(by paco)今週は、権利と責任、管理の問題について考えます。pacoさん、ちょっと怒っています。
「ヤマガラの森」の買収を完了させるために、ちょうどいま測量をしています。土地の公式な図面である「公図」というのが登記されているのですが、公図と実際の土地が完全に一致しているという保証はありません。隣地や道との境界を決めて、登記通りの面積があることを確定する作業が必要で、土地を実際に測って図面通りに杭を打ち、その結果で測量図をつくります。もちろんその作業は、資格を持った測量士によって行われます。
測量にはトラブルがつきもので、登記上は100坪なのに、実際には90坪しかない、ということになると、問題になります。「ヤマガラの森」の場合、一方は細いながらも公道に面しているので、公道との境界線を確定した上で、そこを基準に山側に向かって公図通りの距離を測量して杭打ちをすればいいのですが、この方法だと、「ヤマガラの森」が登記通りの面積を確保した結果、その奥の土地が狭くなってしまう可能性もあります。そうなると、地境の争いになってやっかいです。
このようなトラブルを防ぐために、測量の結果を杭打ちする前に、隣地の地主に来てもらって、ここの位置でいいか確認してもらう作業が必須です。今回も、「ヤマガラの森」の隣接地の地主さん数名に頼み、来てもらうことにしました(測量会社がやってくれます)。
先週、ちょうど六兼屋にいるときに、測量会社の人が地主さんを連れて確認にやってきました。70代と思われる老夫婦です。確認が終えてからうちに来て少し話したのですが、その時に、「測量立ち会いの謝礼がほしい」というのですね。あまりの不意打ちに絶句したのですが、一応、いくらぐらいなの?と聞くと、測量士は「習慣で、1万円ぐらい出していることが多い、通常は仲介した不動産会社が出す」というのです。あ?習慣なのね。確認に来た「地主のおばあさん」は、さも、ものを知らないという顔をして、測量士に「いろいろおしえてやって」というのですね。
僕の方は測量に関することは測量会社に一任しているので、費用トータルで見て考えるといい、払うかどうかは濁しておきました。
で、この件はどうしても腑に落ちなかったのでいろいろ考えたのですが、あなたならどうしますか? 田舎ではこういうわけのわからないことがけっこう多いのです。
彼らの立場から見れば、隣の土地が売買されるからと言って、いちいち来なければならないというのめんどうです。メリットもありません。だから手間賃がほしい。それはそれでわからなくはありません。ではなぜ立ち会いが必要なのかと言えば、もし立ち会いをしないで土地の境界線が不適切になれば、隣地の地主は自分の土地の面積が小さくなってしまう可能性があります。不利益を被るのは隣地の地主であって、こちらは適当にやってもいいわけです。
つまり、隣地の地主が測量に立ち会うのは、自分の財産である土地が隣の人に侵害されないために、財産を守るためにしているのであって、僕ら、隣の土地の人に頼まれたから来ているわけではないのです。
土地という財産をもっていれば、その財産を維持するためのコストが発生します。固定資産税もそうだし、その土地にあるものが他の人に迷惑をかけていないか、管理する義務もあります。財産を持つ権利は誰にでもありますが、財産をもっている以上、それに伴う義務、そして財産を守るためにやらなければならないこともあるのです。それがいやなら、財産をもたなければいい。隣地を所有しているのがめんどうなら、うちのNPOでいつでも寄付としていただきます。
こうして考えてくると、このじいさんとばあさん(口が汚くなってるなあ>自分)の言い分が不当であることがわかってくるのですが、それはそれとして、これって、つまり、すごく甘やかされているということでしょう。自分が、財産をもっている責任としてやらなければならないことに対して、誰かから金をもらわないとやらない、といっていることになるのですから、税金を払うときに、誰かが金をくれない払わない、と言っているようなものです。
おそらく、このじいさんとばあさんは、自分が「財産」をもっているという自覚がなく、「もたされている」と思っているのだろうと思います。親が残したからもっているだけで、持っていたからといってめんどうがあるだけだ。先祖に申し訳ないからもっている。だけど、もっていることの義務を果たさないと先祖に申し開きが立たないというほど、先祖のことなんか思っていないのです。
その一方で、こうした地主の年寄りたちは、ちょっと金を持っていそうだと思うと、すぐに「土地を買ってくれ」と言ってくる。「値段は?」と聞くと、話にならないような額を言ってくるのですね。売れそうかと思うと自分のもっている土地が財産であるという自覚が出てくる。
こういう大人たちが田舎ではよく見かけるのですが、見ていてすぐに思い出すのが、「いまの若いやつは、権利ばかり主張して義務を果たさない」「責任もとれないくせに」というグチや文句です。こういう台詞は、僕自身が10?20代だったときにもさんざん聞かされていてそのたびにうんざりしていたのですが、でも自分が「若いもん」のうちは明確な反論ができませんでした。でもいまなら反論ができます。「責任をとっていないやつ」「権利ばかり主張して義務を果たさないやつ」は、若い者より、大人、年寄りのほうだ、と。
人に金を出させようと権利めいたものを主張する前に、あなた方は土地の所有者として、財産を持つ者として、責任を果たしなさい。山を荒れ放題にするのではなく、持っているのなら、少しは手を入れて、本来の姿に保ちなさい。それができないなら、われわれNPOに任せなさい、と。
書いていて、だんだん腹が立ってきました。ふう。
「美しい国」といい、教育基本法に「国を愛する心」を書き加えさせた前首相は、もっとも美しくないみっともない形で職務を放り出し、責任感のカケラもないことを目の前に出して見せました。もともと安倍前首相の主張は、まったく納得できていなかったのですが、もし彼がいう「美しい国」「国を愛する心」について、「そういう気持ちをもつべきなのは、じいさんばあさんたちであって、おとな世代ほど、公共心を持つべきだ」といい、教育になんか関与しなければ、もっと支持できたかもしれません。しっかりしろと言いたいのは、若者に対してではなく、大人たちに対してです。
ちなみに安倍首相辞任の理由は健康問題だと擁護する向きもありますが、もしそうだとしても、入院して辞任するなら、そのまえに最低限、首相代行を指名すべきでしょう。あの空白の2?3週間に、大きな事件や天災がなかったからよかったものの、もしテロや地震、大きな台風の被害などがあったら、どうするのでしょう? そういう公共心も責任もない人物が、教育基本法に「国を愛する心」を書き加えさせたかというと、ますます腹が立ってきます。しっかりしろ>大人。
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ちょっと気を沈めつつ、最近、おかしいと思うことの話をもうひとつ。
あるメーリングリストで、会社の中で個人情報管理を目的とした、さまざまな管理が行われているという話が盛り上がっていました。
とある金融機関では、社内は携帯電話はいっさい持ち込めず入室前に預けるとか、別の会社では持ち込みを許可する携帯はカメラにシールを貼って、はがせないようにするとか。社内にあるパソコンはすべてインターネットにつながらないとか、抜き打ちの荷物検査があるとか。
「そんなこと、うちではもう前からあたりまえだよ」という人もいそうですが、あなたの職場はどうですか?
なんか、校則の厳しい高校みたいな感じですよね。大人を相手にしているとは思えない。社員をまったく信用していないのです。信用されない社員も悲しいですが、信用しない会社ももっと情けない。
そうはいっても、情報漏洩や機密漏洩は防げないじゃないかということは、確かにあります。実際、情報漏洩のほとんどは内部の人間が意図的に、または意図しない雑な管理で漏れています。管理をしっかりしなければという発想そのものは、必要です。だからといって、どんな方法をとってもいいのか、ということが問題です。
社内の業務中は個人の携帯はいらないだろうという意見もあります。しかしそうでしょうか? もし、勤務中に大地震が起きて避難しなければならなくなったら、社員全員が携帯保管箱に殺到してとんでもないことになりそうです。子どもが事件に巻き込まれて、父や母にSOSの連絡をしても、通じません。
そういう緊急時だけではありません。そもそもそこまで管理されてしまう社員というのは、自分が自分の意思と責任で「やってはいけないこと」を「やらないようにする」という習慣や考えそのものを持つ必要がなくなります。自分はどの場面で何をして良くて、何をしてはいけないのか。それを自分で判断し、その判断に従って行動することができるのが大人であり、善悪の判断が出来るかどうかは、逆に言うと、犯罪を罪に問えるかどうかの重要な判断基準になります。未成年が、大人違う裁判や司法処分を受けるのは、子どもは善悪の判断が十分にできないと見なされるからです。ある種の精神病の人が罪を免じられるのも、責任能力なし、つまり善悪を判断する力がなかったとされるからです。逆に、兵士が何人殺しても殺人罪に問われないのは、敵を殺すか殺さないかを判断する権利が兵士にはなく、上官の命令によるからです。
会社の中で、携帯電話をどう使うのか。その判断が出来ない社員だから、会社がすべて預かる。そういう行為を社会全体が容認するなら、大人であっても、善悪の判断が出来ずにどんな行動に出るかわからないと判断していることになります。その結果、情報漏洩は防げるかもしれない。でも、それと引き替えに、「あなたは善悪の判断をしなくてもいいのだ」というメッセージを大人に対して発信しているとしたら、そういうメッセージを受け続けた大人は、「自分は善悪の判断が出来ない」という理由で、何をしても罪に問えなくなるかもしれません。人の行為を罪に問えるのは、その行為をするかしないかの判断が、その個人にゆだねられていると考えるからです。犯罪を犯すこともできるし、犯さないこともできるのに、犯罪に当たる行為をした。だから、その判断は間違っていたのだから、罪に問う、ことができるのです。たかが携帯電話ですが、携帯電話の使い方さえ自己管理ができないなら、そしてそれが金融機関の社員のような、ちゃんと学問も学んで社会に出たエリートでさえそうなら、社会の中で善悪の判断が出来ると考えられるのは、いったい誰になるのでしょうか?
大人は、子どもたちがゲームばかりやっていると、現実と仮想の区別がつかなくなって、善悪の区別がつかなくなると言います。その大人は、自分で善悪の判断をしなくていい社会をつくり、積極的に適応しようとしています。それでいいのか? この問題は、あなた自身の問題として、きちんと考えてほしいことです。
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