(by paco)戦争についての研究を進めています。Global Eyesのテーマでこちらに書くのはかなり生なものばかりなので、僕自身、確信が持てていないようなことを書いていくので、よくわかっていなかったりするところもありますが、そういう生のところをお楽しみください(^^;)
という本がタネ本ですが、ほかにもこのテーマはいくつもの本に出て来ます。
無料版や旧pacolog!で「なぜ戦争が起こるのか」というイシューについては書き続けているのですが、その中で、何度か統帥権の問題が出てきています。日本の15年戦争(1931年の満州事変から1945年の太平洋戦争終結まで)の原因を考えるとき、統帥権(あ、これはトウスイケンと読みます)の独立という問題が浮かび上がってきて、これをどう評価するかが大きなカギになるからです。
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統帥権とは、軍を指導する指揮命令例の権限のことで、要するに戦争の決定がどうやって行われるのかを決めるプロセスでの、当時の独特のシステムを指します。また、戦争の結果の責任は誰にあるのかという規定でもあります。戦争という行為を決めるのは誰で、その人はどのような立場であるべきでしょうか。通常は、戦争の決定は国家元首が最終責任者になります。米国なら大統領、イギリスなら内閣総理大臣。日本は憲法が戦争そのものを認めていないので、総理大臣には戦争を決定する権限がありません。
大日本帝国では、国家元首たる天皇がその権限を持っていました。しかし、国家元首は戦争や軍の能力について十分詳しいわけではないので、実際には誰かがそれをサポートする必要があります。米国ではそれは国防総省の長官にあたり、その下に軍隊(制服組)の長である将軍がいるという指揮命令系統になっています。将軍が戦争の意思決定権を握ると、戦争をしないという判断が難しくなるため、意思決定の上層は軍出身ではない文民が行うというのが、近代国家の基本的な考え方です。
大日本帝国では、この軍のコントロールがうまく効かないしくみにになっていて、それが軍の暴走を招いたのですが、そのしくみが統帥権の独立なのです。軍事の長は天皇で、総理大臣、陸海軍大臣と意思決定が下りるのが本来の流れであるはずが、軍事がわからない総理大臣が間にはいると、首相と陸海軍相との間で戦争をやるかやらないか、見解が分かれたときに、天皇の意思決定を「迷わす」ことになる。また首相が戦争の意思決定に関わることは、戦争の最高決定者である天皇の権限(大権)を犯す、という論理が展開され、統帥権は内閣とは独立して、天皇の直属であるべきだという仕組みがつくられました。統帥権の独立です。統帥権を担う機関として、参謀本部が置かれ、戦争が拡大すると、大本営という名前に格上げされて、総理大臣も議会も権限がおよばない、戦争を自由にできる権限を手に入れていくことになります。参謀たちは、陸海軍大臣さえないがしろにして、自分たちの考えの通り戦争を指導していくわけですが、その時の制度上のしくみが、統帥権の独立、つまり天皇の戦争の意思決定をサポートできるのは、参謀(大本営)だけだというしくみだったのです。
このしくみが日本を、コントロールの効かない15年戦争へと追い込んでいくわけですが、このしくみができたのは、15年戦争の遙か前、明治中期の1988年頃とされています。西南戦争での反省と、日清戦争を準備する中で軍のコントロールを戦略化するというのが思想だったようですが、結局この頃つくられた統帥権の独立というルールがその40年後の昭和史を縛っていくというストーリーになります。
ちなみに、統帥権がこれほど強固に独立していた近代国家は、日本と第二帝国と呼ばれる1871年代?第一次大戦終結までのドイツだけです。どちらも破局的な敗戦を迎えるという点では似ていますが、日本はその間に、日清・日露の戦争を戦い、国力を増強させていますから、統帥権の独立・強化という制度をどう評価するかは、簡単な問題ではありません。
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