(by paco)前回のコミトン294で、ロジカルシンキングという「学ぶべき領域」の変容と危機について考えました。今回はその続きで、では僕が考える「考える力」とは何かという話をします。
先に教材として、こんな記事を読んでください。この記事から、何を考えるべきかを考えてみましょう。
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人権メタボ発言「権利乱用はダメ」 伊吹文科相が説明
asahi.com 2007年02月27日12時06分
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伊吹文科相は27日の衆院予算委員会で、「日本社会は人権メタボリック症候群になる」との自らの発言について、「大切な権利には義務が伴う。自由と権利だけを振り回す社会はいずれダメになる。人権は大切、個人の権利は大切ということは侵してはならない真理だが、乱用してはならない」と説明した。辻元清美氏(社民)の質問に答えた。
伊吹氏はいじめ対策を引き合いに「いじめる子どもを授業に出られない状況にするという一種の体罰的なことを行った場合、その子どもの教育を受ける権利はどうなるんだという意見が、必ず学校現場で出る。だが、かわいそうないじめられている子どもの人権を守るために、いじめをする子どもの権利は制約しなければならない」とも語った。
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さて、この記事を読んで、何について考えたくなるか、つまりイシューをどう設定するかと言うことについて考えてみます。
本来、考えるということは、自分が何について考えようとしているのか、自覚的に設定する力から始まります。これを「イシューを設定する」とか、「イシューを特定する」といい、また別の視点から見ると、「問題や課題の設定」、あるいは「問題意識」と呼ぶこともあります。さらにこれを、「質問力」といった言葉で規定する人もいます。イシューとは、これから考えて何らかの結論を出すための入口ですから、イシュー自体は疑問文の形式を持っています。この点に注目すると、イシューを設定する力は「質問力」とイコールになるのです。
さて、上記の記事で、あなたはどんなイシューを設定したでしょうか。イシューはいろいろ考えられますが、重要な視点として、この記事が伊吹大臣の発言が「問題といえるのかどうか?」を考えるための情報として書かれていることに注目してください。大臣の発言は大臣にとってマイナス、または致命傷となる発言なのか、あるいは問題ない発言なのか。
この点から考えてイシューを設定してみると、「発言の中の権利という言葉の使い方が妥当なのかどうか」という点に焦点があることに目が行きます。権利や人権というのは、憲法で保障されたものなので、もし大臣が権利についての理解が間違っていれば、大臣としての執務執行能力が問われることになります。
ほかに、「メタボリックと人権やいじめを結びつけるのは、例やたとえをうまく使えていないのではないか?」というイシューも考えられます。しかしこちらのイシューでは、大臣の表現能力を問いかけているだけで、大臣の人権や権利に対する理解の浅さを問うイシューではありません。今、市民が問題にしているのは、大臣の表現力というより、大臣の権利に対する思想が、大臣として妥当なのかどうかという点だと考えるべきでしょう。
ある状況の中で(ここでは新聞で記事を読んでいるという状況)、自分が何を考えたいのか、考えるべきなのかを明確にする作業から、思考は始まります。しかし、前回お話しした、安易で形式的なロジカルシンキングでは、イシューはあらかじめ課題として与えられ、そのイシューの内容を深める必要もなく、字義通りのイシューで考えればいいのです。
僕の研修では、イシューを自力で発送したり、他者のイシューを外から見てとらえ直す演習を行います。形式的な論理ではなく、本質的なロジックを扱う能力を身につけてもらいたいというのが、その大きな理由です。
さて、こうしてイシューが特定できたら、伊吹大臣が使っている権利や人権という言葉の意味についてもう少し注目します。大臣は、
「権利には義務が伴う」
「権利と自由だけを振り回せば、社会はだめになる」
と言っていますが、この場合の権利とは、誰のどのような権利をさしているのかが問題です。その後のいじめの例を読むと、「いじめられることもの権利を守るために、いじめた子どもは、権利を制限されるのも仕方がない」と言っているのですが、このばあいのいじめることもの権利、いじめられた子どもの権利とは何か。上記の発言をあわせると、いじめっ子は権利と自由を振り回したことになると考えられるわけですが、いじめっ子が振り回している権利とは何か。その権利は、いじめられたこの権利のためには制限されるべきだと言っているのですが、このことと照らし合わせると、いじめっ子が過剰に振り回しているらしい権利とは何か、という点が少しずつ想像できます。
いじめっ子が振り回している権利というのは、それによっていじめられっ子がダメージを受けるということを意味しているようなので、「いじめる権利」をさしているのではないかと考えられます。伊吹大臣は、いじめは、いじめっ子が「いじめる権利」を過剰に振り回していることによって起きていて、それ故に、いじめっ子の「いじめる権利」を制限すべきだと言っているように読めます。
このように発言を理解すること自体が、もしかしたら大臣の趣旨とは反しているのかもしれません、大臣はもっと別の意味を含めている可能性もあるのです。しかし、もし別の主旨で発言しているなら、それがわかるような例は、権利という言葉で提示している意味合いを明確にする必要があります。権利を振り回すとか、権利を制限するというのは、そう簡単に言える話ではなく、その内容を説明しないと、いかようにも理解(誤解)できてしまうのです。
では、上記の考察のように、大臣が「いじめとは、いじめっ子が自分の権利を振り回したっ結果怒る」と考えているとしたら、それは妥当なのでしょうか? 人間には、「いじめる権利」というものは存在するのでしょうか。
一般的に言えば、「いじめる権利」というものは存在していないと考えるべきでしょう。「人を殺す権利」「他人を傷つける権利」というものは、概念としては存在していても、社会の中でそのような権利を個人が持ち、それを乱用するからいじめが起きるのだと説明するのは、無理があります。人をいじめる権利は、概念上すでに存在していないと考えたほうが、合理的です。そう考えると、そもそも「いじめっ子の権利を制限する」とか「人権メタボリック症候群(=権利を乱用しすぎて自己中毒を起こしている、というような意味か?)」という概念そのものが成立せず、ここから言えることは、伊吹大臣は、権利や人権という概念そのものがうまくつかめていないということになります。権利や人権というような基本的な概念のとらえ方がおかしい人物を、大臣にしておいていいのか、というのが、受けて立つ社民党の主張になるべきですが、辻本議員はこういった切り口では攻められていないようです。
また、人権と権利も、似ていますが本当は別の意味だし、人権メタボリック、という言葉も、何を指し示そうとしているのか、ほとんど意味不明です。
いっぽう伊吹大臣は自由という言葉も使っていて、「人をいじめる自由」という概念なら、成立するはずです。これは、近世ヨーロッパの哲学を学ぶ必要があるのですが、もし人に「いじめる自由」がそもそもなければ、「いじめない」ことは、善でも悪でもなく、呼吸と同じように、生きている必然として「いじめない」というあり方をしているだけ、ということになります。
少し例を挙げましょう。子どもを暴漢に殺された親が、暴漢の前で銃を持っていたら、殺すこともできるし、殺さないこともできます。殺してしまえば、同情の余地はあるものの、やはり悪いことをしたと見なされ、罪になります。しかし殺したい衝動に堪えて、暴漢を殺さずに逮捕に協力すれば、罪にならず、よい行いだと見なされます。このことからわかるのは、人を殺す自由がありながら、それをせずに、あえて「自分が暴漢を殺してしまえば、自分も暴漢と同じ殺人鬼になってしまう」と考え、「こそ左内」という選択をすることが、よい行動なのだということです。逆に、殺す、殺さないの自由がない場合は、社会は罪に問えません。
戦争で人を殺しても兵士は罪に問われませんが、これは兵士には「殺さない」という自由がないからなのです。自分が敵を殺さないと、罪に問われ、次にさらに過酷な戦場に送られるということがわかっているから、兵士は敵を殺します。殺す以外の選択肢(自由)がないから、戦争が終わっても、兵士は殺人罪に問われることはないのです。
このような自由の意味をしっかり理解した上で、大臣が「いじめっ子は、いじめるという行動を自ら進んでおこなったのだから、自分が選択した結果を自分で引き受けなければならない、その中には、たとえば授業を受けさせないということも含まれるかのせいがある」といえばよかったのです。
「権利を乱用をしたこと悪い」という説明では論理矛盾が起きているのですが、「自分のやったことにによる結果は、自分で引き受ける必要がある」という説明なら適切です。つまり、伊吹大臣は、権利、人権、自由という基本的な概念が適切に理解できておらず、これは大臣の資質として問題である、と主張するなら、社民党の主張にも論理性が見られるはずです。
ここまで考えていたことは、イシューの特定と、そのイシューを考えるための軸(権利、人権、自由)を発見し、この問題を解きほぐす切り口を見つけるというアプローチの仕方です。
僕がおこなっている研修では、こういったイシューの発見や特定を重視していて、抽象的な論理だけで展開してもだめだし、まして規制のフレームワークを当てはめただけではまったく評価しません。本当の考える力を身につけるには、自分の頭を動かし続ける仕掛けを自分の頭脳の中に入れてしまうしかありません。それが、論理的に考えるためのいくつかのアプローチであり、この方法論を学ぶことが、本来のロジカルシンキング研修であるべきです。
これに対して、今増えつつある研修では、「イシューはケースで与えられ」、「わく組はフレームワークをそのまま使う」「メッセージは妥協の産物でどんどんグレイになってもやむを得ない」という内容であり、これでは考える力が付かないということがおわかりになると思います。
本質を見抜く力をつけるのは、そうたやすいことではありません。つい、かんたんに学べるなら、という誘惑に負けそうになるのもわかります。しかしだからといってお手軽でわかった気になる研修を受けても、あまり得るものはなく、時間の無駄になりかねません。
今、何を学び、何を身につけるべきか。ロジカルシンキングの分野も、再定義が必要なタイミングに来ているようです。
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