(by paco)349流動化する世界 その(3)

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(by paco)今週は、ロシアとほかの地域について書いてみます。

ロシアは中国と並んで、ユーラシア大陸の「陸の国家」です。これに対して、イギリスや現在のアメリカは、海軍力で世界の支配権を握ろうとする「海の国家」で、このふたつの軸が現代史を読み解くときの基本的な視点になります。

ロシアはヨーロッパ文化に属する国で、ヨーロッパ大陸の東の端というポジションを確保してきました。これに対して西のはじに当たるイギリスは、中央にフランスとドイツという欧州の大国を挟んで、牽制し合う関係にあり、現代史の主役としてのイギリスの行動は、欧州の東端にあるロシアとの関係で読み解く必要があります。

イギリスは、18世紀に産業革命を成し遂げて、アジアに進出し、インドと中国を植民地化することで、海側からユーラシア大陸の覇権を確保しました。これに対して、遅れて近代化したロシアは、ユーラシアの北側を東に進出して、シベリアを確保し、北側から南下を図りました。北から南への「出口」として狙ったのが、インドの西のアフガニスタン、中国北部の満州です。世界地図を見るとわかるのですが、ユーラシア大陸の海側には、東から、中国、インド、と続いて、その西側にはイランを含めてオスマン朝トルコがイスラム世界に君臨していました。ロシアの南下政策は、この3つの大国のすきまを狙ったものです。インド洋や太平洋への出口の確保を狙ったことから、「不凍港」を求める政策という解釈もされています。ロシアはユーラシア北辺の国で、冬はほとんどの港が凍結し、動けなくなるので、出口を探していたのですね。

イギリスは、このふたつの「ロシアの進出の出口」を塞ぐことで海洋覇権を確保してきました。今から200年前の19世紀初頭(この、19世紀初頭から現在までの200年の歴史は、今の時代を考えるためにはとても重要で、まさに現在と直接つながっている時代です)には、イギリスはインドからアフガニスタンに進出して、アフガンを支配下に収めることで、ロシアの進出を阻もうとしました。これが「アフガニスタン戦争」で、第一次(1838-42)と第二次(1878-81)の2回に渡ってイギリスがアフガニスタンに侵攻して、アフガンを保護国化することで、ロシアの進出を阻みました。

このアフガニスタンを巡るイギリスとロシアの関係には、もうひとつ、アフガン人自身の「独立戦争」という色彩も帯びて、ややこしくなりました。イギリスはいったんはアフガンを支配下に収めますが、アフガン人自身の独立への意思に阻まれて、イギリスの支配はインドほどはうまくいかず、イギリスの国力はアフガンに関与することで大きく弱体化したのです。

イギリスとロシアの覇権争いは、アフガン人のしぶとい気質と絡まって、現代史をややこしくしています。

ちょっと話は飛びますが、その後100年後、ソビエト政府がアフガニスタンに侵攻して傀儡政権をつくりました。しかしやはりアフガン人の抵抗にあって10年で撤退を余儀なくされました。これがソビエトを弱体化させ、冷戦の終結(米国の冷戦の勝利)につながったわけですが、今度は2001年に9.11テロののちに米国がアフガニスタンに侵攻したのは記憶に新しいところ。なぜ米国がアフガニスタンに侵攻したのか、という背景には、ロシアがアフガン経由で石油のパイプラインをつくろうとしたのだという指摘がされてきているのですが、この指摘は日本ではほとんど顧みられておらず、9.11の犯人をタリバンがかくまっているからという米国政府の公式発表を鵜呑みにしています。しかし、ここ200年のアフガニスタンを巡る、イギリスとロシアの覇権(出口)争いを見れば、9.11後のアフガン侵攻がタリバンだのアルカイダだのといった存在は「早く」であることが理解できます。200年続く、因縁の対決の最新バージョンのひとつなのです。

この、9.11後のアフガニスタンでの戦争は今も継続中です。ここでもアフガン人自身(タリバン)がしぶとく抵抗し、1980年代にはロシアがアフガンで苦しめられたのと同じように、今度は米国がアフガンの泥沼に足を取られているという状況になってきました。ソ連がアフガンに関与して崩壊したように、今度は米国がアフガンで崩壊しつつある。その現れが、今のドル暴落と米国経済の失速だという見方もできるのです。もちろん、米国の崩壊の背後にはサブプライム問題に代表される、米国経済内部の問題があるからですが、ソ連の崩壊も、国内の矛盾がベースにありました。国内の矛盾がアフガン侵攻をきっかけに、外に噴出するように崩壊していく、という歴史の流れを見ることができます。

実は、1980年代のアフガン戦争から始まったソ連の崩壊(1990)と、今おきつつある米国の崩壊。このふたつとまったく同じことが、それ以前にアフガンに関わったイギリスにも起きていました。イギリスはアフガン戦争以後、国力を衰退させて覇権を維持できなくなってきました。これが、19世紀の終わりのころの話です。その衰退に乗じて、ドイツが中東に進出しようとしたことをきっかけに、第一次大戦が起こり、イギリスは敗北寸前に追い込まれる。そこで、米国を誘って、というより、あの手この手で参戦に導き、米国にイギリスの覇権をプレゼントすることを条件に、米国を参戦させてなんとか勝利することができました。しかしこの大戦でイギリスは、完全に疲弊してしまい、その後は米国が覇権を肩代わりすることになります。

ちなみに、米国はもともとは世界の覇権(支配)に関心がある国ではありませんでした。米国は、その支配を南北アメリカ大陸だと考えていて、ヨーロッパやアジアの争いに巻き込まれないことが米国繁栄の戦略ととらえてたのです。これを「モンロー主義」と呼び、欧州との相互不干渉を宣言したのが19世紀初頭です。

このモンロー主義を盾に、米国はイギリスからの「一緒に戦争をやってくれ」という誘いを断り続けてきたのですが、イギリスは巧みに米国政界に入り込み、この方針を転換させることに成功して、米国を「世界支配に関心のある国」に転換させました。こうして、20世紀は、イギリスが米国を動かし、米国がイギリスの代理になって世界を支配する体制ができあがったのです。ちなみに米国は、今はイギリスと仲良しですが、19世紀初頭の米国はイギリスとは縁を切りたい国でした。もともとイギリスの植民地だったわけですが、独立戦争を戦って(1776)、ようやくイギリスと縁を切ったところで、うんざりだったのです。でも、結局100年後の19世紀後半にイギリスにじょじょにつけ込まれ、モンロー主義は「孤立主義」と呼ばれてワルモノにされて、狡猾なイギリスの「手下(という言い方が悪ければ、後見人)」にされて、覇権を担当することになりました。覇権を担当するのは、金も手間もかかります(儲かりますが)。米国建国の精神は、世界覇権は求めていなかったわけですが、結局、イギリスの言うままになりました。

こうしてみてくると、19世紀はイギリスが世界、特にユーラシアの覇権を海側から確立した時代と見ることができ、その支配権を20世紀初頭に米国に移転して、20世紀は米国がイギリスに代わって(イギリスが裏で手を回して)ユーラシア大陸を海側から確保しようとした100年、というのがわかると思います。

海洋国家イギリスが、大陸国家のロシアの進出を阻もうとしてアフガンで戦い、ロシアは阻まれたものの、イギリスは衰退(19世紀のアフガニスタン戦争)。ロシアに代わったソ連がアフガニスタンに侵攻して確保したものの、抵抗にあって失敗し、衰退して崩壊。そして2001年以降、米国がアフガニスタンに侵攻して、今崩壊しつつある。

この流れを押さえておくと、今の時代に起きていることがわかりやすくなります。

この続きの話に行く前に、脇役についても話しておきましょう。日本です。日本もこの世界史の対立構図の中に組み込まれ、その中でうまく立ち回って成功してきました。19世紀半ばになると、鎖国の江戸幕府(政府)に対して、開国を求める使者が各国から届きます。ロシア、フランス、イギリス、米国。やはり大きなプレイヤーは南下政策のロシアと、それを阻もうとするイギリス・米国連合で、日本は結局、米英傘下に入って明治国家を作りました。こうしてみてくると、19世紀後半に日本が日清戦争、日露戦争を戦ってロシアの南下を食い止めたという歴史が、米英連合の脇役エピソードのひとこまだったことがわかります。日清・日露の両戦争は、中国の満州に進出して海への出口(旅順港)を確保しようとしたロシアを、北へ押し返した戦争でした。そしてその戦争勝利の大きな要件になったのが、日英同盟とそれによってもたらされた、ロシア・バルチック艦隊が世界を1周して日本近海にやってくる、その移動情報だったことも、完全につながっています。

日本は、この頃までは米英連合の、よき脇役だったのですが、その後、調子に乗ってちょっとやり過ぎてしまいました。満州に傀儡政権をつくって全面支配し、さらに中国全土を支配する勢いだったのは、米英連合にとっては想定外で、これは「ちょっと出過ぎたまねじゃんか」とイチャモンをつけられ、戦争に追い込まれたのが、第二次世界大戦。その敗戦で、日本は完全に米国の傘下に組み込まれて、現在に至っています。

脇役のエピソードから、ストーリーの中心に話を戻しましょう。

イギリスは、米国につけいって、米国をうまく動かせる体制をつくりました。イギリスが仕掛けた、米国を操る意図のひとつがイスラエルです。イスラエルもまた、米国に強力なロビイストを送り込み、米国の軍事力を中東に派遣させて、中東の大国を次々とつぶさせることで、イスラエルは異教徒(イスラム)に囲まれた地で、なんとか60年、生きながらえてきました。イスラエルの建国は第二次大戦後の1948年。その後、中東で力をつけてきたイランをつぶすために米国に働きかけた結果、起きたことが、イラン・イラク戦争(1980-88)でした。米国はイランをつぶすために、イラクを利用したのです。イラクのフセイン政権に軍事支援し、東隣のイランと戦争をさせて、イランを弱体化させました。戦争が終わってみると、イランと戦ったイラクの軍事力が強くなっていたので、これをつぶすために、フセインを騙してクェートに侵攻させ、それを口実にイラクに宣戦して、イラクの主力部隊を破壊したのが湾岸戦争です。それでもしぶとく生き残ったフセインをつぶそうと、9.11をおこし(テロを知っていながら放置し)、それを口実にイランに侵攻した結果、泥沼にはまったのです。

この流れを、田中宇は「米国がわざと自己崩壊している」と分析しています。米国はイギリスとイスラエルに牛耳られて、世界中どこにでもいって戦争し、ロシアや中国、インド、イランなど、ユーラシアの大国を押さえ込んで海洋帝国の覇権を維持させられてきました。しかしその結果、米国内は対立が深まり、産業は流出し、今や国家の根幹はぼろぼろの状態です。米国の建国の精神を引き継ぐ勢力は、イギリスの支配から逃れて、アメリカ大陸の中で優位性を保てばよく、世界におせっかいをする(覇権を握る)のは、荷が重いわりに得るものが少ないということを知っているのです。米国はイギリスやイスラエルに言われるままにアフガニスタンやイラクに侵攻したものの、わざと泥沼にはまり、イギリスやイスラエルを泥沼に沈めてしまおうと考えているというのです。

その証拠に、イスラエルは米国の弱体化を受けて断末魔の状態で、やむを得ず宿敵イランを攻撃するかも、という状況です。イスラエルは、西は地中海ですが、北、東、南をイランの支援を受けたイスラム教シーア派勢力に囲まれ、このまま行くと三方から一斉攻撃を受ける可能性があります。頼みの米国は、すでに戦線を広げる余裕はなく、イスラエルは地中海に追い落とされる可能性があります。

その背景にあるのが、イギリス=米国連合の覇権の終結であり、それと並行して、「陸の帝国」であるロシア、中国、インド、イランが覇権を獲得しつつあるという現状です。この4か国に加えて、中南米での反米勢力が集まって、米国の覇権の衰退に乗じて、支配権を確立しようとする動きが出ています。これを田中宇は「非米同盟」と呼んでいます。大きな流れで言えば、この4か国を軸にした世界の再編が進行しつつあると見るべきでしょう。

この流れは、中国とロシア、インド、イランを勢いづかせていますが、まだ米英を完全に地域から追い出すほどの力があるかどうかは、今後を見ていく必要があります。そして、中国の西端、チベットで、自治と独立をめざす運動が盛んになってきているという事実は、海洋帝国の覇権と陸の帝国の覇権がゆるみ、空白になったタイミングでチベットを回復しようという、当然の行動と言えます。

米英の派遣が縮小して、ユーラシアが中国やロシアの支配下に落ちたとしても、米英のように巧みに支配できるかどうかは、疑問があります。しかし覇権が交代するタイミングはチベットの宗教的指導者、ダライ・ラマがずっと待っていたタイミングのはずです。チベット自治区が荒れ模様になっているのも当然です。米英の派遣が縮小しても、ロシアや中国、イランがユーラシアの支配権を握る力があるかどうかはわかりませんが、この方向に進むことにはなるでしょう。

こうして大きな支配の地殻変動が起きていく中で、さて、日本はどうやって生き抜くことになるのでしょうか。米英の傘下で生きるという戦略のままでは、続かない可能性が高く、ではそれに代わってどんなやり方があるのか、真剣に模索しなければならないタイミングになっているようです。

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