(by paco)279現実を見る力を持てない男たち

| コメント(0) | トラックバック(0)

(by paco)福岡と岐阜で、いじめによる中学生の自殺が続きました。本当に痛ましく、同時に、怒りが湧いてくるのですが、それはそれとして、気になるのが両親、特に父親の対応です。

たとえば、岐阜県瑞浪市の女子中学生の自殺では、

「いじめを認めようとしない佐々木喜三夫校長の説明に対し、父親は終了後、報道陣に『娘のSOSは無視された。人間とは思えない』と怒りをあらわにした。」(asahi.com 2006.10.31)

と父親がコメントしていると報道されています。

この怒りは、当然です。学校関係者はとかく自己保身に走りがちで、これまでもいじめや教師による暴力など、多くの事件で、学校関係者が誠実な対応をしてきていない例はいくらでもありました。子どもを亡くした親として、不誠実な学校関係者を徹底的に追及するのは当然のことです。

この点は十分理解した上で、僕はちょっと違うところが気になるのです。

このように学校関係者を追及する親たちは、学校を追及すればするほど、それとまったく同じことについて、自分自身に対しても追及することになると言うことに、気づいているのか? という点です。

確かに学校関係者は、子どもの間のいじめや、自殺の予兆について、きちんと把握し、未然に防ぐ努力が必要だし、それが機能していなかったことは事実としてあるでしょう。しかし、同時にその予兆の理解は、学校関係者以上に、親である両親に、もっとつかむことができるのではないか?と僕は思うのです。

子どものSOSを学校が気づけなかったと、学校関係者を追及すればするほど、では親である彼は、子どものSOSに気づいていたのか? 気づけなかったのか、気づいていたけれど放置したのか。子どもは、学校にしてもそれ以外のことであっても、何か問題があればまず親に相談するものです。まず親に相談できるような親子関係が、あるべき姿だし、子どもが困難にぶつかっていれば、親がそれをフォローするのが、まず第一義的にあるべきことだということは、やはり確認しておきたいのです。

自殺するほど悩んでいた子どもの状況を、親はどう理解していたのか。それほど悩んでいた子どもに気づけなかったこと、悩んでいることを話せない親子関係、話しても理解してもらえない親子関係。

どれに当たるのかはわかりません。でも、親子関係が正常に機能していれば、まず親に相談し、親と一緒に学校の問題の解決につなげるべきことではないのか? それが第一義的にあり、学校関係者への追及はそのあとで行われるべきことなのではないかと、僕は思います。

もちろん、こういうことを、同じく中学生の父親である僕が書くことは、僕自身が本当に娘の問題を理解できているのか、相談相手として信頼されているのかと突き詰めれば、本当のことはわかりません。たぶん大丈夫だと思いたいものの、本当の心はわからない。だから、自殺した子どもの両親について、僕自身がこういうことを書く立場にあるのか、とても悩ましいのは事実です。それでも、だからこそ、「親は何をしていたのか?」を、同じ中学生の親として、彼らに問いかけてみたい気持ちを捨てられないのです。

 ★ ★ ★

僕が大学生のころ、母の同級生の女性に、「写真のモデルになってほしい」と頼んだというちょっと苦い思い出があります。母の同級生なので、大学生の僕から見れば、十分「おばさん」で、若い男から見て魅力的な女性ではあり得なかった。それでも、僕は彼女に「きれいなおとなの女性」を期待して、モデルを頼んでしまいました。その時、彼女は我が家に遊びに来ていて、数日泊まっていたのです。

僕は彼女を見て、モデルの件を頼みました。そして、快諾をもらってから、改めて彼女の顔を見て、自分の考えが間違っていることに気がつきました。彼女は僕がとりたいような、「きれいなおとなの女性」ではなかったのです。僕は、彼女を目の前にしていながら、彼女の本当の姿を見ずに、イメージの中の彼女を思って、モデルを依頼してしまいました。

彼女は、僕の母親と違って、ずっと独身を通してきた女性でした。母親の世代には珍しく、キャリアウーマンとしての人生を歩み、当時も大企業の社長秘書として、創業社長から全幅の信頼を受ける、颯爽たる女性だったのです。

僕の中にある、「おとなのきれいな女性」としての彼女は、僕が子どものころからときどきうちに遊びに来ては、家庭の主婦の母とは別の雰囲気を漂わせる「かっこいい女性」のイメージでした。でも、そのイメージは僕自身が、おそらく小学生頃見た彼女のイメージだったのです。僕は大学生になっていて、彼女はすでにだいぶ年齢を重ねていました。でも僕の中の彼女のイメージは年をとっていなかった。年に何度か会う機会があり、普通に話す親戚のような付き合いをしてきた女性なのに、僕は彼女の「本当の姿」を見てこなかったことに、その時気づいたのです。「あこがれの、年上の人」というわけではなかったのですが、近い雰囲気があったのでしょう。

僕は、10年も15年も前の彼女の印象を心の中に思い浮かべて、目の前にいた彼女を見ていなかった。写真を撮ろうとして彼女を見て、初めて、そのことに気がついたのでした。

僕は結局、彼女を撮影することができませんでした。彼女は写真を撮ってもらえるということで喜んで化粧もしてくれたのに、僕はそれに答えられなかった。その時の小さな、苦い思い出は、今も妙に覚えています。

 ★ ★ ★

で、なんで子どもの自殺の話の中で、こんな女性の話をしたのかというと、父親にとって、子どもは、どこか今の年齢の子どもではなく、以前のある時期、あるいは父親自身がこうあってほしいと願う、イメージの子どもを見ていたのではないかという気がするのです。

中学生の子どもは、もう心も体も中学生なのに、親はその子どもを等身大で見ることができず、小学生を変らない、あるいは幼稚園や幼児の頃のような、親に自然になつくような年齢のイメージを持っている。その一方で、「中学生はもう半分大人なんだ」という、大人として距離を突き放そうとする気持ちもある。反抗期が来て、ゆえなく親を毛嫌いするようになると、よけいに距離を感じて、子どもが感じている距離以上に親のほうが距離を突き放してしまうことがあるのです。

イメージの中の子どもはまだ幼稚園や小学校低学年で、一方現実の見える中学生の子どもは、もう一緒に酒も飲めそうな大人。親は中学生や高校生の子どもにこんな距離感を持ちがちで、その狭間で子どもの現実の生身の姿が見えなくなっているのではないか。

こういう親の認識を助長しているのが、親自身の仕事の忙しさと、それにかまけて家庭に関わらない、特に父親の姿勢です。

僕は20?40代を中心にしたおとな向けに研修をすることが仕事のひとつですが、こういう場面では、ライフデザインとからめてなるべく大人として、親としての生き方について話をしています。もっと家庭に関わるように、というメッセージを折に触れて出しているのですが、こういう話をきっかけに、受講生である父親や夫たちに話を聞くと、あるいは妻たちに夫の話を聞くと、父親、夫たちの家庭へのかかわりの希薄さを感じざるを得ません。もちろん中にはかなりきちんと関わっている人もいるということは当然として、でも子どもが保育園や小学校に行くぐらいの年齢なると、「平日は子どもの顔もみれない」という人がどんどん増えてくるのです。中には自宅から「逆門限」を宣告されていると苦笑する人もいます。11時前には家に帰ってきてくれるなと妻から言われている、というわけです。こういう状態では、子どもの等身大の、生身の姿を見るべきだと言っても、みれているといえるでしょうか。

自殺した親たちの、学校に対する追及を見ていると、もしかしたら死んだ子どもたちが一番文句を言いたい相手は、自分を見てくれなかった親、特に父親に対してなのではないかという気がしてきます。学校への追及に必死になる父親の報道に接すると、僕なら学校を追及する場面で、自分のふがいなさに胸が締め付けられて、何も言えなくなって島野ではないかと思えるのです。

僕たちは、自分の子どもたちをきちんと見ているのでしょうか。子どもがいない方は、自分の妻や夫を、本当にきちんと見ているのでしょうか。昔の僕がそうだったように、自分に都合のいいイメージをつくり、そのイメージに対して言葉をかけて、それが家庭と関わることだと思っていないでしょうか。

今回の自殺事件の遙か以前から、学校は時として子どもにとって非常に危険な場所でした。いじめは以前からずっとなくなっていないし、子ども間の暴力、教師からの暴力。「熱心な指導」という名目で、教師に殴り殺された少年、校門に挟まれて死んだ少女。学校は、用心してかかるべき、安全とはいえない場所になって久しいのに、親たちはその現実を見ようとせずに、子どもを学校に追い立てます。「学校は、問題もあるにしても、おおむねいいことが多い」「学校に行けばいいと言うものではないけれど、学校に行っててくれないと親が困る」といった理由で、「こうあってほしい」というイメージの学校に、イメージ上の「良い子」である我が子を行かせていないか?

あなたは、家族の本当の姿を見ようとしていますか。子どもや妻や夫の顔を、最近、しみじみ見つめたことはありますか?

子どもに降りかかる悲劇は、結局は親が子どもをしっかり見ていれば、多くが防げることです。少なくと、自殺という悲劇は防ぐことができます。

これ以上の悲劇を起こさないために、おとなのほうがしっかりしなければならない、と思えるのです。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://w1.chieichiba.net/mt/mt-tb.cgi/104

コメントする