(by paco)264民主国家に、戦争ができる理由(5)

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(by paco)前回までのところで、民主国家の政府が戦争という意思決定を行うに当たって、
メディアを必要とし、そのためにメディアを舵取りするためのしくみを用意しているという点について書きました。放送も新聞も、政府に経営や存在の首根っこを押さえられることによって、基本的に政府の意思に反する報道や主張がしにくく、また政府が本気になって押さえ込もうと考えれば、かなり露骨にコントロールすることができるのです。

放送メディアも新聞も、「報道の中立」を建前にしています。しかし、実際には中立ということ自体を明確に規定することは難しく、企業としての存在も政府のコントロール下にあるわけですから、その「中立」が実際に立っている場所は、かなりべったりと政府よりになり、客観的な報道や政府・軍に不離になるような報道は限りなく不可能になっていくのです。

つまり、戦争当事国のメディアは、中立な報道というものは原理的に流れにくく、政府が情報をコントロールした、政府よりの情報ばかりになっていくという仕組みがつくられているのが、民主国家が行き着いた今の状況なのです。そしてそのことによって強力に戦争に対する国民の支持を取り付け、その強力な支持をもとに、国民の「生産」の多くを「進んで戦争に差し出させる」ことが可能になります。

こう考えてみると、イラク戦争について、客観的な情報をいちばん持っていないのは戦争当事国である米国と英国の市民ということになります。日本も米英側について実質的に「参戦」しているので、ほぼそれに近い状態にあると考えるべきです。といいつつ、この話はまた機会を改めるとして、今回はもう少し時間を前に戻して考えてみます。

史上初めて、メディアによる情報戦が行われたのは、1904年の日露戦争だと書きました。その後、第一世界大戦、第二次世界大戦を経て、新聞中心からラジオが国家(政府)を支える媒体になり、さらに1960年代のベトナム戦争になるとテレビがその座を引き継ぎます。ベトナム戦争の時には、米国政府ははっきりとテレビ優先の方針を打ち出し、記者もテレビ記者を優遇しました。軍は従軍記者が取材したいという場所があれば、優先して運び、原稿を送るためのテレックスや電話も優先的に使わせました。当時はテレビといっても、どこからでも中継ができる今の時代のような技術はなかったので、フィルムの35ミリや16ミリカメラを担いで取材し、撮影しました。しかし撮影したフィルムを現像する設備がベトナムになかったために、フィルムは軍用機で米国に運ぶか、または軍用機で東京に運び、東京で現像した上で、実用化されて間もないインテルサット衛星を通じて米国に伝送されました。こうして史上初めて、戦場の映像が米国家庭のリビングルームに届けられるようになりました。

しかし、ここからが、これまでの話とは別の方向に進み始めます。当初は米軍の軍事行動は好意的に報道され、米国民の支持は強まっていきました。しかし戦況がなかなか好転せず、さらに「ソンミ村の虐殺」事件など、米軍の醜態の映像がそのままリビングのテレビから流れるようになると、米国市民の反戦気運は次第に高まっていきました。

結局米国はベトナムから撤退することになるのですが、そのことは、米軍にとっては「背後から銃を向けられる」行為と映り、その「背後の銃」を向けさせたのが、テレビメディアだと考えるようになりました。ベトナム戦争はメディアに報道を自由にさせたことによって、米国民の支持を失わせ、負けなくてもすんだ戦争に負けたというように、軍と政府を理解させたのです。

しかし、米軍が負けたのは、もちろんテレビ報道のせいではなく、ベトナム戦争の大儀が米国になかったことにあります。ベトナム戦争は、当時、ソ連が支援する北ベトナムと米国が支援する南ベトナムという両者による「代理戦争」だと考えられていました。しかし実際には、ベトナム人にとってこれは「ベトナム自身の独立戦争」であり、独立を強力に指導できる人物(ホー・チ・ミン)がいたのが北ベトナムだったということを、米国は見誤っていました。北ベトナム政府が「ソ連が支援する共産圏の最前線」という理解が実はずれていて、ベトナム戦争は、東西冷戦の代理戦争ではなく、独立運動だったのだ「見識」を持てなかったことが原因でした。つまり、米国政府がベトナムの状況を正しく見る見識がなく、誤ったとらえ方(冷戦の最前線)をしていたために、戦わなくてもいい相手と戦っていた、というのが実態です。

さて、実際には、大儀がなくて負けた米軍ですが、負けたという傷は深く、米国政府に留まらず、世界の軍事国家は米国の敗北とマスメディアの報道との関係を徹底的に研究し、「次の戦争」に役立てることができる知見を得ようとしました。

そしてその成果が試されたのが、1982年のフォークランド戦争です。この戦争は、南米大陸の南端に近い、大西洋(大陸の右側)500kmに浮かぶ小島である、イギリス領フォークランド諸島を、アルゼンチン軍が突然襲い、占領したことから始まり、イギリス軍がこれを奪い返すまで続いた戦争です。

このときには、「鉄の女」サッチャー首相が、強力な指導力を発揮し、ベトナム戦争とメディアの関係を徹底研究した成果を実践に応用しました。記者の行動と報道の内容は徹底的に制限され、英国民に知らせたい内容を知らせたいように脚色した報道だけが英国民に届けられたのです。この結果、英国民はサッチャー政権を圧倒的に支持し、「なぜ英国がフォークランド諸島を領有しなければならないのか」といった本質論はまったく出る幕がなくなり、また英国軍は薄氷を踏むぎりぎりの作戦を行っていることも国民はまったく知らずに、大英帝国の軍隊の強さに熱狂していたのでした。

ベトナム戦争での米国の敗北とメディア管理の失敗。その後のフォークランド紛争での英国のメディアに対する強力な管理とその成功。このふたつは、その後の戦争をしたい政府とメディアとの関係を決定づけました。

戦争をするならメディアを管理し、政府が伝えたい情報だけに制限する必要がある。メディアの当世に成功し、国民と世界の世論の支持を得ることができた方が、戦争に勝利する。そんな方向がはっきり出現してきました。

そんなコンセプトがはっきりと実現したのが、1990年代の湾岸戦争と、ユーゴスラビア崩壊後のバルカン半島の紛争なのですが、これについてはまた来週。

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