(by paco)325人生のwhat?を見つける(5) pacoのwhat?

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(by paco)「人生のwhat?」のシリーズも今回でそろそろ終わりになりそうです。今回は僕自身のwhat?についてお話ししましょう。

今僕が意識的にもっているwhat?は、「環境問題の解決」と「ライフデザイン」です。

環境問題の解決というテーマがどのように出てきたかは、すでに今回の連載でも話したとおり、高校の時に初めて触れた「成長の限界」に代表されるような資源枯渇問題に気がついたことにあります。しかし、この点に注目するようになった背景には、当時大きな問題になり、教科書にも取り上げられていた公害問題です。

僕が育った1960?70年代は、高度成長のマイナス面が噴出した時代でもあり、水俣病やイタイイタイ病、四日市ぜんそくなどが深刻で、テレビでも被害のようすが盛んに報道されていました。社会の雰囲気も、安保闘争や左派によるテロが頻発していて、国や産業界がやっていることの問題があちこちに見え、それゆえに疑問出しや反対運動が現実的な力を持っていました。今のように、政府と産業界、そして市民が何となくひとつの向きに向いていた時代ではなく、政府や産業界などが提示する成長という求心力がある一方で、それに異を唱える考え方も多様で、今よりずっと説得力と存在感をもっていました。

たとえば軍事行動についての考え方も、今は自衛隊がどこに行って何をしようが、大人たちはふだんの話題にしたりしませんが、当時は自衛隊の存在そのものが「次の戦争」につながるのではないかという緊迫感がどこか漂っていた。その背景に、太平洋戦争の悲惨な体験をした人たちが社会の中心にしっかり存在していて、「もう二度とあんな戦争はごめんだ」というメッセージを発信し続けていたからです。

同じように、産業にしても、国や経営者たちが成長路線を推し進めるのに対して、その成長路線が再びアジアで侵略につながるのではないか、それ以前に、地方から人と富を奪い、都会的な産業が地方を侵略するのではないかという疑念が、今よりずっと力を持っていたと思います。公害問題は、こういう「国や産業界への疑問出し」の象徴として扱われていて、一部の人が富み、一部にしわ寄せがいって犠牲になるという図式が明確でした。

僕は多感な10代らしく、こういった「犠牲」には敏感で、犠牲を出してまでの成長に意味があるのか疑問を感じていたし、人や自然を犠牲にして成長ばかり求めることに違和感を感じていました(だって、1970年代、海も川も、どこでも本当にひどい汚染でした。多摩川の河口付近では毎日洗剤泡がわき上がり、周辺の住宅地に飛んでいました)。

そんなところにはぴたりとはまったのが「成長の限界」で、このままの成長が、資源総量の限界にぶち上がって続かなくなる、適切に管理する必要がある、という考え方でした。科学技術を原動力にした経済成長がいずれ限界にぶつかり、それは「環境問題」として地球全体を巻き込んでいくという概念は、僕にとってはとても大きなインパクトがありました。それまでは「政府・産業界 vs 犠牲になる市民」という図式でしかとらえられなかったのが、「いずれにせよ、どの分野の人も地球環境の限界という同じ壁にぶつかる」というように、パラダイムが切り替わったのです。

こういったことを考えていたのが、ちょうど高校の最後から大学生だったころで、その延長で、前回書いたような「科学哲学」を志したりするのですが、結局はそれとはまったく別な広告の道に進み、どっぷりと「バブルに浮かれる産業界」に浸かることになります。

僕にとっては、広告業界という正反対の場所に身を置くことの違和感はずっとあったのですが、そういう場に身を置かないと、相手を批判することもできないだろうということは感じていて、いっしょに好景気に浮かれつつも、「敵を知らないと戦えない」という戦略的転向、という意味合いはどこかで意識していたのだと思います。単純に、ずっと広告の世界で生きていくことはないだろうという思いはもっていました。あくまで、「つなぎ」だったのです。

結果的には、環境問題に再び軸足を移すのにはけっこう時間がかかったのですが、こういった経緯があったので、「正反対の場」に身を置くこと、そして環境問題にまた戻ってくることに迷いはありませんでした。

今、僕が考えている、環境問題のゴールは、「豊かさが上がってもCO2排出量は減っていくようなベクトルを社会にインストールする」ことだと考えています。あくまでベクトルなので、実際に大幅に削減できるところまで行けるかどうかは問いません。豊かさは享受しつつも、地球温暖化の問題にはある程度方向性が見えてきている状態を、僕が死ぬまでに実現したい。

1960年生まれですから、2040年で80歳、まあそのへんが僕が自分の目で見られるおおよその時間でしょう。あと30年ほどです。その間に、地球温暖化の問題に方向性を付けたい。

と思っていたら、時代はすでに先に進んでいて、世界中の政府の指導者が集まって、2050年までにCO2排出量を半減させる、というようなメッセージが出されるようにまでなりました。僕が生きている間に、実際にCO2排出が半減し、温暖化問題はある程度解決の方向に向かう可能性が出てきた。その点はちょっとびっくりすると同時に、やるべきことがいよいよたくさん出てきた、と喜んでいます。何しろ、「2050年までに半減」といってもそれを裏打ちする具体策はほとんど描かれていないのです。それを描き、実行する人材が必要ですから、一緒に行動してくれる人を集め、プランニングし、行動を起こしていかなければなりません。

ちょうど昨日、環境リレーションズ研究所でおこなっているAIRミーティングのリニュアルを発表しましたが、これもそのための方法のひとつです。僕にできることは今のところそれほどたいしたことではありませんが、最大限に大きくなるように一つ一つ考えて実行していくしかありません。

さて、ここからは、ライフデザインというwhat?について。

このテーマは、同じく1960?70年代にルーツがあります。この時代、高度成長期には、「モーレツサラリーマン」「社畜」といった言葉が生まれ、会社に滅私奉公することと引き替えに、自己の成長(らしきもの)と金銭的な(多少の)豊かさをえるというのが、多くの人の生き方になりました。

僕が社会に出る1980年代は、それが一段落しつつあるように見えて、すぐそのあとにバブルが起こるという流れの中で、会社に人生をゆだね、捧げるという生き方が限界に来つつあることを予感させつつも、それ以外の価値観が力を持ちそうで持てない、という時代でした。そんな中で僕が一番感じていたのは、「死んだ魚のような目で吊革につかまって会社に行く人にはなりたくない」ということでした。もし自分が将来そんな人間になっていたら、そんな人には会いたくないなあと20歳ごろの僕は思っていたのでした。という話は、僕一人で考えたわけではなく、親友と夜な夜な飲み明かしていたときに話していたことです。

僕は、20歳のころのそんな自分の思いを裏切らないように、したいと思ってきただけで、だからこそ、大学を卒業したときにも通勤のある就職はしたくないとか、結果的に会社に入ってからも、なるべく早く独立しようと思ってきました(3年半で会社を辞めました)。

でも、自分が「魚の目で通勤」でなくなっても、そういう人が世の中にたくさんいるようでは、なんだか気が滅入ります。そこで、みんなが「魚の目」でなくなるためにはどうなればいいのか、ということを考えるようになりました。

会社が悪い、なんとかすべきだというような考え方をとったこともあり、こういった切り口は、前述の公害問題をとらえるときの考え方と共通しています。しかし広告の仕事をして、多くの企業人と付き合ううちに、会社が悪いという側面はあるものの、個人の方もどこか「望んで」「社畜的な働き方」を受け入れているのだということを理解せざるをえず、これは僕にとっては衝撃でした。居心地がいいという側面があるのも少しは理解できました。でも、そこから抜け出したい、道があるなら別の生き方をしたいと思っている人もまた多いこともわかってきたのも事実です。

そこで、そういう方法について取材して書き、伝えるという仕事を好んで受けるようにしました。ワークスタイル、テレワーク、時間や場所からの開放、といったキーワードで記事をたくさん書き、識者に会い、早くからパソコンやネットワークを自ら使って、可能性を実感してきたのです。また契約社員やフリーターかといった、働き方の多様性が広がる動きに対しても積極的に発言して、もっと流動化の制度を作るべきだというメッセージを僕なりに発信してきたのです。

でも、こういった情報ツールや会社の制度は、しょせん人の「外側」にあるものです。外側がいくら整っても、働く人、一人一人の考えが「もっと自由に、自分にぴったりの仕事を、やりたいやり方でやる」という考え方にならないと、制度もITツールも使いこなすことなく終わってしまう。せっかく整ってきたツールや制度を、うまく利用して、「魚の目」から脱出する人が増えてほしい、というのが、僕が考えているライフデザインの根幹にあるコンセプトです。

働く人たちを「魚の目」などと呼ぶのは本当に失礼なことで、僕も電車に乗っていれば、魚に見えるのかもしれないなと思います。ですから、この表現は、あくまでひとつの象徴的な表現であり、若い頃に見えた大人たちの風景をそのまま言葉としてもっていると理解していただければと思います。いい仕事をしていても、疲れて魚の目になって吊革につかまっている人だって、たくさんいるのは、もちろんよくわかっています。

僕にとってライフデザインは、やはり高校から大学生のころに「これはおかしい」「こうあってほしい」ということを解決するための、自分なりの方法論です。そして同時に、それは、20歳前後の僕自身に対する、大人になった僕からの回答であるのだと思います。あの頃の、生意気な自分と再会したら、彼を納得させることができる生き方や行動を今とれているのだろうか、そんな思いがあります。

ということで、このふたつについては、たぶん、今後とも揺らぐことはないと思っていますが、もちろん、それを実現する方法は、常に変えていく必要があるし、理解が深まっていくでしょう。ただ、こういったwhat?を自覚的にもつようになって、自分自身の行動がすごく楽になったのは事実です。いろいろなことに自信が持てるようになり、判断基準がクリアになりました。

あなたはどうでしょうか。what?を見つける旅は、いつからはじめてもいいのだと思います。60代や70代で見つける人だって、います。ゆっくり、楽しみながら、これかな?あれかな?と探していくものだと思います。

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