(by paco)265民主国家に、戦争ができる理由(6)

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(by paco)湾岸戦争については、10数年前なので、覚えている方がほとんどだと思います。イラクが突然隣国のクウェートに侵攻して占領したことに対して、当時大統領だったパパ・ブッシュが国連などを通じて撃退を呼びかけ、多国籍軍を編成し、圧倒的な軍事力でイラク軍をクウェート領土からイラク領に押し返した戦争でした。

この戦争が起きた背景には、米国のイラクに対する挑発があったといわれています。当時、イラン=イラク戦争が終結して間がなく、イラクは対イラン戦争のために組織した100万人の陸軍力を持つ、中東一の軍事強国になっていました。この軍事力は中東の軍事バランスを崩すものだったため、米国はイラクを挑発してクウェートに侵攻させ、それを口実にイラクの軍事力を大きく削るという目的があったのです。

イラクのフセイン大統領は、クウェートはもともと自国の領土だと主張していました。クウェートが国境付近の油田でイラク領内の油田を「盗掘」していることに対して、「軍事行動を起こそうかな」と発言していたのですが、これに対して、米国は「中東の域内の紛争について米国は緩衝するつもりはない」という趣旨の発言を起こったのです。これを、フセインは「イラクがクウェートに軍事侵攻しても、米国は黙認する」というメッセージと受け取り、クウェートに侵攻したのです。

ところが実際に侵攻してみたら、パパ・ブッシュはこれに激怒し、多国籍軍を組織して圧勝したのが湾岸戦争でした。ちなみに中東各国の国境線は、20世紀初めにイギリスが植民地政策のために意図的に各勢力を分断するように引いたもので、確かにイラクとクウェートの国境線には本来的な意味での必然性は薄かったのでした。

ではそもそもなぜイラクが軍事強国化したのかと言えば、それ以前の1978年、イラクの隣国、イランでイスラム革命が起こり、米国よりの近代化政策をとっていた国王が追放されて、ホメイニ師によるイスラム原理主義的な政府ができたことが発端でした。このイスラム革命が周辺の産油国に広がるのを恐れた米英は、イランの宿敵、イラクに軍事援助を行ってイラクと戦争をさせ、8年にわたるイランイラク戦争(80?88年)を起こして、イランを封じ込めたのでした。その結果、フセインのイラクは強国化し、90年の湾岸戦争につながったという戦争の歴史があります。イラクのフセインを強大化させたのはほかならぬ米国なのです。

ちなみに、今は紛らわしい国名のイランとイラクですが、イランはかつてはペルシャと呼ばれ、古代ギリシャの時代から西アジアの最強国でした。イラクはチグリス川ユーフラテス川の流域国家で、いうまでもなくメソポタミア文明発祥の地です。どちらも誇り高い文明国なのです。

さて、この湾岸戦争では、メディアの取材は完全に米軍の支配下に置かれて、自由な取材は実質的に禁じられました。従軍記者を集めて「プール」し、彼らにだけ取材を許し、米軍が報道を望む情報は流し、取材した記事は徹底した検閲を行って、不利な情報はいっさい流さないよう管理されました。戦況についての情報は米軍が自信が流すもの以外はまったく報道されなくなり、その代わり、精密誘導ミサイルでイラク軍の戦車が破壊される映像や、パトリオットミサイルがイラクのミサイルを迎撃して打ち落とす映像が提供され、まさに戦争がテレビで「実況中継」された最初の戦争になりました。映像は徹底的に「消毒」され、空爆の下で多くの人が悲惨な死に方をしていることについてはまったく感じさせないほど徹底したものだったことは記憶にあるところです。当時も「この映像では人が死んでいることなんかまったくわからないね」と話していたことを思い出します。このプール方式の報道規制と検閲のすさまじさについては、のちにジャーナリストたちに「もはや報道ではなく、宣伝担当者に過ぎない」と言わせています。

戦況や死傷者数などの重要な情報について、公式なもの以外いっさい流さないというだけでなく、たとえば戦闘機パイロットの取材記事では「気さくなパイロット」という表現を「誇り高きパイロット」となおさせるという細部にまでおよびました。米軍の検閲に対して異議を唱えれば、軍内部で検討すると「持ち帰り」にされ、長期間放置されました。速報性が重要なニュースですから、これでは情報が腐ってしまうため、メディアは検閲に通ることを最優先せざるを得ませんでした。

さらに、露骨な情報操作も行われました。ペルシャ湾に大量の重油が流れ出て、ウミウが油まみれになるという映像が世界に流れたのですが、その時、米国は「イラクがやけくそになった行った環境テロだ」と主張し、メディアにながさせました。これによって世界の世論はフセインを悪魔のように理解して、米国よりの世論が強くなったのですが、実際にはイラクが主張するように、米軍機による精油所の空爆が原因だったことが戦後明らかになりました。大嘘だったわけです。

イラクによるクウェート占領中に、イラク軍がクウェートの病院に侵入して、保育器の中から未熟児を引きずり出し、床にたたきつけて放置して、300人以上の新生児が死んだという証言も行われました。この証言は「少女ナイラ」が米下院で証言したもので、ときどき涙を見せながら、精確な証言をして、米国下院議員の同情を買い、フセインをヒトラーのようなワルモノに仕立てるのに成功しました。しかしこの「少女ナイラ」は、実は駐米イラク大使の娘で、米国のPR会社が「制作」し、徹底的な「演技指導」を行ったものだということがあとになって判明したのでした。

「環境テロ」や「涙の証言」だけでなく、軍事上の情報も多くが誇張され利ねつ造だったことがのちに判明します。イラクからのミサイルを「打ち落とした」とされたパトリオットは、成功率が7%ほどだったこと。精密誘導で目標だけを破壊するとされた爆撃は、実は全体の3割程度に過ぎず、多くは目標付近をじゅうたん爆撃するものだったといったことものちに判明しています。

しかし、戦争が侵攻している時点で、イラクがワルモノ、多国籍軍が正義という情報が多く流され、米軍は犠牲者の少ない精密な攻撃をしているから勝っていると伝えられると、世論はそれを信じてしまいます。その時点で信じてしまえば、あとから「間違いだった」「ウソだった」と小出しにしても、もはや市民の関心は次のできごとに移っているので、以前の記憶を修正するまでには至らず、湾岸戦争では多国籍軍は「とても」正義だったという印象は変らないのです。

米国政府は、日露戦争以来の戦争とメディアの歴史を徹底的に研究することで、こういった手法を確立し、常にリファインしているために、市民の多くはかんたんに政府のいうことを信じてしまい、騙され、その記憶は修正されることなく続いてしまう。これが民主国家が戦争をするときの、基本的なメカニズムなのです。

90年代後半に続いたバルカン半島での戦争(セルビア、クロアチア、ボスニアなどの内戦)では、このような情報コントロールがさらに加速し、情報戦に大手PR会社が雇われて、事実以上に、一方が悪、一方が善というPRがなされるようになります。ボスニアの内戦では、ボスニアの外相シライジッチと米国のPR会社ルーダー・フィン社が契約し、敵国のセルビアのイメージダウン戦略を徹底的に行った結果、国際世論が動き、NATO軍による空爆につながり、セルビアは敗退しました。

今や戦争の裏には、というより、戦争にとってメディアとメディアによるPRはまったく不可分の関係にあり、メディアは国家にとって重要な「武器」になっています。その事実は、僕らにとっては「うすうすわかっている」ことではあるのですが、その度合いが、おそらく「わかっている」というレベルを遙かに超えて、すさまじいものであることを認識したほうがいいと僕は思います。少なくとも戦争に関する限り、メディアは公正中立な情報提供など、まったくしていないのです。

ここには、さらに別の「娯楽としてのメディア」という状況が絡んでいるのですが、この点についてはまた次回。

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