(by paco)先週のAIRミーティングで「環境ホルモン」を扱いました。環境ホルモンは、1998年頃、急激に問題になり、メディアでも国会でも盛んに取り上げられました。しかしその後、急速に社会の関心は下がって、結局、うやむやになったような印象があります。では環境ホルモンの問題はどうなったのかというと、こちらにさわりの記事があるので参考にしてください。
要するに、研究自体はその後もどんどん進められていて、
- 環境ホルモン(内分泌かく乱物質)は存在し、一部の生物(貝や爬虫類や)にとっては、影響が証明されている。
- いちばん疑わしいといわれた36種類の物質を一定の条件下でラットで実験した結果、人間への影響があるとは認められなかった。
- 実験の条件を少し変える(濃度や暴露時期など)と、影響が出たりでなかったりすることがわかってきた。(2)の「影響なし」は、たまたま影響が出ない条件であった可能性もある。
- さらに疑わしい物質を複数与える実験を行うと、悪影響が出る場面もあった(複合投与)。
といったことがわかってきました。研究論文の数は、メディアの関心が落ちているのに反比例して増えていて、一般からは見えないものの、ホットな研究テーマであり、今後、どのような結論が出てくるか、予断を許さない状況です。
つまり、環境ホルモンについては、情報が少なくなっていることが、影響がないことを意味していないということであり、予防原則に従えば、やはり疑わしいものは遠ざけるのが正しい態度ということになりそうです。
すでに日本では、疑わしい環境ホルモン(内分泌かく乱が疑われる物質)を、ある程度排除すべく、メーカーの自主規制が行われていて、普通の生活の中ではあまり気をつけなくてもよい状況にはなっています。しかし、今後の研究成果によっては、この自主規制の範囲を超える悪影響がわかる可能性も高く、こういう事柄については、自分で情報のアンテナを広げて、あやしいという情報があれば、自主的に遠ざけるようにするのが賢明、ということです。
環境問題には、このように、「社会的な規制にはそぐわない(科学的に明確な根拠がない)」ものの、予防原則に従うと、手を打った方がいいことが多々あります。CO2削減もそのひとつで、温暖化の原因が人為的なCO2発生によるものかどうかは、現状、「もっとも可能性高い仮説」に対応した、予防策に過ぎません。今後の研究成果によっては、もっと別の手を打つ必要が出てくるかもしれないのです。
今の時代は、はっきりとは決められないけれど、行動をとるべき、という不安定なテーマが多くなっています。となると、個人としては、たとえば国が勧めているからとか、法律で決まったから、ということではなく、自分の判断で行動をとらなければならないと言うことを意味しています。自ら情報を収集し、判断し、行動をとれる人は、より安全な人生を送れるということです。
と、こういう状況をふまえて、今考えているのが、では、すべての市民が、このような様々なことについて情報収集し、判断し、行動をとるというような能力を持っているのだろうか?ということです。このように、情報を集め、それに従って合理的な判断をするためには、ある程度の生活の余裕と、情報収集する能力、判断する知性や胆力を併せ持つ必要があります。果たして「すべての市民」に、それが備わっているのでしょうか。
そんな疑問とはあまり関係なく読んだ本が、「超・格差社会 アメリカの真実」(小林由美)」です。
この本は、名作ですよ、とてもおもしろく、かつ鋭く、アメリカ社会の仕組みと、日本社会の現状への提言がちりばめられています。ぜひ読んでみてください。
その中で、格差が存在している大きな理由は、格差を受けている側、つまり負け組の側が自らそれを不当として、富の再配分を求めないことだと述べています。米国社会では資産の格差が固定化していて、一定以上の資産をもっている富裕層は、特に努力をしなくても一定の収入が得られ、少しの努力でかなりの収入になる。一方、貧困層はそういうしくみに気づきにくく、努力不足が貧困の原因だと考えがちだというわけです。
本来であれば、富をもっている側が持たざるものを思いやったり、問題だと感じて再配分の機会を用意するべきなのでしょうが、実際には米国では「Gated Community」、門があり、門番がいて、入場を制限している、平穏な地域に金持ちが集まっていて、一方貧困層は貧困層用の町に閉じこめられているために、金持ちが貧困層に一定以上の関心を持たないのだというわけです。
実のところ、関心を持たないのではなく、困っている人に食事や寝るところの支援するという程度の関心(善意)は多くの金持ちがもっているます。しかしどうやったら彼らが支援なしでも生きていけるかという関心は持っていない、と指摘しています。
その一方で、貧困層であっても、一定の機会は保証されていてい、スポーツなどの機会を通じてはい上がる可能性があるために、努力と才覚によって上昇することができる、アメリカンドリームが、これまでの階級型社会よりははっきりと存在している、そのことが貧困層の納得感を高めている(自分が貧困にいるということも納得できる)というしくみになっています。
こういうアメリカの格差社会と比べて、日本が今直面しつつある格差社会とは、質において異なると筆者はいいます。アメリカの格差の根源は資産の格差で、たとえば10億円の資産を持つ者は働かなくても平均的に年間3000万円相当の収入が得られるというタイプの格差です。一方日本では資産格差はアメリカほど大きくない。格差が生まれるのは教育と仕事を得る機会の問題なのだといいます。アメリカのような資産格差の社会では、格差をなくすに富裕層の資産を減らして、貧困層に移転する必要があります。しかし富裕層はカネによって政治を動かす力があり、自らの地位を自分で捨てるような行動を、政治にとらせるはずがなく、格差は固定化して広がる一方です。一方日本の場合は、教育の充実は、風霜の資産を減らす政策よりはずっと抵抗が少ないので、格差を解消する道があるというわけです。
ここで気になるのが、教育の機会を用意すれば、誰もが高い収入を得るだけの能力を身につけることができるのか、という点です。学校で学ぶ機会があっても、学ぶ内容について行けずに、十分に能力を高めることができなくなっている可能性があります。
今の時代は、アジア諸国などの低賃金の労働者を日本企業も利用しやすくなり、経営上の合理性から、少しでも人件費を下げるために、同じ能力なら海外の労働力を利用しようとします。ということは、日本の労働者が貧困から脱出するためには、アジアの労働者以上の能力を身につけて、海外の労働者以上の成果を上げなければならないことを意味しています。
しかしいくら教育を受けても海外の労働者より高い能力にまで、自分の能力を高められない人もいるはずです。日本人だからといって教育を与えさすれば、必ず一定上の知的能力になるとは、いえないからです。つまりいくら教育を受けても、一定上の水準に到達しない人が、必ずいるというわけです。
そんなメカニズムを思い浮かべながら、冒頭の環境ホルモンのことを考えていると、話が似ていることに気がつきました。環境問題に関して適切な行動をとるには、一定の知的水準が必要で、そこまで能力を持っていない人にとっては、複雑で多様な環境問題のメカニズムを理解し、誰か権威者にいわれるのではなく、自ら判断して「自主的に予防安全的に」遠ざけるという行動をとれるのは、必ずしもすべての人ではないだろうという意味でもあります。
もしこの考え方が正しければ、環境問題についても格差の問題についても、自ら解決に向けた行動をとれない人たちが一定数存在する、ということを意味しているからです。環境問題の解決策では、けっこう複雑な言説を理解し、そのうえで自らの判断で行動する能力がない人もいるだろういいました。一方、格差の問題も、教育の機会が十分あったとしても、それをいかして、途上国の労働者を超える能力を身につけられない人もいるでしょう。こういう人が、ごく限定的な数ならいいのですが、実際のところ、けっこう少なくない数の人々(たとえば、日本の人口の10%とか)がこういう状況になるぐらい、けっこう困難状況なのではないかという気がするのです。というより、そう考えて対策を立てる必要があるのではないか、ということです。
もしかしたら、こういう発想は、エリートが非エリートをバカにするような思考にきこえるかもしれないと心配ではあります。しかしそういう発想ではなく、むしろ、環境問題の理解力にしても、日本人労働者が十分な賃金を獲得するために求められる能力にしても、ひどく高すぎるレベルになってしまったように感じるのです。
日本の中の格差が、今後なかなか解消しないかもしれないと思うのと同じように、環境問題についてもあるべき行動がとれない人が、けっこうな数、固まりになって残ってしまうのではないか。そういう人たちに対して、どのようなアプローチをすべきなのか。これはとても重たい問題です。
かんたんに対策を立てるなら、格差の問題には、単純で継続的な経済支援を行うしかなく、環境問題については、自ら考えなくても、最低限の行動がとれるように、わかりやすいメッセージを出し、かつやらなければ罰則があるように知ればよい、ということになります。
僕自身は、できれば、こういう「ついて来れない人々」が存在しない方が望ましく、みなが自分の判断で行動し、それが環境にもよく、かつ努力によって収入も向上させていけると考えたいのですが、現実にある問題や状況は、オプティミズムを許さないように感じます。
コミトンでも書いているとおり、今横浜市で環境コンサルティングを行っているのですが、こういう場面でしばしば出てくるのが、どこまで「ルール造りで強制するか」という点です。僕自身は、可能な限り規制は作らず、参画の機会をつくって自主的に来るという民主的な方法のみにしたいのですが、これは楽観的に過ぎるのか、そうではないのか。
まだ結論が出ていない今日この頃です。
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