(by paco)今週は、最近気になる社会問題を2つ、オムニバスでコメントします。
まず最初は、この季節になるときになる、「君が代斉唱」問題です。安倍政権誕生の直後に改正された教育基本法で、道徳教育と愛国心教育について、条文が追加されました。
前文に「公共の精神」を尊ぶことが掲げられ、第2条において「教育の目標」として「豊かな情操と道徳心を培う」ことが記載され、愛国心については、教育の目標の一つとして「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」があげられる形で触れられています。
この改正に前後して、極右思想を持つ石原慎太郎率いる東京都は、学校教育の場に国旗の掲揚と君が代斉唱を義務付け、さらに東京都の教育委員を派遣して、守られているかどうかの監視を始めました。これが2003年のことです。特にターゲットにされたのが、卒業式と入学式で、国家斉唱時に起立しなかったり、歌わなかったりする教員がチェックされ、その後、「再教育」や「降格」などのペナルティが課される事態が続いています。
以降、5年間が経過する2007年春までに、388名が「不服従」で処分され、今年も勇気ある「不起立者」が出ています。
これに対して教員や関係者による訴訟が行われていて、目的が異なる5つの裁判のうち、3つについて一審判決が出て、2つが原告勝訴、つまり、不服従者の勝訴になっています。ただし、一審判決が出ている3つとも控訴審に持ち込まれているので、確定までにはまだ時間がかかるでしょう。最近の傾向としては、一審や二審ではリベラルな判決が行われ、上にいくにつれて保守化する傾向にあるので、最高裁までもつれ込んで原告敗訴か、原告が教員を退職し、訴える権利が失われたとして、棄却される可能性もあるでしょう。
では、この「君が代斉唱の強制と拒否」の問題をどう考えたらいいのでしょうか。
まず、強制以前に、国旗の掲揚と国歌の斉唱が日本にとってどういう意味があるのかという点ですが、すでにいろいろな記事を書いてきているので、こちらのリストを参照してください。
要点を整理すると、こんな感じになります。政府がなぜ愛国心という概念を、わざわざ反対を押し切って社会に持ち込みたがっているかというと、「自分のためより、国のために○○する」人間を増やしたいからです。「○○」に入る言葉はいろいろありますが、もっとも強力なのが「国のためになら死んでもいい」ということでしょう。国のために何かすることはかっこいいことなんだ、特別なことなんだ、名誉なことなんだという概念を持つ国民が増えれば、政府は国民を動かしやすくなり、極端な場合、国家が戦争をしようとしたときに、国のために戦い、死んでもいいという人が登場してくれるようになります。
世界中の多くの国がこのしくみを持っているので、このしくみ自体が倫理的に非難の対象になるかどうかは、なかなか難しいところですが、日本に関して言えば、明治国家がこの仕組みを強力に作り上げたために、昭和前期の15年戦争で多くの国民が犠牲になりました。そのしくみの中心になったのが公教育で、学校で「教育勅語」「軍人勅諭」が徹底的に教えられ、「国のため、日の丸のために死ぬ」ことが名誉として教えられたことが、戦争の被害をさいあくのものにしたのだというりかいがされています。ちなみに、「国のために真だ」人を、本当に「名誉ある死だった」と保証する(虚像としてみせる)しくみが、靖国神社でした。
この反省と、戦争の歴史へのアレルギーゆえに、日本では「愛国心」と「学校」は、極力遠ざけるべし、という認識があり、その延長に、今回の「国歌斉唱の強制と拒否」の問題があります。
さて、あなたなら、どうしますか? 教員にとって学校は、日常生活を支えるための職場のひとつに過ぎません。要するに、会社と同じです。あなたの会社が、「4月の入社式と、職場で退職者があるときに、国旗を掲げ、国歌を斉唱しなさい、歌わなければ、特別研修を受けた上に、降格です」と言われたら? さらに、「この会社を辞めても、同業他社も同じ事情ですよ、ですから、今までのキャリアを活かすことも難しいですね」と言われたら?
国旗・国家に対する忠誠だとか、愛国心とか戦争とか、そういう問題でなくても、君が代は別に好きでもキライでもなくても、「なんで会社に強制されなくちゃいけないの?」と思うのは間違いないでしょう。思想やイデオロギー的には中立でも、強制されること自体に反発する気持ちもあるでしょうし、そういう「上からのお達し」に易々とのって「これからは国歌を歌うのが会社のためになるんだ!」とか、調子のいいだけのやつらが急に威張り出すかもしれません。そういう姿を見るのも、あまり気持ちがいいものではありません。
しかも、公務員は政治活動が禁止されているので、たとえば都知事選挙があって、石原都知事が負ければ、状況がよくなるだろうと思っても、別の知事候補を表立って応援することもできません(個人として投票することができるだけです)。今、東京都の教育現場で行われていることは、こういうことです。
この、国旗掲揚と国歌斉唱の問題は今のところ、東京都だけの問題に留まっているようです。教育基本法を改正した安倍内閣はあっさり崩壊したし、福田政権はほとんどの法案を国会で通すことができない状況なので、こんな右よりの政策を打ち出すことなど、夢のまた夢です。それ故に、東京都の教員が置かれている状況について関心を持つ人はほとんどいないのが現状で、僕もここしばらく忘れていました。しかし、東京都に関する限り、現状はまったく変っていないことに改めて思い至り、こうして書いてみることにしました。
僕自身の考えと言えば、もちろん、こういうことすべてに反対であることは、読者の皆さんはご存知の通りですが、あなた自身はどう考えるのか、またあなたの答えの根拠はなんなのか、春のこの時期に考えておくことも大切だと思います。
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次の話題は、奈良のキャラクター問題です。このキャラなんですが、ご存知でしょうか?
日本の首都がかつて奈良にあり、その名は平城京というのはもちろん皆さん知っていると思います。遷都の年は? ナントきれいな、ということで、710年ですね。今年は2008年。ということは、あと2年で、遷都1300年を迎えるのです。
そんなわけで今、奈良では平城京の大規模な復元事業が推進されています。
京都から近鉄線に乗って奈良に向かうと、奈良駅のつく少し手前に、真新しい、巨大な門があるのが見えます。平城京の南正門、朱雀門(すざくもん)が復元されているのです。このあと、平城宮(大極殿)の復元が行われるようですが、予算が不透明で、どこまで実現されるのか不明という記事もあるようです。
ともあれ、平城京1300年事業は進行中ですが、この事業のキャラクターとして慣らしがつくったのが、上の、シカあたまのキャラです。このキャラが、「仏教を揶揄している、ふさわしくない」と、仏教界から批判が出ました。この点については、以下の記事を参照してください。
▼asahi.comより
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「仏様を侮辱」 僧侶有志が遷都キャラクターの再考要請
2008年03月27日23時31分
賛否を呼んでいる平城遷都1300年祭(2010年)のマスコットキャラクターについて、地元奈良の僧侶有志が27日、「仏様の頭に鹿の角を生やし、侮辱している」として、再考を求める意見書を県などでつくる同祭の事業協会に提出した。
意見書を出したのは、奈良市と周辺の寺院の僧侶20人でつくる親睦(しんぼく)団体「南都二六会(なんとにろくかい)」(会長=橋本純信・十輪院住職)の有志。橋本会長は「眉間(みけん)の白毫(びゃくごう)(白い巻き毛)や長い耳は仏様の特徴そのもの。仏様をちゃかしているようで、違和感、嫌悪感がある。これが印刷されたポスターや案内物は境内には置けない。県外の仏教団体にも私たちの主張を広めていきたい」と話した。
事業協会は「内部で検討する」と応じたものの、「キャラクターは仏ではなく架空の童子。今のところ再考の意思はない」と、従来の姿勢を崩さない構えだ。
キャラクターは彫刻家の籔内佐斗司・東京芸術大教授の作品で、2月に発表された後、インターネットやマスコミで話題になり、愛称募集には全国から1万4000件超の応募があった。愛称は4月中旬に決まる。
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さて、あなたはどう思いますか? 関西在住の方は、この問題についてもう少し詳しい事情をご存知なら、おしえてください。
まあ、たかだかアイコンとなるキャラクターの問題なので、そう目くじら立てなくてもと思う人がほとんどだと思いますが、賛成、反対、どちらかの立場で、自分の意見を説明するとしたら、どう考えればいいでしょうか。クリシン的なイシューですね。
上記の仏教界の意見ですが、何となくピントが外れている気がします。仏教のルーツは古代インドで、ヒンドゥー教のカテゴリーのひとつなので、日本の仏教にはヒンドゥー教由来の神々がたくさん混じっています。仏像の周囲の守護神として四隅に並んでいるのは、持国天、増長天、広目天、多聞天ですが、ほかにも帝釈天や毘沙門天、弁天など、たくさんの神々が仏教の文脈で登場します。帝釈天はインドでは「インドラ神」で、雷神であり、象に乗って登場します。弁天様こと弁財天は、インドではサラスバティーという女神で、インドの女神像はみな胸も腰も色っぽくて、ドキドキしちゃうほどです。さらに極めつけは、若干マイナーな存在ではありますが、歓喜天という神様もいて、このひとはインドではガネーシャという呼ばれています。見ればびっくり、顔は丸ごと像で、長い鼻です。ちなみに像はインドでは聖なる動物ですから、神々が象に乗ったり象の顔をしていることは、違和感がないのです。
今回の奈良のキャラクターはどうでしょうか?
歓喜天ことガネーシャが象の鼻なら、奈良のキャラに角ぐらい生えていてもいいし、鹿は東大寺の信仰では仏の使いです。奈良市内には鹿がたくさんいますが、あの鹿さんはれっきとした野生の鹿で、信仰上、保護されてきたのです。神聖な動物である鹿の角が生えているのは、ガネーシャの鼻と同じ考えですから、仏教やそのルーツであるヒンドゥー教の考え方とも一致します。さらに言えば、仏教には、かなりえぐいキャラが多いのです。千手観音などは手がやたらにはえていて気持ち悪いし、極めつけは十一面観音かもしれません。あたまに顔がさらにたくさん乗っているなんて、相当ヤバイですよね。仏像のうち、いちばん立派な姿は、大仏のように座っている姿ではなくて、寝ている姿だと考えられています。日本のような大乗系の仏教では多くないのですが、タイなどの小乗系仏教では寝ている仏像は珍しくなく、これは仏陀が死んだ姿、つまり心安らかに極楽浄土に言った姿を現しています。すごいでしょ。阿修羅像なんていうのも、かなりすごいです。見たくないほどおっかない顔をしてにらみつけているのですから。仏像というのは、もともとかなりキモカワイイ世界なのです。
そういう仏像をたくさん持っている仏教界の人たちが、何を考えて「仏教を侮辱している」というのか、僕にはどうもよくわかりません。こんなことを言っているようだから、仏教は「念仏仏教」と呼ばれ、人が死んだときに金ばかり取って、現実的な心の平安にはなんの役にも立たないと言われてしまうのではないかと思ったりしますが、まあそれはそれとして、キャラを批判するにしても、上記の記事あるような批判はまったく当たらないのは明かです。キャラを制作した芸大の先生は、おそらく、仏教の仏像やそのルーツの意味をよく理解して、このキャラを描いたのだと僕は思います。
さて、こうした情報を読んだ上で、改めて奈良のキャラについて、あなたはどう思いますか?
ということで、今週は2つのお題について考えてみました。
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