(by paco)296考えること、哲学、創造

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(by paco)ここ数回、ロジカルシンキングについて書いてきました。今回はその締めくくりとして、哲学と創造について考えてみたいと思います。

僕はこれまで、論理思考についての本をいくつも書いてきていて、

「論理力を鍛えるトレーニングブック」
「意思伝達編 論理力を鍛えるトレーニングブック」
「人生に役立つトレーニングブック」
「考え方のつくり方」
「先見力強化ノート」

こういった本を読んだ方の中から、よく、「結論が強引」「無理がある」といった批判をもらってきました。たしかにそう言う面もあると思います。「赤信号を渡ってもよい」といった結論を出したりしているので、常識に反することも多いのです。そして常識と反する結論が出ることは、常識に反しているがゆえに、論理が間違っていると考える人が多いのだと思います。

でも、深く考えていくと、常識と反することがしばしば起こるし、常識と反しているとしても、その結論に大きな意味があることもある、というのが、実は過去にしばしば起きていることなのです。

僕自身は、ロジカルシンキングという名前で研修を行っていますが、実際には「論理的」かどうかということより、「深く長く考える」ことが目的だと思っていて、論理性があるかどうかというより、どれだけイシューに肉薄できたかということが重要だと思っています。そしてそうやって肉薄してみたら、常識を異なる結論が出ることはしばしばあるし、それが、のちに「正しい」ことがわかるということも、過去よく起きていることです。

論理的という言葉を、「深く長く考える」という意味でとらえるとしたら、論理性を追求することは、常識を裏付けることではなく、しばしば常識と異なる結論になることだ、という話を、してみたいと思います。

論理思考で一番重要なのは、イシューの特定だという話は、これまでもしてきました。イシューの特定の作業の中で、しばしば大きな役割を果たすのが、単語の意味の特定です。たとえば、テレビという言葉について考えてみましょう。テレビとは何をさしているのかと考えると、実は意外に簡単ではありません。テレビという機械そのものをさす場合もあるでしょう。その場合は、ブラウン管か液晶か、20インチか36インチかというような内容を含んでいると考えられます。しかしテレビという言葉は、受像器としての意味だけでなく、放送される番組をさす場合もあります。「テレビで見た」という時には、放送された番組という意味であって、受像機のことではありません。また「テレビってあてにならないよね」と言うときには、「番組」というよりは、「番組がつくられるテレビ局や制作会社、政策担当者やスポンサーとのお金の流れ」など、番組ができるまでの全体のしくみを含めてさしていると考えられます。また場面によっては、「テレビ」は、映像を電波に乗せ、また電波を映像に戻す技術的なしくみをさす場合もあるでしょう。このようにひとつの言葉でも幅広い意味を持っているので、今考えたいことがどのような意味のことなのかを明確にすることは、とても重要だし、それによってイシューが大きく変わってしまいます。これも、深く考えるということの意味です。

これを、単語から文章に広げると、もっと複雑になります。たとえば、結婚10年目に妻が「旅行に行きたい」と言い出したとすれば、その言葉(文章)の意味は、もっといろいろに考えられます。「最近、ちゃんと話ができていないから、自分の話を聞いてほしい、向き合ってほしい」という意味かもしれないし、「子どもができてからゆっくりセックスができていないから、子どもおいて恋人みたいに戻りたい」という意味かもしれません。あるいは「前から行きたかったニューヨークのブロードウェイをみたい」という意味である可能性もあります。言語だけ見ると、「旅行に行きたい」ですが、そこに含まれている真の意味は、その言語だけを見てもとらえきれません。このような言葉の意味をとらえるのも、イシューの特定です。

これをさらに広げると、「言葉に表されたものは、必ずしも真のメッセージではない」という考えを導き出すことができます。これを政治に応用すると、為政者からのメッセージは、字義通りとらえていても真意はわからないということを意味していて、「大量破壊兵器を持っているから、イラクに戦争を仕掛ける」というメッセージは、「中東を支配下に置きたいから、フセイン政権をつぶす」という意味である可能性もある、と考えることも可能です。このように、政治的なメッセージの裏を読むことを、世の人は「陰謀史観」と呼び、軽蔑したりしますが、以上のようにイシューととらえ、考えるという事の本質を読み解いてくると、メッセージを言語通りに受け取るというのは決して正しいもののとらえ方、考え方ではなく、言葉の外側にあるものまで含めて考えることは、むしろ「考える」ということのあたりまえの行為だと言うことに気がつくのです。

現代日本を代表する哲学者で、阪大教授の鷲田清一(わしだきよかず)さんは、「哲学は常識の理解の解体だ」と言っています。たとえば、顔は、鷲田さんの主要なテーマのひとつです。顔は、自分を特定するためにもっともわかりやすく、アイデンティティの象徴とも言うべきもので、自分というものを人は顔を通じて理解しています。でも、その「自分の顔」というものを、僕たち人間は、一生一度も見ることができません。鏡で見た顔は左右反転しているし、正面からしか見えないし、鏡で見るときは、自分が自分にとっていい顔に見えるような表情をしています。しかし、写真に撮られてみると、自分の顔とは違うような気がする。それが他人から見れば自然なものだったとしても、です。では写真が正しいのかと言えば、それも「No」で、写真には立体感がないし、他人は自分の顔のある瞬間を切り取っているのではなく、動画としてみているはずで、それはやはり自分では決してみることのできないものなのです。

こういった考え方を推し進めると、顔とは何か、自分とは何か、ということについて、まったく別の結論が出てきて、鷲田清一さんは、「顔とは他者から自分に与えられる贈り物だ」という言い方をしています。こうなると、なんとも禅問答的で、常識ではうまく理解できないのですが、論理的かどうかはともかく、深く考えた結果の結論であることは間違いありません。そして、深く考えることが論理思考であり、同時に哲学であるなら、考えた結果が常識と違う結論になることは、何ら不思議なことではないのです。「哲学は常識の解体」という意味はここにあります。

では、哲学や論理思考をするということは、常識を崩すだけの言葉遊びであって、おもしろいかもしれないけれど、実生活には役立たない、取るに足らないものなのでしょうか。

実は、歴史上、真に革新的な発明や社会的な変革は、先にまず、言葉を使っての常識の破壊、つまり哲学があって、それが社会の中に実際に起きることで、現実のものになるということが多いのです。真に革新的なものほど、最初はまったく理解できない常識と異なるメッセージとして提示されています。

その代表例として僕がよく考えるのは、「民主主義」というコンセプトです。現代的な意味での民主主義という概念が生まれたのは、18世紀あたりのヨーロッパですが、当時は国を支配するのは王や皇帝だというのが常識でした。王や皇帝は、代々王家の子息が世襲するもので、王家は神からの信託があり、また王が子息を小さなころから帝王学を教えて育てているから、王家の家系が世襲することは合理的だと考えられてきたわけです。

これに対して民主主義という考え方は、王も平民もなく、市民からの多数決による支持があれば、国の支配者(たとえば大統領)になれるというコンセプトです。ある個人が大統領になるのは、国民の支持を得たからではありますが、その個人が「神からの信託を受けた」というわけでもなければ、「子どもころから帝王学を学んだ」わけでもないのに、なぜか大統領にふさわしいということになってしまいます。多数の支持を受けたとはいえ、実際にだれが支持したかを、あとからカウントすることはできないし(無記名投票)、有権者のうち投票する人がわずかでも(投票率が低くても)、その中の多数票を取った人が当選するという方法がなぜ合理的なのかも、今ひとつわかりません。

民主主義の概念が生まれてきた17?18世紀の、多くの人々にとって、王の子は王、という考え方と、投票による支配者選びという考え方のどちらが常識かと言えば、それは文句なく、「王の子は王」という考え方だったと思います。しかし、当時の状況を深く考察することから、民主主義のほうが合理的だという考え方が出てくる。

王が国を支配することで、王が隣国の王と勝手に仲良くしたり、勝手に戦争をしかけて、国民の大多数を苦しめるといったことが繰り返されると、王に対して抱いていた権威が揺らぎ、本当の支配者は自ら選ぶという考え方が少しずつ納得感が出てきます。

こうして、民主主義という「非常識」は次第に受け入れられていき、「常識」になっていくわけです。

哲学や、論理的に深く考えるという行為は、しばしば常識と異なる結論を導き出します。そしてそのうちのあるものは、言葉遊びに近いものとして、消え去っていきます。しかし、あるものは次第に「常識」を打ち破り、「新しい常識」として社会に受け入れられ、社会や、あるいは人々の行動や生活が変っていく。こういうものを「Radical」と呼び、「急進的な」とも、「根源的な」、とも訳されます。根源に迫る(深く考える)と、しばしばそれは世の中の常識と反する、急進的で過激なものになるのです。

もちろん、こうした哲学的な思考は、民主主義の例に限ったことではありません。「国民」「国家」「市民」「民族」といった概念も、ようやくここ200年ほどの間に確立されたもので、それ以前は存在していないか、まったく別のものでした。「科学」が、「神学=神を理解すること」より優れていると考え、科学技術を担うサイエンティストのほうが、神学者より社会的に地位が高いと考えられるようになったのも、ここ200年ほどのことです。

深く考えるという論理思考の技術は、極めれば、哲学につながります。そして哲学の領域にまで至った思考は、しばしば常識と反する結論を導き出します。しかし、常識と反しているからと言って、論理的でないわけでもないし、間違っているわけでもない。むしろ、その反常識こそ、真の創造であり、世界を変える可能性を秘めています。

たぶん、僕は、論理思考をこういった大きなポジションに位置づけていて、それ故にスキルやテクニックとして教える論理思考に違和感を感じているのだと思います。もちろん、企業研修で哲学を持ち出しても、理解してもらえないので、まずは深く考えられる力をつけてもらうことが先だと思っていますが。

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