(by paco)ロジカルシンキングでは、イシューという概念が最も重要だと考えられています、というより、もしかしたら僕がそういう教え方をしているというだけかもしれませんが、どのようなイシューをたてるか、その能力が思考の能力を決めると言っても過言ではありません。
イシューとは、コミトンを読んでいただいている方には改めて説明する必要もないと思いますが、「今考えたいこと」「いま議論したいこと」ということで、考えるテーマのことです。同時に、ロジカルシンキングでは、イシューを「主語・述語のある疑問文」という形で、細部までしっかり特定することで、考えるべき内容をクリアにすることから始めます。考える内容をあらかじめ決めておくことで、考えるべき内容を明確にしようという方法論をとる分けです。
イシューは、考えるための入口であると同時に、立てた問いに答えを出すことが思考の目的になり、思考の結果である結論を規定することも意味しています。
たとえば、「新製品Aの開発を進めるべきか?」という問いと、「新製品Aは売れるのか?」という問いは、違う内容を考えるイシューです。前者「新製品Aの開発を進めるべきか?」は、これから開発を予定しているAは開発に着手していいのかという問いであって、まだ開発に手をつけていないことを意味しています。これに対して後者「新製品Aは売れるのか?」は、開発するかしないかというと問いは別に、「もし市場に投入されたら、売れるのか?」という問いです。つまり売れるか売れないかを考えたいのであって、開発するかどうかはとりあえず無関係です。もう少し具体的な場面を想定するなら、新製品Aは、すでに開発が終了していて「これから発売されたら売れるのか」を考えたい場合と、「もし売れるという判断ができるなら、開発に着手しよう」と考えている場合もあるでしょう。
このふたつの問い
「新製品Aの開発を進めるべきか?」
「新製品Aは売れるのか?」
は、一見似たような問いに見えるのですが、内容は大きく異なるのです。それと同時に、両者がどのように違うのか、そしていま自分はどちらを考えたいのかを明確に言語化することが、「イシューを特定する」であり、それこそが「思考のもっとも最初のステップであり、最も重要なプロセス」なのです。よい考えを作り上げたり、よいメッセージを伝えるためには、イシューをたてる能力を鍛え、イシューのちょっとした違いに気づく力が何より必要です。
しかし、肝心なこのイシューについての能力が、いちばん必要なのが、ジャーナリストでしょう。世の中のいろいろな問題について、どのようなイシューをたてて、現実を切り出し、取材して、それをメッセージとしてメディアに載せなければなりません。このような視点でもっとも役割を期待されているのが、新聞記者だと思います。
ジャーナリストにもいろいろなポジショニングがあります。影響力の大きさではテレビの報道担当者はもっとも大きな力を持っているものの、テレビは映像に頼ったメディアであり、深掘りの必要があまりないこと、テレビメディア自体が大衆化・娯楽化しているために、ジャーナリズムはあまり大きな期待がされていないことを考えると、テレビのジャーナリズムには速報性と映像性以外には、あまり大きな期待ができません。その点、新聞は、紙面すべてが基本的に、娯楽というより報道で構成されていること、国内と世界の主要な場所に自社の貴社を置いて、日々情報収集に当たらせているという組織力からいっても、もっとも影響力があるジャーナリズムは新聞といっていいと思います。
ほかに、フリージャーナリストという職業があり、雑誌と契約したり、単行本を書いたりして、記事を社会に提供しているものの、玉石混淆でさまざまなレベルのジャーナリストがいること、信頼感や継続的な報道という点で存在感を持っている人がごく限られること(メディアにレギュラーを持たないフリージャーナリストの名前を何人あげることができますか?)を考えると、やはり影響力は限定的で、新聞にはかなわないと言えます。
新聞記者という名のジャーナリストがいないと、市民は社会で何が起こっているか知ることができません。自分の目で見て話を聞いてわかる範囲のことしかわからず、社会的な事柄を判断するときに、判断の材料がなく、適切な判断ができないのです。民主主義を機能させるためには、適切なジャーナリズムは不可欠であり、ジャーナリズムが機能しないと市民は、政府なり企業なりが一方的に出す情報を盲目的に受け入れて判断するしかなくなってしまいます。
たとえば、ちょっと離れた工場がひどいばい煙を出していて、うちの子どもがぜんそくになっていても、自分1人では周辺にどのぐらいぜんそくの子どもがいるのかもわからなければ、工場から数キロ離れればぜんそくの子どもがぐっと減るといったことを知ることはなかなかできません。工場が原因だと思って工場に乗り込んでも、「うちの工場の煙は安全です」と言われれば、それ以上反論ができないでしょう。政府が産業界を保護する立場をとれば、市民は泣き寝入りするしかなくなります。
ジャーナリストがこれに注目して、周辺をヒアリングして回って、一定範囲にぜんそくの子どもが多いことを突き止め、新聞や雑誌に書けば、工場のばい煙が周辺に特別大きな健康影響を与えていることがわかり、個人が行動を起こすときの助けになります。
ジャーナリズムは、社会の中で力を持った存在である、企業は政府、大きな団体などの行動をチェックし、市民サイドから見て問題がないかどうかを明らかにする役割があり、市民はそれを投票などの場面で参考にすることで、社会に不公平をなくすことができる。これが民主主義の基本的なメカニズムです。
民主的な憲法が必ず表現と報道の自由を保障しているのも、ジャーナリズムが社会のカウンターパートの役割を果たさなければ、民主主義が機能しないからです。国や自治体が街の中に図書館を作るのも、市民には社会の様々なことを知る権利があり、その権利を行使するときに貧富の差があってはならないということが、民主主義の根幹になっているからなのです。図書館は、本が高いからみんなで回し読みするための施設ではありません。市民が社会のことを知ることが民主主義が機能するために絶対的に必要だから、民主国家はその権利を保障する必要がある、からなのです。
市民の「知る権利」を守るのが、「知らせる権利」を行使する人たち、つまりジャーナリストであって、ジャーナリストが社会のさまざまことを知らせる行為について、権力が制限することは、よほどのことがない限りできず、無条件に保障されなければならない権利でだという点がとても重要です。
民主社会が健全に機能するためには、ジャーナリズムが健全に機能する必要があり、ジャーナリズムの性能は、最初に説明したとおり、問題を発見し、きりとり、表現するときのもっともベーシックな能力である、イシューを設定する能力に還元されます。
突き詰めてしまえば、民主主義が機能するためには、新聞記者のイシュー設定力が最も重要だということになります。ちなみに新聞記者の能力には、ほかに、取材力、取材した内容を吟味して整理する論理的な思考力、そして文章や写真で適切に表現する能力が必要ですが、取材力の大半は質問によって決まります。質問とは、結局イシューですから、イシューの力がジャーナリズムの質、そして民主主義の質を決定づけると言ってもいいほど重要だと言うことに、十分理解する必要があります。
さて、なかなか本題に行けませんが(^^;)、今年はA新聞社で、記者向けとデスク(記事出稿責任者)向けのロジカルシンキング研修を実施する機会を得ました。そこで、イシューを掘り下げる研修を実施したのですが、イシューを掘り下げる力の不足が浮き彫りになりました。
研修の中で、ある事件についての新聞記事を読んで、記事のイシューを考えてもらうのですが、そこまでは、さすがに記者なので、問題なくできるのです。そのあと、「本来どのようなイシューを考えるべきか、より本質的なイシューを考えてください」という課題を出すと、出てくるイシューがなかなか「本質的」にならないのです。「事件の詳細はどのようなものか」とか、「なぜ別の関係者Bは逮捕されないのか」といったイシューは出てくるのですが、「そもそもなぜこの件が立件されなければならないのか」「立件するほど重大なことだったのか」「この事件がジャーナリズムに与える影響にはどのようなものがあるのか」といった点にはなかなか目がいきません。
ちなみにこのときの課題は、草薙敦子が書いた「僕はパパを殺すことに決めた」という本に関して、奈良で家族を殺害した少年の精神鑑定書を、鑑定医が漏洩したことについての事件で、鑑定医が逮捕・立件されたというものでした。いろいろな要素が含まれる話ではありますが、事実関係は比較的シンプルで、イシューもそれほどわかりにくくありません。ジャーナリストなら、この事件の持つ意味について、もっと考えていていいだろうと僕は考えているし、少なくとも、ジャーナリストと自称することもはばかられるような僕よりも深く考えていてほしいと思ったのですが、出てきたイシューはかなり表面的なものが多く、それも僕がいろいろとアジテーションして考えてもらったあとに出てきたものです。
A新聞社がこのレベルであれば、ほかのB新聞社、C新聞社のレベルも同等以下だろうと思われるだけに、日本のジャーナリズムの質に改めて疑問を監査せられる体験でした。
ちなみに、テレビの報道担当者に至っては、そもそもイシューを云々するレベルに達していないことだけははっきりしています。テレビ局にはそもそも「記者」と呼べる人がどれだけいるのかということもあるし、彼らの最も重要な目的は「よい映像」をとることで、それはセンセーショナルでわかりやすかったり、興味を引く映像であるほどよく、興味を引くものと本質的なものとは、実際のところなんの関係もないのですから、テレビにジャーナリズムとしての姿を期待すること自体無理なのです。
最近では、香川県坂出市で祖母と孫娘2人が殺害された事件について、テレビでは「ワイドショー」というカテゴリーの報道もどき番組で、父親を犯人扱いするような事件が起きていますが、これを見てもテレビがジャーナリズムとしてはまったく機能しないどころか、ジャーナリズムを破壊するような行為しかしていないことがよくわかります。
このような非ジャーナリズムがジャーナリズムであるかのように視聴されているような、今の日本の状況は、権力を持った政府や企業にとっては、非常に楽ちんな状況です。本質を突かれる心配がなく、見た目だけ興味を引く映像を提供しておけば、本質を隠すことができ、各誌ながら自分たちの都合のいいことだけを推進することができる。一方で、ものごとの本質をつかむ役割を果たす人々は、イシューを発見する能力が低く、本質を突くことができない。
これが今のジャーナリズムの状況です。
2007年末という今の日本は、比較的平和で、大きな事件も少なく、僕が書くような重たいテーマは存在していないかのようですが、現実に目を向けると重たい話しはちゃんと存在していて、日常生活にひたひたと迫っています。
たとえば……原油価格の高騰。なぜ上がっているのか、今後どうなるのか、何がもたらされるのか。特に米国の石油支配が終わりつつあるという現実について報道がほとんどないことが木になります。原油は上がっているのではなく、ドルが下がって、円がドルに無条件に連動しているので、原油が上がっているように見える可能性が高い。円は、どこまでドルにおつきあいすればいいのか、そんなイシューをもって報道するメディアはありません。
食糧も同じです。特に小麦が上がっていますが、それがなぜ起きるのか、今後どうなるのかなど、もっと報道されるべきです。
中国の環境問題も同じです。北京オリンピックが近づくにつれて、北京で激しい運動をすることがどれほど危険か、そして中国の環境悪化が日本にどれほどの影響を与えるか、指摘する声が少しずつ出ていますが、メジャーなメディアでは報道されることはありません。中国の金持ちがなぜ日本の高い米やリンゴを買うのか? 中国の農産物が怖くて食べたくないからだ、という話も少しずつ聞かれるようになりました。その中国産農産物がスーパーに並ぶ日本は、いったい何を食べることになっているのか?
イシューは、ロジカルシンキングのお勉強の対象ではありません。現実世界から、重要なことを切り出すための大事な道具なのです。
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