(by paco)249直観と論理

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(by paco)ライフデザインに限らず、論理思考を使うときに、けっこうよくぶつかるのが、直感やひらめきと、論理との関係です。

自分はこういうことがしたい、でもなぜだか説明がつかないということもあるし、論理的に考えればこれをすべきだが、気持ち的には別のことをするべきだと思う、という場合もあります。

まず言葉として区別したいのは、直感と直観です。似ているし、日本人の多くは「直感」の方しか知らなかったりするのですが、大事なのは「直観」の方です。どう違うのかというと、辞書にも区別されているとおり、直感の方は「何かを瞬間的に感じ取ること」で、危険が迫っていることを察知するとか、全身を覆う服を着ているのに、見ただけで肉親だとわかるとか、そういう感覚的な理解をいいます。一方「直感」は、経験や推論によらずに、ものごとの本質や真相を直接的・瞬間的に理解することをいいます。直感の方が「感覚が直だ」という意味なのに対して、「直観」は理性の働きなのに、論理の展開を挟まずに理解するという意味です。

「自分は本当は物を売るのではなく、人を楽しませることが好きなのだ」ということを、理屈ではなく、理由もよくわからないけれど、わかっているというのは直観の働きです。自分が本質的に好きなことを、感覚器官(五感)で感じることはできません。西洋哲学では、このように感覚(しばしば感官による知覚と呼びます)に属することと、理性や知性に属することとは厳密に区別されます。ヨーロッパの近代哲学が、心と体の二元論から出発し、人間の理性は肉体を離れても存在できる、という問題を検討し続けてきたので、肉体に属する感官の機能である直感と、理性の働きである直感は、区別せざるを得ないものだったのです。ちなみに、感官は肉体=物質に属し、理性は神の領域に属すると西洋近代哲学は考えました。ですから、神の領域と物の領域の両方を併せ持った存在としての人間を、どう理解するかが、近代哲学の大きな問題になったわけです。これは、全知全能で誤りを犯さない神が、自らに似せてつくったはずの人間が、なぜ誤りを犯すのか、ということに対して、理性面での説明をつけるためでした。感官は誤るが、理性は誤らない、と説明したかったのですが、そうはいかなかったというのが、西洋近代哲学の悩ましさなんですけどね。

というような哲学史の背景を説明すると少しわかるかどうか、わからないのですが、直感はあくまで理性の働きで、感覚器官=五感が感じることとは別のことです。自分は「<ちょっかん>型の人間だ」「右脳型の人間だ」と感じている人は、自分の「直感」は本当の意味での「五感で感じる意味での直感」なのか、物事に対する深い理解や認識という意味での「直感」なのか、そのときどきの<ちょっかん>の意味を考えてみるといいでしょう。たぶん、意外に「直観」を働かせていているのではないかと思います。

直観は、あくまで理性の働きで、論理的な説明はうまくつかなくても、真実や本質に直接迫るものでした。自分が他者のストレスを解消してあげることがいちばん好きなことだとわかったとして、なぜほかのことではなく、他者のストレスを解消することがいちばん好きなのかを説明することは、意外に難しいことです。でも説明がつかないからといって、直観で得た結論が、間違っているということではないのです。

理解のプロセスとしては、まず直観があり、それを理性が論理的に説明しようとするという努力の中で、両方がかみ合ったときに、いちばん自信を持って自分の考えだと実感することができる、といってもいいでしょう。

もちろん直観を直観のままにして、論理のサポートをあえてつけないという方法もあるでしょう。直観は無視して、論理展開を通じて出てきたものだけを自分のものとして扱うという方法もあるでしょう。どちらも間違っているとはいえません。

しかしもしあなたが直感的にひらめくタイプなら、それを大事にするべきです。大事にするということは、論理的な裏付けをするということであり、なぜ自分がそんな直観に至ったのかを常に考えるということでもあります。日本人の多くは、直感と直観を区別していないし、それ故に直観と論理も相容れない別物と考える傾向があります。これが、ライフデザインを難しくしているのです。

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