(by paco)Mr.Childrenの新譜「HOME」の中に、リーダーの桜井和寿自身がいちばん気に入っている曲という「彩り」という曲があります。「日々の退屈なルーティンワークが世界を幸せにしていく」と歌う歌詞の中にあるのが、こんなフレーズ。
今 社会とか世界のどこかで起きる大きな出来事を
取りあえげて 議論して
少し自分が高尚な人種になれた気がして
夜が明けて また小さな庶民
ミスチルの桜井和寿は、プロデューサーの小林武史と一緒にAPバンクを立ち上げたりして、環境などの社会的な問題にも積極的に発言し始めています。そんな彼自身の活動の広がりに反比例して、おそらく彼自身が「上からものを見る」ようになった自分自身への違和感や戒めを背景に、この曲を書いたというのは、同じアルバムについているインタビューDVDの中で、彼自身語っていることです。音楽の聴き手である「庶民」の視線から外れて、大所高所から偉そうにものを言う自分になりたくないというのは、ポップミュージシャンとしての彼の良心だろうし、その意味でこの曲は桜井にとって、意味のある曲だと思います。でも、一方で聴き手である「庶民」が受け取るべきメッセージとして、これが今いいメッセージなのか? 音楽の聴き手である僕は、そこが違和感でした。
世界や社会の出来事を議論することが「高尚な」ことなのか。そして一夜明けて「庶民」に戻る自分には「かけ離れた議論をしてしまった」という感覚を持つようなことなのか。
僕はグロービスのクラスや企業研修で、「世界のことに関心を持つ必要がある」「それは今の僕たちにとって義務だ」という話を必ずしています。庶民だから、「高尚な議論」はしなくてもいい、避けてもいいと言わんばかりの桜井のメッセージは、僕の視線とは明らかに異なります。庶民だからこそ、きちんと議論しなければならない。
さて、ゴールデンウィークも終わった月曜日ですが、なんで連休なんだっけ?と考えると、5月3日は憲法記念日。そして、今年は安倍政権が憲法改正をにらみつつ、改正が無理なら解釈を変更しようと狙っています。4月には国民投票法が衆議院を通過して、参議院に送られて審議中です。連休明けから、参議院での論戦が始まりますが、通過してしまいかねない情勢です。
現在の日本国憲法には改正の手続きが定められていて、そこに国民投票を行って改正するとあります。しかしこれまで国民投票をどのように行うか、過半数は何に対する過半数かなどを決めた法律がなく、実質的に憲法改正を行えないようになっていました。今回の国民投票法は、この手続きを定めて、改正を可能にするためのものです。
で、憲法改正はなぜ行うのかと言えば、やはり焦点は、戦争放棄と軍備を持たないことを定めた九条です。
このことは何を意味しているのかと言えば、政府が憲法九条改正をめざし、それについて国民が投票するということが、近い将来行われる可能性があり、僕たちはその判断をする立場になるわけです。戦争をするとかしないとか、軍備を持つとか、そういう「大所高所」のことについて、実際に投票行動に移す事態が迫っているわけで、こういう2007年春のタイミングに、桜井和寿が「夜が明けて 小さな庶民」といっていいのか、僕には違和感があります。この歌を聴き、「そうだよな、やっぱり毎日の自分の仕事や生活をきちんとすることが一番大事なんだよな」と思うとすれば、それは今、僕たちが置かれている状況に対して、あまりに無責任です。
さて、憲法改正について考える以前に、まずふたつのことを確認しておきたいと思います。
ひとつは、「政府や権力者の利害と、一般市民(庶民?)の利害はたいていの場合、一致しない」ということです。この点は、違和感を持つ人もいるかもしれません。たとえば、高度成長期には、所得の増加で生活が豊かになったのだから、政府の施策と市民の利害は一致していたのではないか、と考えることができます。確かにGDP的な豊かさをもたらしたことは事実としても、弊害もたくさん出ました。公害に苦しんだ人は数多く、今も公害病の裁判は続いています。国土からは美しい田園風景が消え、トキやコウノトリなど、多くの生き物が絶滅しました。食糧自給率は世界最低の部類で、生活の基盤は石油漬けで環境問題を解決する道筋もつけられていません。
「だから、政府のやり方を支持しなければよかったんだ」と過去の判断について批判することが僕の目的ではありません。政府の方針を盲信し、無批判に受け入れることは庶民にとってリスキーだし、一見よさそうな政策だとしても、政府の利害と市民の利害は一致しているとあっさり考えることは、とても危険なことなのです。
そもそも民主主義は、王権を制限することから始まりました。民主主義の原点は13世紀のイギリスにあります。マグナカルタとか国民議会とか、そんなことを歴史で習ったことを覚えているかもしれませんが、これらは、王が一方的に国民に税金をかける状況に不満を持った人々が、王の徴税権を制限するために、議会を設け、議会の支持なしに税金をかけることを禁じたのが始まりです。もっとも、この時代の「国民」とは、領主・貴族階級のことで、農民や零細商工業者は入っていませんでした。しかし、民主主義の原点が「権力の一方的な行使を制限する」ことにあることには代わりがなく、その後の民主主義の発展はすべて、政府の横暴をどうやって防ぐかに意を注いできた歴史です。
今は国民が投票によって為政者を選んでいるので、国民の意思は為政者に反映されていると考えがちですが、実際のところを見ると、それは良心的に過ぎる理解です。確かに為政者に選ばれる時点では国民の意見を聞く姿勢をもってはいますが、では、今の投票という制度でどれだけ自分の意思が為政者に伝わるのかと言えば、この点がまったく信頼が持てていないので、投票率が上がらないのでしょう。また、投票は「個人」や「政党」に対して行うものの、実際の政治の行動は個別の政策によって決まるわけで、「あの人は議員にふさわしい」と思っても、その人の打ち出す政策がすべて自分の考えに合っているとは言えません。ここの政策については、別の方法の方がいいと思っても、それを投票に反映させるのは難しいでしょう。だからこそ、投票に行く多くの人が「消去法」によって候補者を選んでいるのです。
改めて強調しますが、政府がいくら民主的に選ばれているとしても、それは政府が国民の意思に反して、あるいはあなたの願いとは違う行動をとることは、しばしば起こりうることです。常に気をつけていないと、予想外の結果が生まれてしまうのが、民主主義の特性だと思うべきです。
ふたつ目は「戦争は、何かを得ようという意図のために、多くの人が死んでもかまわないという、意思のもとに行われる」という点です。この点は、これまでコミトンでも何度か書いてきたので、こちらのページから、「民主国家に、戦争ができる理由」(1)?(10)をご覧ください。
改めて要約すると、戦争はしばしばおいしい果実をもたらしてきて、その果実を受け取る人たち(軍産複合体や大資本が中心)はその魅力を実現できる政府を、お金の力を借りて選ぶ」力がある、というメカニズムがあります。お金があれば、カネの力でメディアを牛耳って情報統制と偏った情報発信を行い、関心の薄い一般市民のマインドをコントロールして、本当な臨まない投票行動にの駆り立てることができる。「戦時だから大統領に支持を与えないと、戦地の兵がひどい目にあう」などのロジックで、結局2004年の米大統領選挙でブッシュが再選されたのは、いい例です。ヒトラーが政権を取れたのも、同じメカニズムが働いて、民主的な選挙で合法的に政権を取っています。
このふたつのメカニズムは、憲法改正のような「大所高所・天下国家」の事柄を考えるときに、どうしても外せない前提です。
さて、そのうえで、今なぜ憲法改正が政治スケジュールに上っているのでしょうか。ひとつの理由は、衆議院の与党300議席です。小泉前首相のマスコミコントロールによって、郵政解散の総選挙で国民は多くの議席を与えてしまいました。これだけの議席があれば、数の力で会見を提案・議決することができます。参議院はここまでの多数派になってはいないものの、やはり衆議院の議席は大きい。
しかし、これは「技術的に改正可能性が高まっている」という状況に過ぎず、動機は別のところにあります。改憲の理由の切り口(わく組)については、僕自身まだよく整理できていないのですが、よく言われるような「米国から押しつけられた憲法だから、自主的なものに変える」というのは、実は理由ではありません。なぜか?
これは簡単な話で、日本の第二次大戦後の政府は、対米従属を国是として生きてきていて、これはずっと一貫しています。日本国内の支持が薄くても、米国に支持される政権は長続きしてきたし、小泉政権はそのもっとも典型的な例です。小泉改革のすべての項目は、米国政府から毎年出される「年次改革要望書」に忠実に従っていて、それ故に小泉はブッシュから自ら所有する別荘に招待されるなど、特別待遇を受けてきました。その米国からの支持を背景に、国内の基盤は脆弱なのに、強力に、長期の改革を進めることができたのです。しかしその改革が本当に国民のためになっているのかどうかがはっきりするのは、これから10年ぐらい後にならないとわからないでしょう。
このことからもわかるとおり、もし米国から押しつけられた憲法がいやなら、自民党政権が対米従属という国是を選択するわけはないのです。もっとも、自民との支持基盤には、対米従属はやめて自主憲法を制定せよというグループもいるのですが、全体から見れば、対米従属は60年以上続いた日本の基本方針です。そしてそれは今も転換されていないわけで、だとすれば、「米国から押しつけられた憲法を改正する」というのは、本当の理由ではありません。
では、なぜ今改正なのか? 戦後もっとも対米従属度の高い小泉政権を、(実質的に小泉からの指名という形で)引き継いだ安倍政権は、同じように米国に従属する方針を持っていて、それ故に憲法を改正する必要の迫られていると見るべきなのです。つまり、改正を望んでいるのは米国の方で、米国の改憲圧力を受けて、安倍政権が国民投票法の制定や、改正が無理なら解釈を変えてしまおうとまでしているのです。だからこそ、そのひとつ前の段階として、やりやすいところで防衛庁の、防衛省への昇格が行われたのです。
では米国はなぜ、日本に憲法九条の改正を迫っているのか?
この点については、まだ正確な分析が揃っていない感が強いのですが、田中宇の分析を中心に理解すれば、「米国は、米国一国支配の覇権を自ら放棄して、世界を多極化しようとしている」ということになります。つまり、EUや東アジアなど、地域ごとに国際問題の担い手を育成して覇権を分散しようとしていて、そのためには日本が中国と協力してアジアの安定に中心的な役割を担わなければならない、というわけです。ソ連の崩壊によってせっかく、「唯一の超大国」になれたのに、なぜその覇権を自ら放棄してしまうのか? という理由はまだ十分解明されていないのですが、イギリスが米国に覇権をゆずったのが第一次大戦後で、そのあたりの歴史と対比させてみると、世界帝国になっては見たものの、世界帝国の経営にはコストがかかり、それを支えきれなくなったという「大きくなり過ぎた帝国の自然崩壊」と考えるのが妥当なのかもしれません。
この点については、田中宇より「親米的」なアナリストなどの解釈が出そろう必要があるのですが、今のところ、日高義樹はじめとする米国べったりの日本人論客からは、米国がなぜ日本の憲法改正を望んでいるのかについて、納得のいく説明を読んだことがありません。もう少し分析が必要です。
ともあれ、日本の憲法改正議論は、米国の世界戦略と切り離して考えることは絶対にできません。世界がどのように動くのか、その中で日本がどのような舵取りを迫られているのか、その中で改憲が是なのか非なのか、考えていく必要があります。こういうテーマでは政府はしばしば議論(イシュー)を意図的にずらしてくるので、そこからして注意深くなる必要があります。
それなのに、日本人の世論は猛烈にお粗末で、先日行われた毎日新聞の世論調査によれば、51%が九条を含む改憲に賛成、そしてその理由が、「戦後60年以上も改正されていないから」。戦争や軍備の放棄をどう考えるのかが理由ではなく、「変わってないから変えてもいいんじゃない?」というのはあまりに安易な回答です。今改憲することが何を意味しているのか、それが政府に与えていた憲法の「制約」をどのように取り払うことになるのか、国民は政府のとろうとしている行動に、どこまでフリーハンドを与え、どこからは与えないのか。これは「高尚な人種」の話すことではなく、「庶民」がきちんと考えなければならないことです。なぜなら、その「フリーハンド」の結果を引き受けるのは、いつの時代も権力が一番乏しい「庶民」なのだから。
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