(by paco)300愛国心をどう考えるか?

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(by paco)今週号を書こうと思ったら、なんと300号ですね。300が多いのか少ないのかよくわからないのですが、しつこく書いてきたことだけは確かです。アニバーサリーのようなことにはあまり興味がなく、100号も200号もコメントなしで通過した気がするのですが、たまにはと思い、1号を探してみました。

[知恵市場 Commiton]1号は、その前進、知恵市場エッセンスの最後のころの号で、2000年1月、僕がミレニアムプロジェクトとして書き始めた環境についての研究成果の最初の号です。ということは、丸8年になるのですねえ。そもそも知恵市場のスタートが、1997年で、そこから10周年です。

ちなみに、[知恵市場 Commiton]1号のコンテンツはこんな内容でした。行っていることは、実は今とあまり変ってなさそうな。古い記事は、公開されています
この記事はこちら

■ 知恵市場 ☆ 2000.1.10 ■
●知恵市場エッセンス「グリーンエコノミーへ」
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■■■Part1=========================1940年にタイムスリップ■■■
■■■Part2===============================僕たちの時間感覚■■■
■■■Part3=============30年後の世界に対して責任が持てるか■■■
■■■Part4=========================環境問題と戦うビジネス■■■
■■■Part5===========================「私」に何ができるか■■■

さて、昔の話はこのぐらいにして、今週はこんな記事から、愛国心について考えたいと思います。

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新設都立校、すべての普通教室に日の丸を常時掲示へ
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6日に1期生が入学する東京都立永福学園養護学校(杉並区、小林進校長)が、教室内に日の丸を常時掲示することがわかった。校訓や都のシンボルマークとともに、国旗が入っているプレートを、すべての普通教室正面の壁に固定する。都教委指導企画課は「こうしたケースは都立校では初めて聞いた。都教委としては日常的な掲示を指導したことはない。学校長の裁量の問題だ」としている。
同養護学校は、04年度で閉校した都立永福高校跡地に設置。知的障害が軽い生徒が対象の高等部就業技術科がこの4月に開校し、09年度には肢体不自由教育部門の小学部?高等部が設置される予定になっている。
都教委によると、国旗入りのプレートは30ある普通教室のすべてに設置された。「誠心誠意」という校訓の左に国旗、逆側に都のマークが描かれている。「組織への所属意識の醸成に必要な施設設備」として、学校予算で設けられたという。
学校側は朝日新聞の取材に「校長は今週は忙しい。来週以降なら応じる」と話している
6日には1期生100人が入学。入学式は区内の別会場で行い、生徒は9日から登校するという。(2007年04月05日)
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去年の安倍内閣成立と同時に、教育基本法が初めて抜本改正されて、「国を愛する心」を教えるという内容が加わりました。愛国心教育というのを国家というのはやりたいらしく、こういったナショナリズム、保守、右派層には受けがいい考え方なのでしょう。

上記の記事は東京都の都立校で、東京都は超右寄り、過激右派といってもいいような石原慎太郎が知事をやっています。今週末は知事選ですから、この右寄り知事がどういう審判を受けるかわかりませんが、この原稿を書いている時点(金曜日)では現職石原知事優勢が伝えられているので、再選されてしまうかもしれません。

この「国旗を掲示」しようという養護学校は、東京都の指導ではなく、校長判断でおこなったとのことですが、公立学校というのは、実は文科相を頂点とする徹底したピラミッド構造の中にあります。その末端が学校長で、ピラミッド型の組織がどの程度機能しているかをみるには、末端の校長と上の方針がどの程度リンクしているかを見ればわかるわけです。教育基本法の改正は、右派・石原知事の機嫌を良くしたことは間違いなく(もっと過激にやるべきだと石原知事は思っているでしょうが)、愛国心教育をもっと具体的に進めるべきだというメッセージが都庁内で流れている可能性は十分あります。

ちなみに、都道府県知事というのは、住民の直接選挙で選ばれているので、議会や自治体職員に対して非常に権力が強いのです。内閣総理大臣は、選挙で選ばれた国会議員によって選ばれているという間接的な権威しかありませんが、知事や市町村長は国民からの直接の信託を受けているので、権限も強いのです。東京都は日本の一都市に過ぎませんが、人口から見てもGDPから見ても、文化的社会的影響力から見ても、独立国としてみても存在感が十分あるほどのスケールを持っていますから、そこで直接選挙で選ばれたということは、非常に大きな権力を持っていると言えるのです。

ちなみに、最近は市町村合併で大きな政令都市がいくつも誕生しています。さいたま市、千葉市なども政令市になりました。政令市は独自の権限を持っているために、たとえば、埼玉県から見ると、さいたま市は「県内から独立してしまった」ように見えるようです。同じ県内にあっても、県の管理を受けずに行動でき、大都市を失った県は、経済規模も人口も弱小化してしまう。実は、こういう、都市と県との関係の変化が、いま議論されている道州制につながっています。平成の合併で市町村の規模が大きくなるということは、上位機構の県と対等に近くなる市町村が増えると言うことで、都道府県の存在意義が薄くなっているのです。もっとも東京都は、政令都市の中でも特殊ですから、逆に存在感を増しているのですが。

そんな中、先日都庁勤務の人に先日会うことができたのですが、石原知事も2期8年が終わり、最初は反発していたリベラルな職員はあらかた左遷されるか、自ら態度を変え、どうやったら知事の「覚えよろしく」なるのかを知事より先手を打って考え、提案したり、積極的に行動に移したりする傾向が強くなっているとのこと。権力者におもねる態度をとるのは、昔も今も変らぬ人間社会の本質のひとつです。都民のためにではなく、あるいは自分がこうあるべきと思う方向ではなく、上が喜ぶことをやろうというマインドになってしまう。

こういったマインドが、上記の新設高校の校長の行動につながった可能性は十分あると思います。既存の高校であれば、新たに国旗の付いたプレートをつけようとすれば、職員やもちろん、保護者や生徒からも反発が出る可能性が高いわけですが、新設校で、まして知的障害者のための学校となれば、反発は出にくい。ここで既成事実をつくったという「実績」を、都知事にアピールしたいのでしょうか。本当の都庁からの指導や示唆、圧力がなかったのかどうかはわかりませんが、校長が自らの教育信念に基づいておこなうことというには不自然すぎます。しかし、不自然なだけに、アピールとしてわかりやすい。こういうわかりやすさが、今政治を動かすキーになっていることを、末端の現場校長のほうがわかっているのかもしれません。ずるいやり方です。

というわけで昔から僕は、愛国心だの国を愛する心だのというのが大嫌いなのですが、だからといって、日本という国はけっこう好きだし、たぶん愛してもいるし、日の丸もけっこう好きです。わかりやすいし、オリンピックで国旗が揚がればやっぱりうれしい。

でも、というより、だからこそ、法律に書かれた「愛国心」や、教室に掲げられた国旗って、何なんだよ、と思うわけです。

愛国心というのは、日本っていい国だよね、いい国のままでいてほしいよね、と言うことだと思います。それが国旗や国家を見るときに思い出させるような象徴であればいいのですが、現状は、そう簡単じゃない。日の丸や君が代は、またひとつ前の戦争の記憶を精算できずにいて、その精算がすんでいないことから、日の丸を見ても「いい国だね」というように思えない、人がけっこういると言うことだと思います。オリンピックで日の丸が揚がると、日本人も世界の中でがんばれるんだ、結構やれるんだという思いが重なって、それが「精算されていない思い」をかき消してくれるほど強いから、うれしくなる。学校の教室や体育館で見る日の丸は、逆に精算されていない思いが強調される場所で見ることになるので、違和感のほうが強くなる。そんな感じがします。

日本っていいよね、という気持ちになる場面は、スポーツのほかにもいろいろあるでしょう。僕は環境問題に関心を持ち、世界中の、地球の環境を調べていると、日本という場所がいかに特別な場所かがわかります。もちろん、世界中、それぞれの土地がそれぞれの意味で特別なんですが、日本の場合、自然と人間の共存という今のテーマにあった自然の条件が揃っていて、可能性も大きいし、過去からの遺産もたくさんある。たとえば、里山や雑木林というのは、そんなよい遺産であり、よい未来の場のひとつです。

世界の中には、たとえば南極のように、人間の生活と共存しづらい場所もあるし、アマゾンのように、共存できていたのに、人間の文明が破壊し始めてしまったところもある。中国の華北、黄河流域のように、共存に失敗して破壊し放題になってしまったところもある。そんな地域を見て、改めて日本を見ると、日本の自然と日本人の暮らしはけっこうイケてる。そういう意味で特別な場所です。イケてるんだよね、だから日本はいいところなんだよねとわかり、それについて誇りを持ち、それが国旗や国家を見ると思い出せる、というなら、それはよい国旗・国家です。でも、そういうつながりは、今のところありません。政府も自治体も、法律を作って国旗・国家を愛国心につなげようとしているのですが、形式ばかりで中身がない。これでは「日本っていいよね」という思いの象徴にはなり得ません。

日本の自然、日本の暮らし、日本の文化をひとつのまとまりとして理解し、それに誇りを持とうという動きは、実は、それほど古いものではなく、実は明治時代に始まったことです。それ以前、江戸時代の人々にとっては、「自分たちの国」とは、せいぜい藩の単位、現実的には村や集落の単位でしょうか。そのぐらいのお国自慢はいくらでもありました。しかし、日本という国の単位で「日本っていいよね」という概念はなかった。

そこで、柳田國男なんかが各地を回って民俗(民の習俗)を集め、それを体系化して、民俗学を興し、そこでまとめられた民俗の集大成を「日本人のアイデンティティ」にしようと考えました。柳田國男は学者のように考えられていますが実は、明治政府の内閣に勤め、貴族院書記官長まで上り詰めた役人です。明治国家を、それまでの分権国家から中央集権国家に換えるために、文化や習俗、つまり暮らしの面で「日本というのは……」というまとまりをつくることで、明治国家建設に貢献しました。

各地にあったばらばらな信仰である、神社神道を、靖国神社・伊勢神宮を頂点等する国家神道に作りかえることにも、結果的に貢献しました。

つまり、日本の国民が、「甲斐の国の人」「肥後の国の人」というアイデンティティを脱して、日本人という自覚を持つために、国家神道や日の丸、君が代が重要な役割を果たしたのであって、日の丸、君が代、日本人というアイデンティティは、明治期に意図的につくられたものなのです。つまり、○○人というアイデンティティは、自然に生まれているとは限らないのですね。

そこで改めて、僕らは日本人としてのアイデンティティをどう考え、つくり、次の世代に預けていけばいいのかということを、意図的にやらなければならないと言うことに気がつきます。というより、国家というものが意図的にアイデンティティづくりに乗りだそうとするなら、市民の側もそれに対応しないと、国家の都合のよいアイデンティティを押しつけられかねない、ということです。

「国家や政府って、そんなに国民の敵なの?」という声も聞こえてきそうですが、国民がぼけっとしていると、権力を持った人間はかんたんに国民の敵になる、ということは覚えておくべきです。あるいは、権力を握ってみると、国民のためという困難な仕事に引き替え、得られる報酬の少なさ、非難されるリスクに愕然とし、勝手な押しつけという安易な行動に出やすいということでしょう。

今年は参院選挙もある政治の年です。日米関係も、なんだか本格的にあやしくなってきました。考えていかなければならないネタは、たくさんありそうです。

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