(by paco)最近感じるのは、人間というのは本当に人それぞれ個性があるものだなあということ。歩き方、手の所作、表情、体つき、声など、外に現れている部分。そして考え方、心、感受性。性別、年齢、経歴など、一見似ているように見える人、一人一人がこれほど違うんだなあということに愕然とすることが多い、今日この頃です。
もちろん、こういうことは昔から「わかっていた」ことなのですが、最近特に感じるようになったのは、個性の違いを感じる僕自身の感受性が鋭くなったのだろうなあと思っています。たくさんの人との出会いを通じて、違いを見る目が養われてきたのかもしれません。
最近特に注目しているのは、声です。FM放送(特にJ-WAVE)を聞いていることが多くなって、特に感じるようになったのかもしれませんが、顔の見えないラジオ放送の分野に、最近映像というかビジュアルがかなり入ってきました。ウェブサイトが充実して、DJやゲストの顔が見れるようになり、ゲストの場合、自身のウェブサイトを持っていることも多いので、そこでさらに多くの写真や動画、また仕事ぶりやブログまで読めることが多いわけです。
そうやってラジオ番組を楽しんでみると、声の存在感が際だって感じられるようになりました。ラジオでいろいろな声を聞き、話していることがおもしろそうだったり、かわいい声の人、落ち着いた声の人、ちょっと引っかかるところがあれば、すぐに本人を確かめてみます。すると、その声にぴったりのイメージの写真が出てくる場合もあるし、え?こんな人なの、と思うこともある。一致もギャップも、それ自体が楽しいし、いきなり映像で見たり、合ったりするより、声だけからその人を知った方が、より奥深く、その人のキャラクタに触れられるような気がしてきたのです。
外見や容姿が人に与える印象については誰もが気にしています。でも声や言葉を発する強さ、大きさについては、あまり気にしない。そして話を聞く方も、それほど気にしていない。でも実はとても大きな影響を与えているのだなと思うようになりました。
たとえば恋に落ちるかどうかには、声がけっこう大きく関わっていて、声が気持ちよく耳に響くかどうかがかなり大きな要素なのではないかなとか。声を聞いていて、この声の持ち主なら恋に落ちてしまうかも、と思うこともあります。もちろん、ラジオの声に恋をしてもどうなるものでもないので、単にイメージを楽しんでいるだけですが。
このような要素は、声だけではありません。その人のキャラクタを決めているものはたくさんある。
僕は、身長が160センチほどのチビで、以前はものすごくコンプレックスでした。今になると、あの頃なんであんなに背が気になったのか、わからないぐらい、それはそれは気にしていました。背が低いから恋もできないんだ、女の子にモテないのは背のせいだ、とか。実際、あの年頃の女の子は視野が狭くて残酷ですから、平気で「背が高くなくちゃね?」と哀れみの表情を浮かべたりされて、まあ落ち込んだりしていたわけです。でも、結果的に見ると、僕は中学以後、けっこう切れ目の方が少ないぐらい、それなりの数の女性と付き合うことができたし、早いタイミングで結婚することになる相手にも出会えたので、実際のところ女性にはわりと恵まれていたのです。つまり、女性たちは、口では「背が低いのはね」といいながら、実はけっこう違うところを見ていた。そのことに、いまごろになって気がつきました。
その見ている部分のひとつが、もしかしたら声であったり、あるいは指だったり、方だったり、背中だったりするわけです。きれいな指にセックスアピールを感じるという女性が意外に多いことに気がついたのも、最近です。
さて、こんな話がライフデザインとどう関係するんだろうと思うかもしれませんが、けっこう関係しているのですね。ライフデザインに成功するということは、自分が持っているキャラクタのうち、何かが人に受け入れられ、支持され、それを必要だと思ってもらうことなのだと、そう思うのですね。
もちろん、キャラクタだけではダメで、人に提供すべき中身、たとえば僕なら、こうして書いた文章の中身や表現力、論理思考などつと会えるべきコンセプトなど、提供すべき中身に価値があることは重要です。しかし、この中身の方は、(極論をすれば)実はあまり差別化する必要はないのです。
僕のLife Design Dialogueでは、自分の好きな分野に取り組みつつ、それでお金を稼ぐ/起業するという方補を一緒に考えていくわけですが、その時に言い続けるのは「何が売り物になるか」ではなく、「何が好きか、何をやっていたいか」です。「自分がやっていたいこと」にフォーカスしているだけなので、それが他の人がやっている類似のものと比べて、優れているかどうか、競争力があるかどうかという点にはほとんど注目しません。差別化できなければ勝負にならないと考える人が多いのですが、僕はそういうことにはずっと注目してこなかったのです。
ひとつは、自分がやりたいことにフォーカスを当て続けると、必然的に個性的になっていく(オンリーワンになる)ということもあると同時に、仮にそれが他の人の類似のものと比べて、あまり変らないものであったとしても、それをその人のキャラクタを媒体として提供するということまで含めれば、圧倒的な個性になるからなのです(ということに気がついたのはごく最近です)。
ということで、ライフデザインを成功させるには、自分がやりたいことがビジネスになるのか、売れるのかということにあまり注意する必要はなく、自分がやりたいことが少々凡庸であっても、他の人とは違う、圧倒的な自分のキャラクタを活かし、それに乗せて、セットで提供できれば、それで十分その人だけのもの、オンリーワンのものになるのです。
ということは、「何をやりたいか」ということと、「自分のキャラクタは何かを知り、素直にそれを出す」ことは、クルマの両輪のように重要だということになります。
ところが、ある種の人々はこの「自分のキャラを知り、出す」ということが苦手で、妙に隠そうとする。特に起業したいという思いが強い人は、「起業家とはこうだ」という思いこみが強いのか、自分をうまく出せていない人がよくいます。自分のキャラクタをうまく出せないと、提供したいもの、本体だけで勝負しなければならなくなり、これでは自ら競争の源泉を半分捨てているようなもの。自分らしく起業している人は、多くが個性的で、その人のなり自体が魅力的だということに、もっと注目するべきでしょう。
Life Design Dialogueでは、初期のブログを書く段階からその人らしさ、その人の本音の部分がうまく出せているかをていねいに見ようと思っています。同じ定説を語るのでも、その人のキャラクタを通して語るのか、借り物のキャラで語るのかでは、説得力がまったく違うのです。と同時に、あるメッセージが、本人のキャラが反映されているのかでそうではないのかを判断できる「目利き」がいないと、本人も自信を持ってそのキャラを押し出していいのか、判断できません。僕はそういう目利きでありたいと思っています。
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