(by paco)民主国家と戦争、そしてメディアの関係について考えてきたわけですが、だんだん核心に迫ってきました。
前回までにみてきたことは、以下のような流れです。
(1)君主制国家では、戦争は君主や支配階級が一方的に決め、始めるものと考えられていたので、民主的な制度を取り入れた国家になれば、大きな戦争は起きないと考えられてい(2)しかし民主国家同士でも大きな戦争が起きること、そしてそれはふたつの世界大戦にみられるように、それ以前の戦争よりさらに悲惨な戦争が起きることがわかった。
(3)その理由は、政府が国民をメディアによって強力に情報インプットして、国民が戦争が政党で、積極的にやるべきだという圧倒的な支持を得ることができるようになったからだった。
(4)メディアが、政府が行う戦争のPRツールとして機能し始めたのは、19世紀末?20世紀初頭で、日露戦争はその最初の代表例となり、その後、ふたつの大戦、ベトナム戦争、フォークランド戦争、湾岸戦争、バルカン半島での戦争などを通じて、その手法はより強力に、巧妙になり、市民が気づかないうちに「戦争やむなし」の世論が形成される時代に入った。
さて、メディアは戦争を意図した政府のもとでは、しばしば政府の戦争推進のためのPR媒体として機能することがわかってきたのですが、それにもかかわらず、マスメディアは自らを「公正中立な報道機関」と位置づけていています。そして日本でも放送法などによって、「公共の電波を使うのだから、公正中立でな狩ればならない」と規定され、「多少の変更はあるものの、おおむね中立だ」というイメージが市民の間に浸透しているわけです。
しかし、この公正中立が、いざ戦争のような大きなイベントを前にすると、まったく反対の向きに働くようになるのです。政府が推進する戦争へのロジックと反対のロジックを紹介しようとすると(つまり、反戦的な情報をメディアが流そうとすると)、「その報道は中立的ではない」という圧力を政府や政治家がかけることができるようになるのです。実際、最近でもNHKと朝日新聞が繰り広げた泥仕合でも、このロジックが使われました。朝日新聞は、NHKの番組の内容について、自民党の政治家が事前にその内容を閲覧し、その政治家の意図に沿って内容を放送前に変更したという内容の報道を行いました。これに対して、政治家は事前にみたことは認めたものの、内容変更の「指示」を出したことは否定しました。「中立かどうかという点について、自分の意見を述べただけで、その意見を汲んで、内容を修正したのはNHKの自主的判断」というわけです。
しかし、ここまでにもみたとおり、NHKはその運営費を国会の承認をえて獲得しているし、民放も放送法によって中立な報道を規定され、放送局免許は国の許認可権です。そこまで政府に核心を握られた上で、「中立な報道になっていないように思う」という国会議員の意見を聞いてしまえば、それでももとのままの内容で放送するというのは、政府に対する反逆を意味します。NHKの職員も民放の社員も、しょせんサラリーマンだし、それほどのリスクをとってまで自らの報道内容を押し通そうとする肝っ玉がある人はまれです。どうしても守りに入る構造になっているのです。
こういう事情はラジオも新聞も同様で(新聞は、再販制度の下、価格競争に巻き込まれない特権を政府から、もらっている)、主要なマスメディアは政府からの「公正中立ではない」というメッセージに対して、決定的に弱い立場にあるのです。
そこに、読者/視聴者である市民からの圧力が加わります。大部分のメディアが政府の意図に沿った(せんそうをやらざるをえない、という)報道がなされると、市民の間に繰り替えしその情報がすり込まれ、次第に戦争すべし、というマインドの人が増えてきます。そういう中で、戦争反対を唱えるメディアは、次第に少数派に追い込まれ、今度は発行部数の低迷や視聴率の低下という形で、市民から無視されるようになるのです。さらに、政府の保護を受けているような産業界の主要企業から、広告出稿を止めるといった手に出られると、そのメディアの息の根が完全に止まってしまいます。
そこで、戦争に反対するメディアであっても、風向きが悪くなると、むしろ先頭に立って戦争に賛成しないと、生き残れないと考え、保守的なメディア以上に戦争を煽動するということが行われたりするのです。その典型的な例が1930年代の満州事変後の朝日新聞で、それまでのリベラル、適切な批判をしようとしていた論調が一気に変り、自ら進んで戦争をあるようになります。この大転換について、戦後、朝日新聞の関係者は、さまざまな政府の圧力が理由と言うことにしていますが、詳しくみてみると、まだ情報管理が厳しくなかった段階で自ら進んで報道の向きを転向していて、その背景にあるのは、保守的な戦争をあおるメディアがその報道内容によって売上を伸ばしたということも影響しているのです。
しかしこういった時期以後の、戦争賛美の報道は次第にエスカレートし、国際的なバランス感覚を失って、日本人には受け入れやすくでも国際的には認められないような報道が繰り返されるようになり、そういったバランス感覚を欠く世論が形成された結果、ますます世界から日本がどう見えているかというような、日本人にとっては「苦い薬」に相当する情報は受けいられなくなって来るという悪循環に陥ってしまうと考えられます。
こういう事態は、「古い問題だ」と考えるかもしれませんが、決してそんなことはありません。今の米国市民は、イラク戦争について日本人より認知度が低いと言われています。米国政府がそんなに悪いことをするわけはない、この戦争は正義の戦争だ、悪いのはテロリストだ、という政府のいうことを信じ「たがる」マインドになっていて、米国が海外でどれほど嫌われているのか、見ようとしない状況になっているわけです。
日本でも同じ状況が起きています。北朝鮮のミサイル発射に対して、政府の高官が「日本は先制攻撃として北朝鮮にミサイルを撃ち込むべきだ」と堂々と行ったりしています。「日本がミサイルの危機にさらされているのだから、敵のミサイル基地を先制攻撃するのは防衛権のうちだ」というわけです。もっともらしくきこえますか?
日本は、現行憲法により、交戦権を否定しています。自衛権はあるという解釈ですが、自ら進んで選果を開くことは認められていません。政府というのは、憲法を尊重して仕事をするように決まっていて(あたりまえですが、政府が法律を守らなければ、法律の意味がありません)、その政府の閣僚が自ら憲法に明らかに違反することをするべきだという発言をするということは、警察官が、逮捕した容疑者を「こんな悪いやつは殺してもいい」と勝手に射殺してもいい、と主張しているようなものです。その政治家は、憲法を改正してやればいいと行っていますが、今、自民党が議論している憲法改正案でも、自衛権と自衛のための軍隊の保有は認めると行っていても、自ら進んで行う戦争については否定するという立場です。まったく議論にも乗っていない種類の憲法改正を閣僚が語り、その改正憲法をもとに先制攻撃をしようという議論が、いかに飛躍しているかわかります。
こういう法的な問題を、メディアが指摘しなければならないのに、もはや日本のメディアはこんな単純な法的議論さえ報道しなくなっているのです。戦争が是か非か、というような場面で、政府が本気でメディアをPRのツールとして使おうという状況になったら、それに対抗して本質的な報道を使用などというマスメディアは、日本ではいますでに存在していないというべきです。このほかにも、政府要人の靖国神社参拝や、A級戦犯合祀問題について、きちんとした報道をしているところはもはやほとんどありません。
前回、「さらに別の「娯楽としてのメディア」という状況が絡んでいるのですが、この点についてはまた次回」と書いて終わったのですが、この話は今回できないうちに終わってしまいました。ということでまた次回に持ち越します。
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