(by paco)今年、2008年は、パレスチナ難民が発生してから60年に当たります。今日は、パレスチナ問題について考えます。
パレスチナと聞いて、場所がどこか、なんのことか、そもそもわからないという人のほうが多いかもしれません。それが日本の僕らの生活とどう関係するのか、ますますわからないかもしれません。一度整理しておきたいと思います。
パレスチナとは、中東の地中海沿岸で、西を地中海、東をメソポタミア、北をトルコ、南をアラビア半島に囲まれた地域です。中心地は、エルサレム。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が聖地を置いていてる古い町です。聖書を読んだことがある人なら、「パリサイ人」という表現が出てくるのを読んだことがあると思いますが、パリサイとは、パレスチナのことです。そんなわけで、パレスチナには聖書に出てくるたくさんの地名が今もあり、街として機能していて、イエスの生まれたナザレもそのひとつです。
パレスチナとは、今も昔も国の名前ではなく、地域名です。住民は、主にアラブ(アラビア)人ですが、アラブ人自体が日本人のような、1国を持っている民族ではありません。サウジアラビア、UAE、イラク、シリア、ヨルダン、エジプト、さらに北アフリカ、地中海沿岸を西に、モロッコまで、アラブ人は住んでいて、アラビア語を話し、でも国はそれぞれ分かれています。そのアラブ人が、パレスチナという地域にもたくさん住んでいて、その地域に住んでいる人々、特にアラブの血統を持っている人をパレスチナ人と呼んでいるというのが今の呼び名です。
パレスチナは、1922年までは、オスマン朝トルコ帝国の一部でした。ちなみにオスマントルコの性質は1299年ですから、日本では鎌倉時代の後期です。そのころから、パレスチナはトルコ帝国の一部として栄え、イスラム教徒であるアラブ人、ユダヤ教徒であるユダヤ人、そして古代ローマ(ビザンチン帝国)以来のキリスト教徒を中心に構成されていました。
1922年、日本では大正時代、第一次大戦後に、オスマン朝が滅亡すると、この地域の覇権を握った大英帝国が中東地域を分割統治しますが、この頃まではパレスチナ人という明確な区分はなく、支配者がオスマン朝から大英帝国に代わっただけで、地域の住民である、イスラム教徒(アラブ人)、ユダヤ人、キリスト教徒は、それまで通り、特に敵対することもなく交わりながらそれぞれの生活を送っていたと言います。
しかし、大英帝国が支配者になるにつれて、この地域は対立が深まります。もともと大英帝国は、地域内の民族や宗教の違いをあおって地域住民を対立させて弱体化させ、支配権を広げるというのが特の手法で、インドや中国でこれをやってきました。
ちなみに、日本でも、明治維新の前、英国はフランスと組んでこれをやって、薩長を英国が後押しし、フランスが幕府を後押しして対立させ、日本を分裂させて弱体化、支配をもくろんだわけですが、賢明な日本人は、対立しつつも裏で手を結び、幕府を無欠で終結させて明治国家を誕生させ、旧体制のエリートを新政府に取り込んで、英国の謀略から逃れたのでした。
しかしパレスチナでは、アラブ人に対して独立国家を作ってやると約束し、一方、ユダヤ人に対しても同じように約束したり、アラブ人同士も、無理に直線的な国境線を引いて将来の独立を約束したりしたために、もともとひとつの民族、ひとつの宗教だったユダヤ人も、次第に分裂していきました。今は、イラク、ヨルダン、サウジアラビア、エジプトなど、多くの国に分かれていますが、もともとはひとつの民族、ひとつの国家としてのアイデンティティを持っていた人々なのです。だから、イラクあたりの国教は妙に人工的な直線なのです。
このような、対立を利用する支配体制が行き着いた先が、1948年でした。
第二次大戦が1945年に終わってみると、ドイツでは大量のユダヤ人が迫害されていたために、英国、フランス、米国の戦勝国は、ユダヤ人に対する欧州人としての負い目もあり、ユダヤ人による独立国家を作ると約束しました。場所として候補地になったのがパレスチナ。もともと欧州から中東、北米にも広くあちこちに暮らしていたユダヤ人ですから、独立するなら欧州や北米という選択もあったはずですが、やはり聖地エルサレムのあるパレスチナがいちばんいいと考えたわけです。これは、欧州や米国人にとっては、かわいそうではあるけれど、やっかいなユダヤ人を、欧州地域から中東に追い返す、という意味もありました。欧州のユダヤ人がパレスチナに戻る、という運動を、シオニズムといいます。エルサレムの聖地、シオンの丘をシンボルにした表現です。パレスチナにユダヤ人国家を作るというのが、シオニズムの考えでした。
一方、ユダヤ人の中には、シオニズムが、欧州人による形を変えた追放運動であると理解していた人々もいて、ユダヤ人は欧州や米国、ロシアで、地域の人々と混じって暮らすべきだと考えていた、反シオニストもいます。しかし、反シオニストも、ユダヤ人国家の建設そのものに反対するほどの理由はなく、ユダヤ人国家建設は、民族の悲願になっていきました。
ちなみに、ユダヤ人とは、民族であり、ユダヤ教徒の名前ですが、いわゆる人種、民族系は複雑です。民族国家を長い間持たなかったために、それぞれの地域と混血し、顔つきも体系もさまざま。イギリスやフランス人に近い顔つきの人もいれば、ロシア系の人もいれば、アラブ系の人もいます。しかし、本来のユダヤ人はどういう人種かと言えば、アラブ系だったと考えられます。肌が浅黒く、彫りが深く、男はひげを蓄え、という今のアラブ人のイメージがユダヤ人だったのでしょう。現在、ユダヤ人とは何かという定義としてイスラエル政府が出している見解は、「ユダヤ教徒」もしくは「母親がユダヤ人」となっていて、母親がユダヤ人なら、本人がユダヤ教徒という明確な自覚を持っていなくても、ほかの宗教の洗礼を受けていなければユダヤ人ということのようです。ユダヤ人は母系家系であることは覚えておいていいですね。
シオニズム運動が頂点に達したのが1948年。イギリスはついにパレスチナにユダヤ人国家を作ることを認め、米国、フランス、ソ連なども追認して、国連の場でユダヤ人国家建設が議決されました。日本はまだ、敗戦後の米国の支配下にあり、この決定には参加できていません。
この議決を経て、大量のユダヤ人が欧州や北米、ロシアからパレスチナの地に移動しはじめ、独立を宣言するわけですが、そこはもともとアラブ系のイスラム教徒が住んでいて、ユダヤ人は第二の勢力だったとはいえ、人の父に大量のユダヤ人が入り込んできた状況になりました。当然、アラブ人との間で衝突が発生し、ついには戦争に発展します。これが第一中東戦争で、米国に支援されたユダヤ人が勝って、ユダヤ人の国、イスラエルの建国が宣言されるわけです。
この建国の前後、パレスチナにいたアラブ系の人々が戦火を逃れるために難民化したというのが公式な見解になっています。しかし、本当のことは長く封印されてきました。今も。それでも少しずつ、実際に起こったことが明らかになってきています。
パレスチナ人(パレスチナに住んでいたアラブ人でイスラム教徒)は戦火を逃れるために自ら難民となったわけではなく、イスラエル国民となったユダヤ人によって強制的に追い出されて、難民化したのです。
日本で言えば、朝鮮半島の人々が、大挙して北九州当たりにやってきて、「日本には今も在日韓国人・朝鮮人がたくさんいるし、古代の歴史をひもとけば、日本にも渡来人として朝鮮人がたくさん来ていて、だから日本の文明は進んだのだ、ここは朝鮮人の土地だ」と宣言して国をつくったようなもの、といえばわかるでしょうか。戦争になり、結果的に中国地方や四国に難民化してテント暮らしを始めた……。
イスラエル人がアラブ人を追い出しにかかったのは、ユダヤ人純血の国家を作りたかったというより、「イスラエル人が数で勝っている」国をつくろうとしたというのが意図のようです。今もイスラエルにはアラブ人がたくさん住んでいて、二等国民のような状態ですが、当時はいくら欧州からユダヤ人がやってきても、アラブ人のほうが多く、そのままではイスラエル国家がアラブ人中心になってしまうという状態でした。そこで、アラブ人を追い出す必要があったのです。ちなみに、イスラエルは当初から共和国で、民主主義を採用していたので、選挙をやってアラブ人が議会の主流になっては意味がないのです。
そのために、イスラエルでは1948年3月に「D計画」がつくられ、イスラエル正規軍によって村々からパレスチナ人を追放し、村を破壊して埋める計画が実行されたのです。ある日軍がやってきて村人に立ち去るように命令し、期限が来ても立ち去らなければ容赦なく攻撃する、逃げまどう市民を殺害し、大型ブルトーザーで家を破壊して、地雷といっと一緒に埋め尽くし、あとから戻って来た元の住民が掘り起こせないようにしたと言います。
こうして住みかを追われた住民が隣国のレバノンやヨルダンに移動して、難民化しました。さらに、移動した難民がすきを突いて帰還することを妨げるために「いそう委員会」をつくり、妨害したと言います。
こうして70万人とも75万人とも言われる難民が発生し、今も難民キャンプで暮らしているのが、パレスチナ難民なのです。
こうしてパレスチナ人を追い出してつくった「人の住まない不毛の地」に、移動してきたユダヤ人を入植させ、新たにユダヤ人の村をつくらせました。その一例が「キブツ」と呼ばれた、原始共産制に近い自給自足の村で、小さな村落単位で完結する共同体という形態に憧れた、ヒッピーなどが、1960?70年代にキブツを訪れて生活し、国家による支配ではなく、市民による小さな共同体がいい、というようなことを主張したりしたのですが、キブツの多くは軍によるパレスチナ人追放の跡地につくられた、血塗られた土地につくられていたのです。もちろんそのような事実はイスラエル国家は徹底的に隠していたので、キブツを訪れた日本人ヒッピーもまったく気がつかずに、夢だけを描いたのでした。
こうして大量に発生したパレスチナ難民は、今も隣国のレバノン、ヨルダン、そしてイスラエルの隣接地域である、「ヨルダン川西岸地区」と「ガザ地区」に押し込められて、非常に困難な生活を送っています。
パレスチナで政治運動をするグループを、日本ではすぐに「過激派」と言いますが、このような歴史を持っている今のパレスチナ人に、過激というレッテルを貼ることは、いかに無謀かわかると思います。
イスラエルは、非常に豊かな国になり、日本でもイスラエルの製品や農産物を扱う企業がたくさんあります。ビジネスは基本的に国境はないし、このような歴史を持つイスラエルの製品だからといって、拒否するべきではありません。しかし、もしメイド・イン・イスラエルにかかわるなら、こういった歴史にも少しは目を向けてもらいたいと思っています。
さて、これからイスラエルとパレスチナはどうなっていくのでしょうか。もちろん僕にはわかりません。でも、日本人に無関係とは言えません。日本は中東地域、サウジアラビアやイラクの石油で今の豊かさを享受しています。中東の政情と、日本の繁栄は切り離して考えることはできません。こういう観点から考えると、日本人の多くが中東に関心を持っていないことが不思議でなりません。もちろん、同時に、石油資源の枯渇問題、CO2発生に伴う温暖化問題という観点でも、中東地域は重要です。
解決策は考えられなくても、関心を持ち続けることは、とても大切なことです、という結論になってしまいますが、こういう「結論のないイシュー」についても、コミトンで取り上げていきたいと思います。
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