(by paco)コミトン279「現実を見る力を持てない男たち」で、いじめで自殺した子どもの親について考えました。僕自身改めて読み返してみて、問題提起として適切だったのか、迷いがあります。人の気持ちをとらえることは、本当に難しい。
それでも、やはり一連のいじめのニュースが毎日気になり、何も考えないわけにはいきません。今回は、いじめを受けた子どもの視点で考えてみます。
日本のいじめ、特に最近のいじめは「陰湿だ」と言います。今のいじめの実態は、どのようになっているのでしょうか。
日本でいじめのニュースがたくさん出るようになり、どのことがドイツにも影響を及ぼして、ドイツでも「Ijime」という言葉がそのまま新聞に掲載されるようになったという記事がありました。Ijimeは日本だけの問題ではありません。しかし日本とドイツのIjimeにはけっこう違いがあり、ドイツでは移民の子どもがいじめられることが多いようです。
ドイツでは、民族主義に走ってユダヤ人を迫害した苦い経験から、戦後、積極的に周辺の国や民族との融和を図るために、移民を受け入れてきました。しかし異文化、異言語の移民たちにはやはり違和感を感じる市民は多く、特に経済環境が悪化して失業者が増えると、移民によって仕事が奪われたという誤った考えが受け入れられがちになります。この傾向は欧州各国に共通するところがあり、フランスでもイスラム教徒の移民が迫害され、逆に反発するというような軋轢が生じて、該当での抗議行動やクルマに火をつけると言った反社会的な行動につながっています。実際、すこし前にドイツを旅行した友人によれば、大都市から離れて排他的な雰囲気の農村部などに行くと、東洋人を顔をしているというだけで、きつい視線で見られたり、ひどいと石を投げられたこともあると話していました。
このような環境の中で、ドイツの学校では、移民の子どもがいじめの対象になることがあるのだそうですが、その場合、日本と違うのは、ドイツではいじめは具体的な暴力という形をとるのに対して、日本では主に無視や言葉の投げつけという形をとることが多い、という特徴があるようです。
日本のいじめでの「無視」は、単に存在していないように扱われるだけでなく、いじめられている子の存在を消すという圧力として働きます。たとえば、朝学校に行くと、自分の机の中は空っぽになっていて、机の上には花瓶があって、菊の花が生けてあるというような形をとるわけです。つまり、すでにキミは死んでいて、クラスメイトが花を飾っているという状況に映る。教室に入っていくと、「アイツ、死んで教室がさっぱりしたね」というような会話をこれ見よがしにしていたりする。わざとぶつかってから、「おかしいなあ、何も見えなかったけど、なんかあたったような、うわ?幽霊かな」と怖がったり。直截なぐるけるは少なくても、靴をなめるよう強要されたり、パンツをおろされて性器を揶揄されたり、裸で床を泳がされたりと、屈辱を与えるようなやり方をする。いじめる側のリーダー格は、こういったことを命令しておきながら、実際にやると、「本当にやってるぜ、きたない、クサイ」とあざ笑うことで、いじめられる側のプライドをずたずたにしていくのです。
こういった日本のいじめの「陰湿さ」については、映画「リリィ・シュシュのすべて」(岩井俊二監督)や、小説「いじめ14歳のMessage」(林 慧樹著)などに詳しく描かれていて、子を持つ親なら一度は見ておくことをおすすめします。
こうした陰湿ないじめを受けた子どもたちは、いじめられたことについて大人に相談して、なんとか解決しようとしないのはなぜでしょうか。最初のいじめは小さなことから始まります。小さなうちなら相談できるのではないかと思いがちです。このあたりは、特に上記の「いじめ14歳のMessage」に詳しいのですが、いじめを受けた子どもは親や大人に相談しないのです。
なぜでしょうか? 理由はふたつ考えられます。ひとつは上記のじめの「陰湿さ」に理由があります。今のいじめはいじめられる人の自尊心・プライドをずたずたに破壊します。いじめられていると、自分がまともな人間であることが疑わしくなり、いじめる側が言うような、生きていてもしょうがない人間であるかのような気持ちにさせられるのです。学校でこういう気持ちになって家に戻ってきたときに、家では家族が普通に迎えてくれれば、ほっとして、ここが自分の居場所だ、自分はここでなら生きていけると感じるわけです。しかし、その家庭で「自分はいじめを受けた」ということをはなすと、その瞬間、家庭の中にまで「生きている意味がないみじめな自分」を持ち込んでしまうことになります。暖かで平和だった家庭の中に、陰湿ないじめの記憶が持ち込まれ、ほっとする日常が全くなくなってしまうのです。
こういう変化は、親がいじめをどのように受け止めるかには無関係で、「気のせいじゃない?」というように受け止めても、「たいへんだ! 明日お父さんが学校に怒鳴り込んでやる!」という反応であっても、いずれにせよ、みじめな自分が家庭の中にまで持ち込まれることには変わりがありません。静かで平和な普通の家庭であるほど、いじめられた子どもは、家庭にまでいじめを持ち込みたくないと考えるのです。さらに、場合によっては、「いじめられても学校には行きなさい」と送り出されてしまうこともあり、いよいよ行き場を失ってしまう可能性があります。親がどんな反応をしても、いじめられた子は追い込まれてしまうと考えるのです。逆に言うと、いじめる子どもは、いじめられる子がこういう気持ちになることをわかっていて、いじめのやり方を注意深く選んでいます。この注意深さが、日本のいじめの「陰湿さ」の本質にあります。
いじめられていることを相談しないもうひとつの理由は、「親に心配をかけたくない」という子どもの気持ちです。前回のコミトン281「子どもの立場に立ったメッセージ」で、子どもは親の期待に応えようとするという話を書きました。「水泳を始めるなら、1年は続けるように」というメッセージを、子どもはそのまま受け取り、努力します。親子関係が良好で、楽しく温かな家庭だと、親子とも認めているような家庭の場合、子どもがいじめられているということは、「平和な家庭が壊れた」ことを意味し、いじめられているという事実が、親の期待に反することだと感じてしまうのです。
さらに、そこに、「人に迷惑だけはかけるな」という、親からの強いメッセージが加わります。これが子どもに決定的な影響を与えていると僕は考えています。
日本人の親で、「(何をやってもいいけれど)人に迷惑だけはかけるな」といわない親はほとんどいないのではないでしょうか。僕はこの、日本人が「最低限の倫理・道徳」と考えているフレーズの危険性を、ずっと感じてきました。そして子の「人に迷惑をかけるな」がいじめられた子どもを最後の最後まで追い込んでいくのです。
子どもがいじめられていることを親に話せば、親はなんとかしようと必死になるでしょう。子どもから見れば、親が自分のために何か行動をとっていれば、自分がいじめられたことで親に迷惑をかけていると感じます。自分がいじめられさえすれば、親は忙しいのに学校に行ったり、いじめた子の親のところに行ったりする必要がなく、心配もする必要ないのです。親がいじめのことで困っていれば、それはいじめられた自分の責任だと子どもは考えるのです。このような倒錯がおこる大きな理由が、親がいつも「人に迷惑だけはかけるな」と言い続けているメッセージなのです。
今の親は子どもに最大限の自由を認めようとします。しかしなんでも自由気ままであっていいわけではないと考え、最低限の倫理として「人に迷惑をかけない」というルールを子どもに強く教えるのです。ほとんど何も禁止されない子どもにとって、「理解ある親」が発する唯一の禁止事項を破ることは、自分が人間としてあるまじきことをしていると感じます。こうしてみると、いじめられた子どもが親に話さない理由が、「人間でなくなるような、プライドを失う気持ち」につながることがわかります。前述の通り、今のいじめは、いじめられる子の人間としてのプライドや尊厳を打ち砕くことを狙っています。いじめられた子が親に相談し、子どもが親に迷惑をかけることは、子どもにとっては、いじめられてプライドが破壊され、親に相談してプライドが破壊されるという、二重のダメージを受けることを意味するのです。
こうしていじめられた子どもは大人に相談することができず、おとなの目につかないところでいじめはひたすらエスカレートしていくのです。
では、「人に迷惑をかけない」というルールは、いじめられたという場面にだけ、キャンセルされればいいのでしょうか。僕は違うと思います。
「人に迷惑をかけないことが人間としての最低限のルールだ」と強く教えることは、人に迷惑をかけている人は人間ではないと教えているのと同じです。すると、人に迷惑をかけないと生きていけない人、たとえば介助の必要な障害者や高齢者は、人間としては一人前ではないという意味を与えかねません。実際、ホームレスに無差別暴力を行う若者の動機は、「ホームレスは社会に迷惑をかけている存在だから、何をしてもかまわないと思った」です。交戦中のイラクに入国し、武装グループにつかまった人を、日本人は「迷惑をかけた連中」と考え、「迷惑をかけたのだから、どうなっても仕方がない」と考えます。
人に迷惑をかけないというメッセージは、たがいに助け合うという社会の価値を見失わせ、助けてあげることを「迷惑をかけられたこと」と考えてしまう傾向を生みます。そして助けてあげることも、助けられることも、良くないことだという考えを生んでしまうのです。
もちろん、ひとつひとつの場面で「これは迷惑をかけているのではないよ」「助け合うことは迷惑をかけ、かけられることではなんだ」ということを伝えていけば、ルールの運用が理解でき、誤解は減ります。しかし日本のおとなの多くは、「助け合う」ことの大切さを教えずに、「迷惑をかける」ことの問題ばかり、子どもに伝えがちです。このような倫理観は、倒錯といわずに、なんといえればいいのでしょうか。
この倒錯が、今、いじめっ子に力を与え、いじめられる子を追い詰めていると僕は考えています。
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