(by paco)亜細亜大の学生にロジカルシンキングを教え初めて、4年ほどになります。今年は前期が入り立ての1年生50人には必須科目です。後期が選択クラスで上の学年20人ほどにじっくりゼミを行う予定なのです。
学生に教えていて感じるのは、「正解を教えてほしい」というマインドがとても強く、ここを突破するのが難しいという点。グループワークをやっていて、付箋紙を貼ったりはがしたりしながら議論をしているところに回っていくと、「これでいいの?」「どれかあたりがある?」と良く聞かれます。そのたびに「正解はないんだよ、どうやってもいいから、なぜそうなったかを説明できるようにすることがこのクラスでやりたいこと」と話します。
この説明で、ぴんと来る人と来ない人がいて、5?6人のグループに一人でもぴんと来る人がいると、ディスカッションはぐぐっと深まるのですが、一人もいないグループは戸惑いからなかなか抜け出せない。
うまく進むグループとそうでないグループの違いはどこにあるのかなと考えていたのですが、気がついたこと。
うまくできないグループは、講師の僕がどんな答えを求めているのか、いろいろな説明を思い出しながら探ろうとするのです。「先生、こういってたじゃない」と話し合っている声が聞こえたりするのですが、でも、僕は答えに直結するようなことは言わないようにリードしているので、まずわからない。情報が不足しているのですが(そのように課題を作ってある)、それを補う思考に入れない。書いてあることだけで論理を積み立てようとするので、穴ばかりの情報からはロジックを作れないのです。
何をするかちょっと気がついたグループは、「こういうことってあるよね」というように、事例を考えたり、きっとこうだ、とか説を自分たちで考えて、付箋紙を貼り、チャートを完成させようとしはじめる。アイディアが出ると考えが進み、それによってデスクの上に構造ができあがってくるし、わからなかったことが説明できるようになるので、気がつくと「わかった、これおもしろい!」と進むようになるのです。
この、「どうすればいいかわからない、自分で発想するモードにならない」グループと、「自分で考えたことを書けばいいんだ」と気づいたグループの違いは、「情報を与えられるのを待つ」モードと、「情報は自分たちが考え出し、引き出す」モードの違いです。自分たちで考えたものを入れればいいんだと気づくと、アイディアが出るし、おもしろがるようになる。
このことは、もう少しおとなの世代でも実は共通していて、社会人の研修でも同じことが起きるのですが、社会人の方がずっと早く気がつきます。それだけ、自分の頭で考えることになれてきているのでしょう。
でも、その時のイシューが「自分のライフデザインについてのこと」になると、急に学生に戻ってしまうことが良くある。情報が足りなかったり、情報をつなぐロジックが足りないと、「どこかにないかな」と探すモードに戻ってしまう。たとえば、「コミュニケーションの仕事がしたいけれど、今の自分の状況からコミュニケーションの仕事につながるルートが見つからないから、できない」という感じでとまってしまう。でも、答えは自分が見つけていくものですから、「どこかにないかな?」と考えるのではなく、「今の場所から北にへ行くには、まず左へ曲がるんだろうな。それともいったんまっすぐ行ってから左の方がいいかな」と自分で地図の上にルートを書く発想に切り替えなければ、道が見つからない。誰かに右と言われたから右に行くというより、「まっすぐの道の方が花が咲いていてきれいだから行ってみよう」という選択の方が、自分で見つけようとしているという点で、正解に近いのです。
コーチングでは「答えはあなた自身の心の中にある」と考えます。このアプローチは正しいと思うのですが、そういわれた相談者が、「私の心の中には答えはない、答えはどこからか探してくるものだ」という確信を打ち崩せないことは良くあります。あるいは「私の心の中にある」ことと、「外から探してくる」ことの違いを、そもそもうまく分けられないほど、自分の頭で考えられないことも良くあります。その意味で、学生の「答えを欲しがるマインド」を、大人は「まだまだ子どもだな」と笑うことはできません。学生や新入社員の行動を未熟だと感じたら、それと同じことを、自分は自分のライフデザインの場面でやっていないか、考えてみてください。自分のこととなると、急に子どもっぽい発想になっている、というのは良くあることなのです。
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