(by paco)341死刑制度について、ちゃんと考える

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(by paco)今週は、「死刑制度」について考えます。世界の世論の流れとしては、死刑は廃止すべしという圧力が強くなっていて、特にEUでは死刑制度の廃止が加盟の実質的な条件になっています。この流れの延長で、2007年12月には死刑制度存続国に対して、死刑の執行停止を求める決議が国連総会で議決されました。

こうした流れの中で、日本は現在も死刑制度が存在し、一時「判決は出ても執行停止」状態だったにもかかわらず、現在の福田内閣の法務大臣鳩山邦夫は、就任以来すでに6人の処刑に署名していて、執行されています。

僕たち日本人は、死刑制度とどのように向き合っていけばいいのでしょうか。

社会の世論が死刑制度撤廃に消極的な理由は、基本的には「自分や身の回りの人は死刑になることはない」という点にあり、また自分も死刑の現場に立ち会ったり、死刑の決定にかかわることもないと思っているので、他人事だというのがひとつ。もうひとつは、厳罰を科して、「死刑が怖いから犯罪を犯さない」状態になれば、自分も安全だと考えるからでしょう。おそらく、あなたの感覚もそんな感じではないでしょうか。

このような状況を変える制度が、来年5月から始まります。裁判員制度です。

裁判員制度は、米国の陪審員制度にならって日本でも実施されることになったもので、殺人事件や虐待、悪質交通犯罪など、重罪に相当する裁判で、裁判官とともに、一般市民から選ばれた数名が裁判に参画し、有罪無罪の判定に加わるというものです。裁判員は抽選で選ばれ、拒否できず、任期中、使命を受けた裁判にかかわります。当日仕事があっても(基本的には)拒否することはできない制度です。抽選によって選ばれ、死刑犯罪の裁判に列席し、被告が有罪か無罪か、自ら判断し、その結果によっては自分の判断によって被告が死刑に処せられることになります。犯罪と刑罰について、直接的に向き合わなければならない機会が増え、自分は無罪と考えたのに、死刑になる被告も出てくるでしょう。


このような時代を迎えて、改めて死刑について考えることは、重要なことだと思っています。

さて、人間は文明をつくってからと言うもの、ほとんどの社会に死刑が存在し、死刑と長く付き合ってきました。世界最古の成文法である「ハンムラビ法典」にも、「殺したものは殺される」というような懲罰刑が規定されていているし、今、死刑制度廃止に動いている欧州に至っては、日本の比ではないほど残虐な死刑が、それこそ何百年にもわたって行われてきました。火あぶり、釜ゆでなどましなほう、両手両足を別な馬にひも付けして八つ裂きにしたり、生きたまま内蔵を引き出す、生きたまま城の壁に塗り込んでしまう、生きたまま血抜きなど、残虐な死刑に関して欧州の右に出る国といえば中国ぐらいでしょうか。中国で有名なのは、村上春樹の「ねじ巻き鳥クロニクル」にも登場する「生きたまま生皮を剥いで殺す」死刑でしょうか。

さて、そのような過去はいったん水に流して、これからの時代、死刑廃止がなぜ求められているのか、そして死刑存続説の根拠は何かといった点について、検討してみましょう。歴史の長い死刑制度だけに、いろいろなイシューが含まれているのですが、現在の議論の中から主だったものをピックアップしてみます。

まず、問われているのは、冤罪の問題です。捜査や裁判をどのように厳格に行っても、冤罪、つまりぬれぎぬによって死刑になる可能性をゼロにすることはできません。事実、日本でも冤罪を訴えている死刑囚は多く、しかしいったん確定した死刑が取り消される例はほとんどありません。冤罪を訴えるような被告に死刑判決が確定するには長い年月がかかることが普通で、確定後に冤罪を訴え続けても、新たに証拠や証人が出てくる可能性は低く、冤罪の可能性が高くても、再審が始まるほどの新しい証拠が集まりません。そのまま執行されてしまえば、真実は冤罪であっても、取り返しが付きません。死刑の代わりに終身刑などで天寿まで生きていれば、少なくとも冤罪を晴らせる可能性があります。冤罪のリスクをどう考え、その結果をどう受け止めるかで、死刑存廃の意見が変ります。

2点目は、残虐性と秘密主義の問題です。かつては死刑にもいろいろな「殺し方」があったという話は上にも書きました。「目には目を」のハンムラビ法典的な考え方に従えば、放火犯は火刑に、というように、積みに応じたさまざまな「殺し方」を適用することになりますが、すでにそういった考え方は終わりを告げ、今、死刑が存続している国でも絞首刑や銃殺、薬剤注射、電気ショックなど、いくつかの方法に限定されています。ちなみに日本では絞首刑(首つり)です。死刑囚といえども処刑の直前までは元気に生きている人間で、死に至るまでには相応の時間と苦しみがあります。絞首刑でも死に至るまでの10分以上の時間は地獄の苦しみを味わうわけで、この「苦しみを味あわせる」ことも刑罰の一環といえるのか?という点が問題になります。一方、薬物などを使えば、静かに眠るように殺すこともできるのかもしれませんが、それは見た目だけで、つまり、神経に作用する薬剤で体の筋肉をまったく動かなくしてから心臓を止める薬剤を注射すれば、外見は静かですが、動けないだけで、本人は非常に苦しむかもしれません。銃殺やギロチンは短時間の苦しみで済みそうですが、本人にとってはどうなのかわかりません。また遺体が傷つくので、死刑囚の遺族にとってはほかの処刑方法より苦痛が増します。つまり人を刑罰として殺す現場というのは、いずれにせよ残酷なものです。

もちろん、残忍な犯罪を犯した死刑囚ですから、被害者はもっと苦しみながら死んだ可能性もあり、その程度は当然という言い方もできます。それを「当然」と考えるか、「残忍な事件の上にさらに残忍さを引き起こす」死刑という刑罰が、人間の社会のあり方としていいのかという問題を感じます。残忍なやつだから、残忍に殺してもいいう発想をしはじめると、結局上記の「目には目を」「放火犯は火刑に」というようにならざるを得ず、たとえばオウム真理教の麻原彰晃などは、どのような方法をもってしてもふさわしい処刑の方法はない、という矛盾を抱えてしまいます。

この「処刑方法」の残忍さについては、付随するふたつの問題があり、ひとつは「処刑する刑務官に与える影響」と「残忍さを隠すべく、秘密主義になる」という問題です。現在日本では、処刑室とは別室にボタンを押す部屋があり、処刑室が見えないようになっていて、3人の刑務官が同時にボタンを押す形になっています。3人のうちだれのスイッチが死刑囚の下の板をはずすスイッチになっているかはわからないのですが、誰かのスイッチによって死刑囚の下の板が下がり、死刑囚は一気に1メートル程度落下して首つり状態になって死に至ります。僕はどのようなことがあっても刑務官にはならないと思うので、この仕事をする人の心理はわからないのですが、PTSDになりそうな仕事です。社会の公正さを実現するためとはいえ、ある刑務官個人にとっては、非常な苦痛になると思います。さらに、こういった死刑の現場の情報はいま日本ではほとんど非公開で、死刑室の写真さえ、なかなか表に出てきません。かつて、死刑の現場は、キリストの磔(はりつけ)に見られるように、見せしめ的に行われてきたために、今は逆に非公開によって残虐性を排除しようとしているのでしょうが、それが返って残虐性を市民に感じさせない効果を上げて、「死刑は決まり事だから粛々と行うべし」というような、とってもバーチャルな(現実味のない)理解しかされない現状を生んでいます。いかに犯罪者とはいえ、死の現場は苦痛と苦しみに満ち、本人以外にも多くのわるい影響を与えます。それを社会がどう受け止めるか、今は問題さえ表に出てこない状況です。

3点目は、被害者の気持ちです。被害者や遺族の心理面では「自分の家族がひどい目にあったのだから、被害者は同等かそれ以上の目にあわせてやりたい」と思うのは当然ですが、すでに文明国家ではこういう復習的な刑罰は否定されていて、かつては認められることもあった「仇討ち」さえ認められません。法治国家では、残された家族が復讐を遂げることはいずれにせよできないわけで、その点では死刑があろうとなかろうと、代わりはありません。妻を殺された夫が「犯人を殺してやりたい」というのは自由ですが、実際に殺してしまえば、夫が死刑になりかねません。被害者家族の気持ちを十分にはらす方法は、法治国家では現実的に「ない」のであって、家族の思いは加害者が受ける刑罰より「常に軽い」のが普通です。こういう前提に立つと、「死刑」があれば被害者家族の心が満たされるというのもちょっと無理があり、被害者家族の気持ちは刑罰以外の方法で満たす必要があります。犯罪被害者の家族はしばしば被害者救済の市民活動を行いますが、これも自分自身を納得させるための方法なのだと思います。

4点目は、償いと反省の問題。死刑は「重罪であり、死刑以外に償いの方法がない」という理由で選択されますが、死んでしまえばそれ以上「反省」しようがありません。死んでしまうのと、犯した罪の大きさを心の底から実感し、反省し、被害者に謝罪する機会をつくるには、生かしておく必要があるという考え方もあります。もちろん、死刑にならないなら、チョロいもんだと犯罪を軽視したり、いくら反省を促しても反省する心理状態にならないという人物もいるでしょうが、だからといって殺しても反省の機会がないことには代わりはありません。死刑にすれば、償えるのか? むしろ決して刑務所から出られない一生を送ることの方が厳しいのではないのか? 死刑は廃止、終身刑を創設、という主張は、このあたりを前提にしています。

5点目は、犯罪抑止の観点。刑罰が軽いと犯罪を犯そうとする者の抑止にならないという意見は常にあります。しかし、多くの社会学的な研究は、刑罰の軽重と犯罪の抑止は、特に殺人などの重罪については、相関関係がないという結論が出ることが多いようです。自動車運転の過失予防や、経営者による犯罪(インサイダー取引や偽装など)には、刑罰の重さが抑止になる場面もありますが、殺人などの犯罪は衝動的か、あるいは、死刑を覚悟しても犯行を犯したい強い恨みがあるなど、犯罪と罰を天秤にかけていないか、かけてもやることがほとんどで、死刑があってもなくても犯罪件数は変わらないという調査もあります。重罪を課せば刑罰が減るというような単純なものではないようです。

ということで、死刑についての大きなトレンドと、賛成反対の争点をピックアップしてみました。読めばわかるように、僕は死刑廃止賛成ですが、あなたの意見はどうでしょう? いま日本では「死刑を国民が望んでいる」というロジックで(アンケート結果などで)、死刑制度が存続し、死刑が実施されています。それが僕たちひとりひとりの本当の意見なのか、もう一度あなたの意見を考えてみませんか?


▼参考
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3人に死刑執行、2カ月で再び 法相、異例のペース
2008年02月02日00時32分 asahi.com

 前回の死刑執行から2カ月足らずで、1日、3人に対する死刑が執行された。これで鳩山法相の就任後計6人。就任当初に死刑執行のあり方で「自動化」を提言した法相は、発言を続けるだけでなく、かつてないペースでの執行に突き進んでいる。

 前任の長勢法相の下での執行は11カ月足らずの任期中、約4カ月ごとに3回。鳩山法相はこれを上回るペースとなった。市民団体の「死刑廃止フォーラム」が統計を取っている81年以降、執行の間隔は少なくとも3カ月以上あいており、2カ月間に2回以上の執行は例がないという。

 相次ぐ執行に踏み切った鳩山法相は1日午前11時から臨時の記者会見を開き、「間隔を考えるより、できるかぎり刑事訴訟法の要請に近づけたほうがいいでしょう」と述べた。現在、7年以上かかっている判決の確定から執行までの期間について、法律の規定どおりに「6カ月以内」に近づける考えを強調した。

 昨年12月の前回執行時には初めて、執行された死刑囚の氏名や、犯罪事実などを発表した。「死刑制度への国民の支持を得られる」という狙い。1日の会見でも「あの事件の犯人が凶悪さゆえに処刑されたんだなということを、国民に理解して頂くのは非常に重要」と述べた。

 一方、超党派の国会議員でつくる「死刑廃止議員連盟」事務局長の保坂展人衆院議員は「氏名や確定判決を読み上げる一方で、執行時の状況は隠す。都合のよい情報だけの『公開』を口実に、法務省は大量執行時代にかじを切った」と指摘する。

 鳩山法相は1日の参院予算委で「日本では、命を奪うような行為に対しては厳しく対処すべきだというのが、現在の世論だと思う」と言った。

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