない情報を漏示したという罪で、起訴され、公判中です(判決はまだ出ていないので、罪に当たるかどうかは不明です)。
ここまでの話を少し整理してみます。
草薙さんは、少年犯罪予防の観点から、審判の詳細な内容を表に出したかった。鑑定医もそれに同意し、内容は見せたものの、内容を抽出するのではなく、そっくりそのまま本にするとは思っていなかった。しかし内容を見せたことは鑑定医の意思であり、「漏示」は事実なのだから、事実は認めて公判に臨んでいる。一方、草薙さんは、「漏示」をした側でもなく、ジャーナリストが隠された事実を公開すること自体は罪に問えないので、不起訴というのが現在の状況です。
ちなみに、「隠された事実を公開すること自体は罪に問えない」ということを、「憲法が保証した表現の自由」を言います。表現の自由というと、表現、つまり見せ方というようなイメージを持っている人も多いのではないでしょうか。女性の美を「表現」するのに、ヘアが写っていてもいいのか、性器が写っているのはだめなのかというような「表現」の自由が裁判になることもあります。しかしより本質的な「表現の自由」とは、「誰かが隠したいことを、誰かが公開しても、それ自体を罪に問うことはできない」という示していて、これは民主主義の根幹をなしている概念です。民主主義は、政治の決定権は市民にあるというコンセプトで、決定するためには、政治に関する情報のすべてを知ることが必要だ、ということが前提になっています。だからこそ、民主国家の憲法には、表現の自由が必ず盛り込まれているし、その表現の自由とは、政府が望まない情報を公開する自由のことを指しているのです(「隠したいこと」の中で、個人のプライバシーを公開することは、表現の自由ではないし、ジャーナリストもこの点は十分配慮する責任を負っています)。
もちろん現実的には、民主主義の国である米国でも英国でもフランスでも、軍事や国際問題、汚職などに関する情報は厳しく管理されていて、それを誰かが公開した場合、いろいろな手を使って政府が罪に問おうとしてきます。しかし、公開することが正義であることを最後に保証しているのが、憲法であり、ここをよりどころに、ジャーナリストは活動するのです。
ちなみに、「ジャーナリスト」とは誰で、どのような要件をもつべきなのかという議論も、草薙さんと、草薙さんを罪に問おうとした検事との間で繰り返しなされています。ジャーナリストというと、新聞記者だとか、特定の大学の学科を出た人だとかイメージしがちですが、憲法の表現の自由は国民全員に対して保証しているものであり、ジャーナリストとの定義とはいっさい無関係に、「非公開のものを公開する」権利があると見なされています。僕もあなたも、ジャーナリストなのです。
こういう、憲法の規定や民主主義の根幹をなす概念について、僕らはあまりに無頓着であり、行政や政治を信頼しすぎているわけで、少年審判に関わる裁判所が「調書は非公開です」と言えば、調書を公開することは「悪いこと」と単純に考えてしまう、ということ自体が、素直に過ぎるというか、政府のいいように扱われてしまうマインドなのです。
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さて次に、そもそも今回の「情報漏示罪」での立件・起訴は、それ自体が「合法」なのか、という点に注目してみます。
情報漏示罪は親告罪で、誰かが「あれは罪に当たる行為だ」と告発しなければ、検察は捜査することも罪に問うこともできません。
親告罪としては、単独犯による強制わいせつ罪、強姦罪もこれに含まれていて、強姦された側が警察に親告しないと、犯罪としての捜査が始まりません。これは、実際に強姦があったとしても、女性が事実が表に出ることを望まないなら、放置した方が理にかなうという考え方です。
では草薙さんの「情報漏示罪」は誰が親告したのかと言えば、奈良放火殺人事件を起こした少年と、その父親です。このふたりが連名で親告書を書き、署名捺印して、警察・検察に告訴したから、情報漏示罪の捜査が始まりました。
しかし、このこと自体「おかしなことだ」という主張が、「いったい誰を幸せにする捜査なのですか。」の中で行われています(巻末にある、草薙さんの担当弁護士による記事)。この弁護士によると、今回の親告は不自然に過ぎる、と書かれています。
まず、このふたりがなぜこの珍しい「犯罪」を知ったのか、親告してまで罪に問おうとしたのかが不自然だと言います。
通常は情報を、本人の意に沿わずに公開された場合、通常は民事裁判に訴えます。名誉毀損など罪に問うには証拠が充分集まるかどうかが難しく、そのために弁護しも警察も検察も、簡単には動いてくれないからです。民事であればすぐに裁判が始まり、名誉回復の宣言や金銭的譲歩が得られれば、実質的に勝訴、自分に非がなく、相手にあることを社会にアピールすることができるのです。
にもかかわらず、今回、非行少年(犯人)とその父親は、民事ではなく、刑事に訴え、かつこれまでほとんど裁判の例がなく、そもそも検察が立件するかどうかもわからない「情報漏示罪」で訴えるというのは、とても不自然です。そもそもこのような犯罪があり、親告罪であることなど、一般の人はまず知りません。
もうひとつ不自然なのは、少年と父親が連名で親告していることだと言います。少年は父親を殺そうとするほど憎んで、あるいは恐れていました。結果的に放火したとき父親は不在で生き残るわけですが、事件後、少年はすぐに拘束され、そのまま審判を受けて少年院に送られているので、父親と事件について詳しく話す時間はほとんどないはずです。ということは、少年が父親と和解しているとは思えない。にもかかわらず、連名で親告するというのは、とても不自然です。さらに、そもそも少年は、草薙さんが自分自身について書いた本「僕はパパを殺すことに決めた」を、読んでいない可能性が高い。事件を起こした少年は更生期間中、事件についての新聞記事や本などを読むことを厳しく制限されているため、少年院送致から数か月という時点で本を読んでいるとは考えにくいこと、仮に父親らが差し入れたところで、本人に渡されないことが普通だという点です。
読んでいない本について、知るはずのない犯罪で、憎んでいる父親と連名で、ろくに話し合いもせずに親告する。とても不自然です。しかも、父親と少年は、確かにこの本でプライバシーの侵害や精神的苦痛を感じたかもしれ何しても、さらに裁判を起こすとなれば、マスコミが一斉に報道することは明かで、ようやく世間が事件を忘れかけたこの時期に、わざわざ注目を集めるようなことをする、というの不自然です。
また草薙さんを取り調べた検事が、「少年と父親は申告書にはんこを押したんだから」という表現をしていたと書いています。そのニュアンスから、「誰から書面を用意して、用意されたものにはんこを押した」というようすが感じられ、この点も、本人の自主的意思で親告されたものか、非常に疑わしいと書いています。
実は、少年事件について繰り返し取材して本を書き、少年審判のあり方や非行少年の更生の方法について告発してきた草薙さんは、元刑務官(法務省勤務)ということもあり、法務省関係者からは目の上のたんこぶと見られていたようです。草薙を黙らせろ、そんな目的の中で、彼女を追い詰めるために、関係者が、民事でもいいはずの裁判を、刑事告発に持っていった、というのが本当のことではないか(ちなみに、改めていうまでもありませんが、ざっくりいうと、民事は争いごとをカネや名誉で解決しようとする裁判、刑事は犯罪に当たるかどうかを争う裁判です)。
実は僕も、この刑事告発のニュースを聞いたとき、これは国の側の圧力、つまりは弾圧ではないかと疑いました。事件が進展していた去年から今年春ぐらいの段階では、詳細な情報が国の側からしか出てこなかったので、確信が持てなかったのですが、こうして草薙さんの側、かつ弁護士の意見も載ると、「弾圧」のためにつくられた刑事告発であることは間違いないだろうと思うようになりました。少年も父親も、国のメンツに利用されているのです。そして結局ひとり刑事事件として起訴されてしまった監察医は、弾圧の結果のまさに犠牲者です。
政府のやり方に反対し、それを抽象的にではなく、具体的に行動したリアクションを起こす。しかも草薙さんのように徹底的に合法的に(だからこそ、検察も起訴できなかった)やるジャーナリストは、政府にとってはいちばんやっかいな存在です。今回の事件でも、検察は盛んに「明かな嘘」の情報をマスコミ(NHKなど)にリークし、草薙さんを追い詰めようとした事実が細かく記載されています。揺さぶりをかけて精神的に追い込み、筆を折らせ(執筆活動をやめさせ)ようとしたのでしょう。
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さて、今回は2回にわたって草薙さんの刑事告発と不起訴処分についてみてきました。これが、現代の言論・思想弾圧の具体的な場面です。かつて、日本では治安維持法があり、政府に反対する言論はことごとく「共産主義思想・危険思想」として弾圧され、考えをもったり発表したりするだけで投獄、処罰されました。幕末、幕府に反対する憂国の士は、安政の大獄でとらえられ、処刑されました(僕の敬愛する吉田松陰もこのときの犠牲者です)。
このような思想犯や思想弾圧は、自由主義憲法がある現代の日本では、あり得ないこと、遠い過去のことと考えがちです。しかし、思想弾圧は民主憲法下でもいろいろな方法でますます巧妙に行われていることに、気がついておかないと、大事なことが気がついたら失われているという状況になっていきます。草薙さんの事件は小さくて込み入った事件ですが、こういった事件にこそ、社会の本質が隠れているのです。
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